夢と葉桜 エピローグ
「う~~~~~~~~~~~ん」
そんなうめき声をあげてもアイデアは浮かばないということは分かっているが、そういう理屈じゃない。どんな人だって悩む時は「う~ん」と声をあげてしまうものだろう。生理現象と同じでそれは普通の人には止めようのないもののはずなんだ。少なくとも自分には。
パソコンの前で回転式チェアに座りながら思考を無理くり働かせるようにくるくると椅子を回していると、不意に声がかけられた。
「何をそんなに悩んでるのよ大先生」
「先生なんて呼ばなくていいよ。今の僕はベストセラー作家じゃない。ただのペンネーム
「そんなんじゃいつまで経っても『無冠の文豪』のままだね」
昔から変わらない少し手厳しいその言葉に、僕は苦笑を返すことしかできなかった。
故郷に戻ってきてもうすぐ一年。いろいろあって、僕は彼女との同棲生活を始めていた。別に彼女と“そういう”関係になったわけではないんだが、自殺未遂を図った僕を放っておけないと彼女の方から言い出したのだ。「一緒にいてあげる」と。
最初は抵抗も後ろめたさもあったが、存外長く続いている。それに、彼女が一緒にいてくれてなんだかんだ救われた部分も多かった。自分を見失わないで済んだし、時間はかかったけどもう一度、作家として再起しようと思えるようにもなったのだから。
「なにあんた、ネタが出てこないからってチャットなんかしてるの?」
「アイディア出しに困ったときは人がいるところに出向くといいんだよ、知らなかった?」
「で、そのアイディアとやらは浮かんだの?」
「………もう少しかな」
「まったく。締め切りまでそんなに余裕ないんだから、ほどほどにね」
「分かってるよ」
たしなめるようにそう言う彼女の姿は、すっかり一人前の小学校教師のそれになっていた。少し言葉がきついところはあるが決して優しさがないわけではない。むしろ誰よりも優しい。そういうところは子供の頃から変わらないし、学校の生徒たちから慕われているという話も頷ける。
ふと、部屋の窓から外を見ると、春の柔らかな日差しが差し込んでいる。今日は日曜で、僕も彼女も仕事は休みだ。久しぶりに、“あの場所”に行きたいと思った。
「ねぇ」
「ん?」
「ちょっと、散歩しない?」
***
「この階段、子供の頃はもっと低くなかったっけ」
「んなわけないでしょ。あんたが体力落ちただけ」
「エアロバイクでも買おうかな」
「自分のお金で買ってね」
「分かってるよ」
そんな他愛もないやりとりをしていると、僕たちにとって馴染み深いあの岬に到着した。空と海を見渡せるこの場所は子供の頃からの僕たちのお気に入りの場所で、いったい誰がいたずらでこんな場所に植えたのかと思ってしまう桜が一本だけ生えている。いじめられた僕を手当てしてもらうときも、僕が書いた拙い小説を読んでもらうときも、僕が命を断とうとしたときも、彼女はこの場所で一緒にいてくれた。
「桜、綺麗だね。ちょうど満開のタイミング?」
「うん、そうだね」
「咲良岬ってペンネームさ」
「ん?」
桜の木を眺めていた彼女が徐に口を開いた。
「我ながらいいセンスだと思うんだよね」
「あぁ、そういえば君がつけてくれたんだっけ」
そう、僕がずっと使い続けている『咲良岬』というペンネームは彼女が考案したものだった。学生時代、いずれプロとしてデビューするなら何かペンネームを用意した方がいいとこの場所で頭を悩ませていたとき、隣にいた彼女が唐突に言ったのだ。
「咲良岬っていうのは?」
桜と岬。小説家・咲良岬はこの場所で生まれたんだ。
だからこの場所で死のうとした。
でも彼女に救われた。
「桜ってすごいよね」
思わずそんな言葉が口をついた。
「何が?」
「枯れても毎年白い花が咲くところ」
「あんたもきっとそうなれるわよ」
いつもよりは気持ち優しげに言ってくれたその言葉は、僕の心に深く深く染み渡った。
「いつか―――」
「?」
「いつか、君が感動できるような話、書けるようになるよ」
「———うん。楽しみにしてる」
海風に乗って、白い花弁が一枚僕の手に舞い落ちた。
今なら書ける気がする。そう思った。
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