幸運の女神 エピローグ

 子供の頃から電車の駅は嫌いだった。

 人は多いし、時間が合わないとホームで待ちぼうけを喰らい、大きいところだとすぐ道に迷う。駅なんてものは自分にとってただの通過点でしかない。

 以前までは。

「あ、———。おはよう」

「もう昼だけど?」

「さっき起きたんだもん。今日は午後からしか講義ないし」

 駅のホームで次の電車を待っていた自分の背に声をかけてきたのは、幸運の女神。女神に後ろ髪を引かれるというのもおかしな話だ。もっとも、今の彼女に対する印象は女神という神々しいものではない、同じ大学に通う一年下の後輩という身近な色にすっかり塗りつぶされてしまった。それくらいの密度の時間は一緒に過ごしてきたということだろう。

「ずっとスマホ弄ってたけど何してたの?もしかして彼女とか?」

 彼女は少しだけ意地悪な笑みを浮かべる。

「ううん、別にそんなのじゃないよ。ちょっとね」

「ふーん。———、気になる人とかいないの?大学のサークルも入ってないよね」

「それは—――」

 目の前にいるのに。喉元まで言葉が出かかっているのに。伝えたい思いがあるのに。

 なんとか声を絞り出そうとしたとき、手元のスマートフォンが振動した。

【もう一度、勇気を出して!】

 手に握りしめた小さな世界に書かれていたその言葉に、ふと初めて彼女に声をかけたときのことを思い出した。あの時の気持ち。一瞬のことだったけど、自分はかつてないほど勇気を出して彼女の後ろ姿を追いかけた。このチャンスを、“幸運”を逃してはいけないという焦りと僅かな期待を胸に。

 もう一度。もう一度だけ。

 もし本当にこの世界に、それこそ電車の駅なんて場所に幸運の女神様がいるのなら、もう一度でいいから勇気をください。

「俺はおま—――」

『まもなく、一番線に列車がまいります。危ないので、黄色い線の内側までお下がりください』

「あ、電車来た。ラッキー、今日はほとんど待たずに乗れた」

「………」

「?―――、どうしたの?そういえばさっき何か言おうとしなかった?」

 キョトンとした表情でこちらの顔を覗き込む彼女は、いつも通り愛らしかった。あの日、初めて声をかけたときに見せてくれた笑顔と変わらないまま。

「………いや、なんでもないよ」

「そっか、じゃあ今日も一日頑張ろ!」

 

 ―――やっぱり駅は嫌いだな。


 せめて、この後の一日は良いことがありますように。もちろん彼女にも。

 そう願いながら、電車に乗り込む彼女の背中を今日も追いかけた。

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