無辜

 戸惑うようにカーテンが不規則に揺れた。開けっ放しの窓から生ぬるい風が教室に入り込む。

 事故現場は住宅街から近い割にそこそこ交通量が多くて、信号機もあるけれど事故も多いところだった。前は図書館に行くときとか普段からよく利用するところだったけれど、お兄ちゃんのことがあってからは自然と足が遠のいていた。表向きは。


 ばれたかと思った。央くんに事故現場に行きたいと言われて背筋に冷たいものが走る。誰にも言ってないけど、お兄ちゃんの事故現場にはあれ以来もう何度も足を運んでいた。真夜中に目立たない恰好をして、リュックサックに仏花を忍ばせて、遠回りして家から反対方面から向かって一人でお兄ちゃんに会いに行っていた。

 何もないんだけれど、あんなところ。何もないから余計に虚しさが広がる。央くんはなんであんなところに行きたいんだろう?お兄ちゃんがいなくても成立する日常があることを目の当たりにするのは被害者家族にとって凄愴たる気分になるはずだ。優しくて賢い幼馴染を見上げても何を考えているのか私にはわからない。

「もちろん無理にとは言わないよ」

 穏やかな口調のまま央くんは紡ぐ。そういえば央くんがお兄ちゃんのことを話題に出すのは珍しい。ぼんやりと霞む頭でそう思った。何かあったんだろうか。思い出すのは仲の良さそうな央くんとお兄ちゃんの姿、それとお兄ちゃんが亡くなった直後の泣き腫らしてやつれた央くんのお母さんの姿。

「――帰ろうか」

 声をかけられて弾かれたように顔を上げる。あちこちに思考を巡らせる間に話は終わっていたらしい。助かった、と反射的に思った。

 こちらを向いた央くんはいつも通りの表情でさっきまでお兄ちゃんの話をしていた人とは思えなくて混乱する。やわらかく微笑んだ彼の温度を感じさせない目元が、隠すことなくじっと私を見つめていた。

 何て言えばいいんだろう。そういうときは何も言わないことにしている。



「灰咲~ちょっといい?」

 教室の鍵をかけてすぐに、見たことのない女の子に声をかけられた。背が高くすらっとしていて、短いスカートから覗く足は心配になるくらい細くて、サラサラの茶髪はお人形さんみたいな綺麗な人。

「何、どうしたの?」

 央くんの知り合いだったみたいで、央くんは私を気にかけながらも親しげに返答する。

「ちょっとここじゃ言いづらくて~」

「えっ何、メールしてくれれば良かったのに」

「送ったの見てないでしょー。既読つかないからまだ教室にいるかと思って」

「あの、私、鍵返しておくね」

 央くんの手から教室の鍵を奪って足早にその場を離れた。男女特有の甘たるさを含む空気の手前、誰が邪魔者になるのかは火を見るよりも明らかだ。

「律紀!すぐ行くから玄関で待ってて」

 いつもより少しだけ大きい央くんの声に振り返ると、不満そうな表情で私を見つめる女の子と目が合った。高校に入ってからまた増えた、央くんと一緒にいるとたまに向けられる非難と羨望を含む品定めするような視線。

 あれを見るとあんまり央くんの傍にいない方がいいのかなって思うこともあるけれど、央くんは私が泣かせるんだからその辺の子には絶対にあげない。



「待たせてごめん、鍵もありがとう」

 文庫本を読んで時間を潰していると思っていたよりも早く央くんは玄関前に現れた。告白ならもう少し時間がかかるだろうと踏んでいた私は少しだけ拍子抜けする。

「あ、ううん。全然」

 結局さっきの子が何のために央くんを呼んだのか央くんの口からは出てこなくて、お兄ちゃんの話に戻るきっかけもなく、小テストのこととか夏休みのこととか他愛もない話が続いた。水族館とかいいなぁって呟いたら、何でもないことのように来月一緒に行こうって言ってくれた。央くんはピーターパンみたいに私のことを外の世界に連れ出してくれる。

 でもそういえばピーターパンって子どものままの人だっけ?お兄ちゃんが死んでからずっと同じ白衣を着続けている幼馴染が、中学生の頃のままの姿に見えた。じりじりと照らす西日が白衣の白を反射して思わず目を細める。

「お兄ちゃんみたい」

「え?」

「……あ、違うの。見間違ったとかじゃなくて」

 央くんの顔を見なくても失言したのは明らかだった。茹だるような暑さが囃し立てるから思考がなかなか追い付かない。けれど、なかったことになる前に約束は取り付けておきたかった。

「ええと、さっきの話考えてたんだけど。来週、行こう?」

 これ以上間違わないように言葉を絞って話しても、央くんは理解してくれた様子で微笑んだ。

「いいの?ありがとう」

 央くんは安堵したように息を吐いた。個人的にはお兄ちゃんのお墓に行きたいんだけれど、兄弟ぐるみで仲が良かったとは言え彼女でもない他人が血縁関係のない幼馴染のお墓を訪ねるわけにはいかなかったし、何よりお姉ちゃんがそういうのを嫌がった。自分の行き過ぎた行動でお姉ちゃんを悲しませたくはない。

「本当に嫌じゃない?俺が誘ったからって無理してない?」

 私を心配する幼馴染はいつも優しくて緊張が僅かにとけた。

「ううん。私、お兄ちゃんが好きだから……大丈夫だよ」

 目を丸くした央くんを見て、さっきの呼び出しは告白だけじゃ済まなかったと邪推する。あの子のクラスと名前と交友関係を押さえておく必要がある。もちろん目の前の幼馴染にはばれないように。


「じゃあまた」

「うん、バイバイ」

 自分の部屋に帰ってきて、ママが買ってきたTシャツワンピに身を通す。袖も裾もひらひらしているパステルイエローの部屋着も家中に香る白ユリの芳香剤の匂いも、可愛いものはどこか息苦しい。

 でもさっきの約束を思い出して自然と口角が上がったのがわかった。央くんと一緒にお兄ちゃんの面影など何一つ残らない事故現場に行ける。それはきっと楽しいに違いない。

 央くんを呼び出した女の子も、央くんと仲のいい男の子達も、央くんのお父さんとお母さんも、誰も、あの事故現場に佇む彼を見ることができない。

 来週の日曜日が少しだけ待ち遠しく感じている自分がいた。

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