多分、今日はドライブ日和(3)

 前の信号が黄色に変わる。

 俺はブレーキペダルを徐々に踏み込み、ゆっくりと減速する。

 いつもは混雑しているはずのこの道も今日は空いていた。というよりも車は殆ど見かけなかった。皆家に引きこもっているのだろうか。

 見通しが良く、車は全く見かけないにもかかわらず、律儀に信号を守っているのは馬鹿みたいに思えた。カーステレオからはマイケルジャクソンのsmooth criminalが流れている。凪はマイケルジャクソンが好きだった。その他にも少し古い洋楽を凪は好んで聴いた。ビートルズやクイーン、スパイスガール、レッドホットチリペッパーズ。彼女は英語が話せなかったからよく適当な英語で歌っていて、テンポが速いところになるとふんふん、とかららら、とか歌詞を歌うことを諦めていた。

「ゆーびんひっば! ゆーびんしゅとらっば! すむーずくりみなぅ!」

 助手席でそう上機嫌に歌う彼女は馬鹿みたいで楽しそうで、彼女のことを少し羨ましいとも思った。

 信号が青になり、俺はアクセルペダルに足を移し、車を加速させる。

 ナビを見る。到着まであと一時間。

 ウインドウを開けた。生暖かい風が頬を撫でた。


「はい」

 先ほど売店で買ってきたアイスを手渡すと「ありがとう! うわー、おいしそー!」と凪は嬉しそうに受け取った。

 外は土砂降りで、降り注ぐ雨の中にはぼろぼろのもう動かなくなった軽自動車がサービスエリアの駐車場で所在なさげに佇んでいた。

「ごめんな」

「なにがー?」

 凪がアイスクリームをなめながらそう聞く。語尾の上がった「が」の音がなんだか柔らかくてとても耳心地がよかった。

「いや、車。動かなくなって」

「車?」

 そう言って凪は外の軽自動車に目を向ける。

「アサ君が私みたいな女を乗せたから車が拗ねたんじゃないかな。こんなあばずれ女なんか乗せやがって! アサ君の浮気者! って」

「はは、なんだそれ」

「まあでも、旅の醍醐味だよね。私はこういう時間がすごい好き」

 凪は俺に気を遣っているということもなく、本当にそう思っているように見えた。

 元々怪しい兆候はあった。エンジンが一回ではかからないことは良くあって、それでも行きは順調だった。静岡までこの軽自動車は一言の文句も言わず、そこそこ快適に俺たちを連れて行ってくれた。静岡まで行ったのは凪が富士山を見たがったからで、しかし実際には来る途中にちらりと見えた富士山に彼女は満足をして、旅の目的は富士山を見ることから静岡の美味しいものを食べるツアーに変更された。凪は大変よく食べて、「よくそんなに食べれるな」と感心すると、「妹の方がよく食べる」とどや顔で彼女は言った。そして帰り道、集中豪雨に襲われ、一度サービスエリアで休憩しようとこのサービスエリアに駐車をしたのを最後にこの車がエンジンを再びふかすことなかった。

 たぶん、罰なんだろう。凪に嫌われようとした罰。そもそもなぜ凪に嫌われたかったのか。恋に落ちるのが怖かったからか。そう考えるとなんだか本当に馬鹿馬鹿しく、幼稚に思えて変な抵抗をするのはやめた。俺は凪に恋している。そう自覚した。

 一目惚れだったのかもしれない。髪を耳にかける仕草に惹かれたのかもしれない。彼女の明るく、たまに変なところに癒やされたのかもしれない。しかしそんなことはもうどうだってよかった。

[佐藤さん、今日のご飯の場所ですけど―――]

 LINEの通知を一目見た。ここで足止めをされていてはもう行けないだろう。鈴宮に一言返す。

[ごめん、行けなくなった]

 鈴宮の顔が頭に浮かんだ。その表情は笑顔にも見えた。悲しんでいるようにも見えた。その顔をそっと頭の外へ追いやる。

 スマートフォンをポケットに入れる。

「なあ、凪」

 凪がこちらを見上げるように顔を向ける。俺はそっと顔を近づける。

 凪は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに目を閉じた。

 雨の音も凪が座っていたプラスチックの椅子も屋内の空調もすべて近くにあるようで全くの別世界のもののように感じた。

 今、この世界には俺と凪しかいなかった。

 キスは甘い味がした。


 凪との記憶は殆ど車の中だった。思い出すのはいつも凪の右横顔だった。

 初めてのデートのときのように目的地を決めてドライブをするときもあったが、大半は目的もなくただ車を走らせた。後者の場合、たまたまたどり着いた場所でなにか珍しいものを買ったときもあったし、出発してから一度も車から降りず、家に戻ってくることもあった。

 社内ではなぜか俺に新しい彼女が出来たことは知れ渡っていた。自分から言いふらした記憶は無いので、もしかしたら俺の態度がわかりやすかったのかもしれないし、山下と飲んだときにぽろっと漏らしてしまったのかもしれない。彼の口はとても軽かった。

 俺に新しい彼女が出来たという噂が広まった頃、鈴宮との間に薄い膜のようなものを感じた。態度がどことなく冷たいような、手を伸ばしても受け流されるような、具体的にはよく分からないがなにか変化があったのは確実だった。その原因が噂のせいなのか、それともそれとは別のことか、彼女に誘われたご飯の約束を断ってしまったことが原因か、そのときの俺はよく分かっていなかった。彼女とのご飯の約束は延期になり、まだ行けていなかった。

 俺の部屋には凪の私物が増えた。

 歯ブラシが増えた。凪の着替えが増えた。箸が増えた。食器棚に凪はマグカップを二つ置いた。一つは赤いハートがついた白のマグカップ、もう一つは青のハートがついた白のマグカップ。旅先で買った持っているだけで恥ずかしくなるようなそのマグカップを凪は気に入った。

「赤い方が私で、青のハートは君のね」

 使うことを拒否することは出来なかった。俺が苦笑いをすると凪は本当に嬉しそうに笑った。

 俺は幸せだったし、正直馬鹿みたいに浮かれていた。仕事も恋愛も全てが上手くいっていった。

 陳腐な表現だが、こんな日が永遠に続けばいい、と本気でそう思った。


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