燃やせ、青春(3)

 千佳の家庭は母子家庭だった。

 父親は千佳がまだ小学校に上がる前に交通事故で死んでしまい、それ以来千佳は母親と二人で生活をしてきた。

 千佳の母親は決していわゆるいい母親ではなかった。

 小学生の千佳を一人家に置いて彼氏とまたは友達と一週間の旅行に出かけるなど日常茶飯事で、そんなときは千佳に一週間の食事代として1万円か5000円か1000円いずれかの札を渡した。その中で最も頻度が多かったのが1000円で、1万円を渡されることなど殆ど無かった。そのため、安く食材を手に入れるためにスーパーの安売り情報はそこらの主婦よりも敏感に手に入れていたし、学校の図書館で食べられる野草というものも勉強した。中学に上がる頃には母親の放蕩癖はいくらかマシになったが、それは近所の人から厳しく怒られたからで、千佳は覚えていなかったが児童相談所の人間も一度来たことがあったそうだ。母親は完全なネグレクトというわけではなく、家にいるときは千佳の世話をし、ある程度の愛情を持って千佳を育ててくれた。ただその愛情より、たまに彼氏への愛情の方が上回ったり、友達の方へ向いたりするだけで千佳は基本的には母親の愛情は感じて育ったし、母親としては失格かもしれないが千佳は母親のことが特に嫌いではなかった。

 千佳が高校に進学すると母親の放蕩癖はぶり返したが、その頃には千佳もバイトを始め、自身で食費を稼ぐことが出来たので特に困らなかった。咲希とはその高校で出会った。

 咲希は目立つ生徒だった。

 千佳の二つ隣の席に座っていた咲希は入学式当日から既に注目を集めていた。大きな目に整った鼻筋、肌は陶器のように白く艶やかで、髪の色は鮮やかなピンク色だった。もちろん染髪は校則違反だった。

 彼女は入学式の日に先生からその髪の色、ネイル、ピアス、制服のスカート丈などほぼ全身を校則違反で注意を受けていたが、彼女はその次の日も同じ格好で登校した。

 咲希は反乱因子の烙印を押され、その派手な見た目から頼めばやらせてくれるビッチだとか、売春をしてるだとか、親がヤクザだとか根拠などありはしない噂が飛び交った。ただそのよくない噂の中にも一つだけ真実が混じっていた。それは咲希の両親が怪しげな新興宗教に嵌まっているということだった。彼女に近づくと入会を迫られる、高い壺を買わせようとしてくる、そう言ってその噂が広まるともともと遠巻きに見ていた人はさらに彼女を遠ざけ、彼女をいないものとして扱った。

 しかし、彼女はそんな噂など歯牙にもかけず、常に凜として前を見ていた。千佳はその姿に憧れを抱いたし、なぜだか親近感も湧いた。その当時の千佳には分からなかったことだが、咲希に親近感を抱いた理由は地球が滅亡する日に理解した。地球が滅亡するという通知に叩き起こされて、千佳がさらなる情報を求めて携帯を見ていると、千佳の部屋に母親が慌てた様子で入ってきた。

「地球滅亡するって」

 母親はそう言い、「らしいね」と千佳は返した。

「ごめんね、千佳。私ケンくんのとこ行かなきゃだから」

 ケンくんは今の母親の彼氏だった。千佳はそういう母親に慣れていたし、地球最後の日には母親が実の娘を置いてそういった行動に出るのは自然だと思った。だから千佳は「あー、そうなんだ。いってらっしゃい」とごく自然に送り出した。

 母親がばたばた支度をしている間に千佳は寝っ転がって地球滅亡という非現実的なことに興奮し、お祭り騒ぎとなっていたTwitterを眺めていた。そして母親が「じゃあいってくるからね」と玄関から千佳に声をかけ、扉を閉め、少し後に我が家の車が走り去っていく音を聞いた後で、千佳は唐突に深く冷たい孤独を感じた。千佳は自分が孤独を感じることに驚いた。今までも何回でもこうやって母親を送り出してきた。しかし、地球が滅亡する日という状況が加わるだけでここまで酷い孤独を感じるのか。いや、もしかしたら今までも孤独は感じていたのかもしれなかった。ただ千佳が気づいておらず、たった今、底から這い出して露出したのではないか。怖かった。布団にくるまり、SNSを何度も更新して少しでも人に触れ合いたかった。

[警報にビビってカップ麺落とした]

 Twitterのタイムラインを更新して出てきたそのつぶやきを見て涙があふれた。咲希の投稿だった。

 何で泣いたのかは分からない。咲希の投稿にぬくもりを感じたのかもしれないし、咲希が生きているという千佳にとっては疑う余地もなかった事実を改めて認識し、ほっとしたのかもしれない。その夜、咲希のあずかり知らぬところで千佳は咲希に救われていた。あのとき、噂など何処吹く風で自分一人でも生きていけるという態度をしていた格好良かった咲希も、明るく、将来のことなんて何も考えてなさそうな(実際に考えてはいなかったけど)私も寂しかったんだ。そのときにようやく千佳は気づいた。

 確か、はじめに声を掛けたのは千佳の方からだった。憧れと、親近感と、好奇心。恐る恐る話しかけてみると、千佳と咲希はすぐに意気投合した。千佳は咲希からお洒落を教えてもらい、千佳は近くの安くて美味しいお店を咲希に紹介した。

 千佳と咲希が話すようになるともともと千佳は友達が多い方だったので千佳と共に千佳の友達と咲希も話すようになり、咲希は千佳がいなくても千佳の友達と話すようになった。咲希の悪い噂はいつの間にか消えていた。

 咲希は思い出したようにいつも「私は千佳に救われた」と言った。それは大げさだと思った。しかし、真剣な表情で咲希はそう言うのでなんだかむず痒くなって、咲希がそれを言う度に千佳は咲希に100円のアイスを奢らせた。

 高校はいつも友人たちと遊び回り、テストは毎回壊滅的だったが千佳は幸せだと感じていた。ずっとこんな生活が続けばいいと本気で思った。


 顔を上げると目の前に高田の顔があってなんか笑った。

「ちょ、なんで笑うんですか。こっちは心配してたのに」

「心配?」

 高田は頷く。

「急に静かになったと思ったら、体育座りで顔伏せてるんですもん。熱中症になったのかと」

「ああー。あーね」

「あね?」

「なるほどね」

 千佳はそう言い直す。目の前に静かに揺れるプールがある。その奥には殺風景な学校がそびえ立っていて、学校の前には砂塵が舞う校庭がある。いつも見ていたはずなのに初めて見た光景のように感じられた。きれいだと思った。

 プールが、学校が、校庭が、目に見える全ての物が世界はまだ確実にそこに存在していることを千佳に告げた。

「あ、千佳! あんた大丈夫なの?」

 シャワーが設置されたところの奥から咲希が歩いてくる。両手にはペットボトルのスポーツ飲料があった。

「やー、なんか、寝不足なだけ」

 千佳がそう言うと咲希はわかりやすく肩を落とす。

「こっちはめちゃめちゃ心配したのにー」

 そう言いながら手に持っていたペットボトルを投げてよこす。咲希は続けて高田にもペットボトルを投げ渡そうとしたが、高田は受け取り損ねた。ペットボトルは脇のプールに落下した。

「あああー」

 彼は情けない声を出し、ペットボトルを追ってプールにダイブした。

「おあ! 高田ごめーん!」

 高田はすぐに浮上し、親指を立てた。某映画のエンディングみたいだと千佳は思った。

「ねえこれわざわざ買ってきてくれたの」

「そう。あんたが熱中症になったと思って。ちょー焦ったんだから」

「ごめんて。ありがと。……ねえ。もしかしてその格好で買いに行ったの」

「よゆー」

 黒のビキニ姿で咲希は胸を張る。

「てか誰もいなかったからコンビニから取ってきた」

「やってることやば」

 千佳は蓋を開け、喉にスポーツ飲料を流し込んだ。甘く爽やかな味が口に広がる。

「これでもしも地球が滅亡しなかったら僕ら大犯罪者ですね。水着も黙ってとってきたし、不法侵入だってしてる。挙げ句の果てには学校を燃やそうとしてるし」

 高田はプールサイドに腰をかけながら言う。

「うわー、確かに」

「滅亡してくんなきゃ困っちゃうね」

 三人は笑う。

 千佳は足を伸ばして、水面に足裏をそっと乗せる。ひんやりとした感触が伝わる。揺れる水面には高田のもじゃもじゃ髪と咲希のピンクの髪が、そして水面をのぞき込んでいる自分が映っている。

 本当に今日で全てが終わってしまうのだろうか。

「ねえ」

 足をそっと水の中に沈ませていく。

「本当に今日でお終いなのかな?」

 千佳の言葉は風に攫われ、空へ消えていく。


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