最後の日くらいは空でも飛ぼう(3)
「へえ、デートすることになったのか。よかったじゃん」
あまりよかったとは思ってなさそうに平坦なトーンで彼は言った。
「そう、今日の9時から。どっかおすすめのデートスポットとかない?」
彼はカフェモカをゆっくり口に含み、目線を閑散とした窓の外に向けた。街はすっかり静まりかえり、出歩いている人は殆どいなかった。当然、店も開いているはずがなく、僕らは彼のバイト先でもあるこのカフェに不法侵入し、勝手にドリンクを作って飲んでいた。
別に会う約束をしていたわけじゃない。僕はデートの時間まで暇だったので、適当にぷらぷら歩いてデートプランを練ろうと考えていた。大学近くの小さな公園の前まで歩いた時、全くの偶然で彼を見つけた。彼は僕の姿を認めるといつものように僕の肩に手を回し、強引にこのカフェまで僕を連れてきた。彼は甘い香水の香りがした。
「ないだろうね。ご覧の通りロマンのかけらもないだろ?」
そう言って彼は窓の外をしゃくってみせる。僕は彼の黄色のポロシャツに汗染みが出来ているのに気がつく。
「そのシャツ、やめた方がいいよ。似合ってない。絶望的に」
僕はそう言って目線をテーブルの下にも向ける。
「あとその白の7分丈のパンツも」
「あのさ」
彼の声で、僕は視線を彼の顔に移す。
「俺、この服の組み合わせで何回もお前に会ってるよな。なんで初めに会ったときにそういうこと言ってくれないんだよ」
「そうだっけ。正直その……」
続ける言葉を、「気づかなかった」か「興味が無かった」、どちらがいいだろうか一瞬考える。すぐにどちらでも同じだろうと気づき、「興味が無かった」と続けた。
「でも改めて見てみると致命的に似合ってない。気づくのが遅れて申し訳なかったけど本当に似合ってない。これは信じてくれていい」
「そういうことを地球最後の日に言うか? 普通。せめて今まで気づかなかったのなら最後まで黙っていてくれよ。すげえ嫌な気分になるじゃんか」
それもそうだ、と思い、一応「ごめん」と謝った。
「はあー、おっぱいに触れないのもこの服が原因だったか」
大げさに落ち込んでみせる彼を少し見て「そうかも」と適当に返す。
「つまり服さえ替えればおっぱいに囲まれながら大往生を迎えるわけだ」
もう一度僕は「そうかも」と適当に返事をする。
「おかしいと思ったんだよな。おっぱいを触らせてくださいって言ってこんなにも拒否をされるなんて。減るもんじゃないし、俺ほどの男に頼まれたならむしろ触ってくださいって懇願されるよな。普通。そうかそうか、服が邪気の源だったか。いやあ盲点だった」
僕は眉を上げた。寝言でも言っているのかと思ったが彼の目はぱっちりと開いている。
「不思議だな。同じ日本語を話しているはずなのにここまで理解不能だとは。現代文のテストはほぼ満点だったはずだけど」
「じゃあ、現代文のテストと日本語のコミュニケーションにはなんの相関性もないということがここに証明されたというわけだな」
僕はもう一度眉を上げた。
僕らはカフェを出るとその足で駅に向かった。
彼がおっぱいを触れるようなかっこいい服を見繕ってくれ、と懇願してきたからで、僕は最初は断ったが、服を探すついでに先輩へのプレゼントを選ぶのも悪くはないと思い直した。最寄りの駅から一駅離れたところに大型ショッピングモールがあり、当然電車は動いていないだろうから、歩いて行こうとすると、彼は首を振り電車は動いていると言った。物好きな駅員が平常運転で動かしていた、と午前中にもショッピングモール付近に出かけていたらしい彼がそう言ったので僕は彼の言葉を信じた。
駅に向かう道中、彼はいつものように妄言を垂れ流していて僕はそれを聞き流しながらとても適当に相槌を打った。それは僕らの日常だった。
駅に向かう途中で東京タワーが見えた。
いつもこの赤い鉄塔が視界に入る度に見とれてしまう。僕が生まれ育った田舎にはなかったからだろうか。僕が先輩に、先輩の跡を追って東京に行くと言ったときも僕の頭には東京タワーと先輩がいるだけだった。僕が持っていた東京のイメージは今も昔も変わらない。赤くそびえ立つ無機質なその鉄塔はいつも僕らを見下ろしている。
※
目の前にいる先輩は3口で飽きが来ると評判の唐揚げマヨネーズ丼の大盛りを美味しそうに頬張っていた。
この唐揚げマヨネーズ丼は唐揚げの顔をしたナゲットにマヨネーズをふんだんに盛り付けた何の捻りもない品で、食べられない程不味くは無いが、無駄な油分と唐揚げのもさもさ感によってこのメニューを頼む人は少ない。褒めるところとすればその安さとボリュームなのだが、時としてボリュームは短所となり得る。美味しくも無いものを大量に食べることほど辛いものは無い。したがって、この唐揚げマヨネーズ丼は食堂の不人気メニューランキングの上位に名を残していた。
先輩は細い癖に食べ盛りの男子大学生並によく食べる。でも、彼女は運動は全くと言っていいほどやっていない。彼女曰く、自宅から大学までの5分の道のりを歩くことが運動だとみなしているらしいが、当然それだけでは摂取カロリーと消費カロリーの採算は合わず、残りのカロリーはどこに行ってるのだろうといつも不思議に思う。
大学の食堂は少し前まではハロウィンの渋谷スクランブル交差点のように人がひしめき合っていたが、昼時を過ぎ、3限の授業が始まる時間帯には遅めの昼食を取る者と、空きコマの時間を持て余している者がぽつぽつと残っているだけであった。
「どうして言ってくれなかったんですか」
僕がそう口を開くと、先輩は唐揚げ丼から顔を上げ、ふがふがと何かを言った。
「飲み込んでから喋ってください」
頬をリスのように膨らませた先輩は少し顔を赤くして必死に咀嚼をしていた。明らかに口に物を詰め込み過ぎである。
先輩の頬が徐々に縮んでいく様子を僕は黙って見守っていた。
「見られながら食べるの恥ずかしいんだけど!」
ようやく口の中の物を飲み込むと先輩はそう言った。
「しょうがないじゃないですか。2人で食事してるんだから。どうしろって言うんです」
「君も食べて」
先輩は顎をしゃくった。
僕の目の前には小さなプリンが円錐の上の部分を綺麗に切り取った完璧な形でテーブルの上に鎮座していた。
仕方がなく、スプーンでプリンの端をすくい取り、口に運ぶ。
先輩はその様子をじっと見ていたが、当然、プリンなんかあっという間に飲み込んでしまう。
「ね? 恥ずかしいでしょ」
「いえ、全く」
先輩は明らかに不機嫌そうになる。
「そうか。君は公然で裸になってもきっと羞恥を覚えない人種なんだろ」
「流石に公然で裸になったら羞恥を覚えますよ。僕をなんだと思ってるんですか」
「露出狂」
「僕が! いつ! 露出なんてしましたか!」
「きっと私の見てないところでやってんでしょ。名探偵の目は誤魔化せないよ」
「節穴じゃないですか。今すぐ探偵の看板を下ろしなさい」
「嫌だ。じっちゃんから授かった看板なんだ! この看板は絶対に下ろさないぞ! じっちゃんの名にかけて!」
「今頃、天国でじっちゃんは看板を授けたこと後悔してるでしょうね」
「じっちゃん生きてるわ! 勝手に殺すな!」
静かな食堂内で先輩と僕の声はよく通るようで、ちらちらと目線を感じた。
僕は少し声を低くして言う。
「違います。今話したいのはなんで先輩は僕に黙って東京に行こうとしてるかってことです」
先輩は僕を見ながら特大唐揚げを口に放り込んだ。
「ふぁって、ひみほふぁっへほひはひっほん」
「先輩」
僕は唐揚げによって歪な形に膨らんだ彼女の頬を見て言った。
「飲み込んでから話してください」
窓を見ると、鮮やかに色付いた紅葉がひらひらと舞っていた。
それを見て、先輩と初めて出会ってから既に1年経っていることに気がついた。
実際、その時の流れは早いような気もしたし、むしろ遅いような気もした。
初めて会った日から、僕はしばしば先輩の家に遊びに行った。
先輩はどんな時でも僕を歓迎してくれた。家ではゲームをしたり、先輩お気に入りの曲を聴いたり、黙々と試験勉強をしたりして過ごした。そして、僕だけが特別でないこともすぐに知った。
ある時、空きコマの時間を持て余していつものように先輩の家に遊びに行った時の事だった。
先輩の家のチャイムが壊れていることを知っていたので、扉を数回ノックした。
返事は無い。
と言ってもそれはいつもの事で、ドアノブを回して、鍵がかかっていなかったら先輩は部屋におり、いつでも入っていって良いことになっていた。
扉は簡単に開いた。
リビングに続く短い廊下を通ると、右手側にある浴室から水音が聞こえてきた。どうやら風呂に入っているらしい。
僕は気にせずに浴室前を通り過ぎてリビングの扉を開けた。
リビングには大柄な金髪の男が胡座をかいて床に座っていた。白いTシャツから浅黒い筋骨隆々の腕が伸びており、その手がゲームのコントローラーを握っていた。
先輩の彼氏だ。
そう思った。
僕はすぐに僕と先輩は所謂男女の仲ではなく、ただの友人同士だと説明しようとした。しかし、信じて貰えないことは容易に想像でき、では背を向けて逃げ出そうかとも考えたが、それでは彼女との不貞を認めるのと同義だということも分かっていたため、僕はその場に石像のように固まって動けなくなってしまった。
金髪の男は僕を見て少し眉をひそめたが、すぐにテレビの画面に向き直ってゲームの続きをやり始めた。
彼がやっているゲームは僕も先輩と何度かプレイした事のあるゲームで、2人で協力してゴールを目指すアクションゲームだったが、彼はそれを1人で進めていた。本来は協力プレイが前提なので、1人でクリアしようとすると難易度は当然跳ね上がる。しかし、彼は慣れた手つきでキャラクターを操作し、あっという間にゴールしてしまった。
Congratulation! と画面にでかでかと表示されるのを男は特に表情も変えずに眺めると再び僕の方を見た。
「なにやってんの」
なにか言わなくては、と思うが口がカラカラで、頭もぼうっとしてきて僕はやはり置物のように立ちすくんだままだった。
男はそんな僕の様子を見て何故か得心したように頷いた。
「ああ、もしかして初めて? こうやってダブるの」
その男は先輩と同回生で、彼もまた彼女の友達らしかった。こうやって鉢合わせることを彼はダブるという表現をしているらしい。
「彼氏かと思った?」
僕がぎこちなく頷くと彼は大口を開けて笑った。
「俺や君以外にもあいつの友達はしょっちゅうここに来るからな。でもあいつはその事を何にも説明しないから今日みたいにダブった時は少し気まずくなるのが恒例よ」
「先輩の友達は何人くらいいるんでしょうか」
「さあね。俺が今まで会ったあいつの友達は10人は越えてるな。滅多にここに来ない俺でもそれくらい会ってるんだから100人以上はいるんじゃねーか」
その金髪の男からコントローラーを投げ渡され、それから何を言うでもなく、アクションゲームを2人で進めた。
先輩は風呂から上がって、アクションゲームに興じている僕らを一瞥したが特になんのリアクションを取ることもなく、ベッドに腰を落ち着かせてゲームの進行を眺めていた。
僕が彼女の東京行きを知ったのは今から3日前のことである。
彼女の友達の1人であるアマちゃんから聞いたのだ。
アマちゃんは僕と同回生の女の子で、先輩の部屋でダブってからは同じ学科だったこともあり比較的よく話すようになった。
アマちゃんによると、彼女は既に東京の大学院に行くことが決定しているらしく、先輩の友達の中でも特に親しそうにしていた僕がその事実を知らなかったことにアマちゃんは少し驚いていた。
僕はそれを聞いてすぐに先輩に連絡を取ろうとしたが、珍しく先輩は多忙で、今日まで先輩を捕まえることは叶わなかった。
「うぇっへっへっへ。学歴ロンダリングってやつさ。いいだろ」
唐揚げを咀嚼し終えた先輩は変な笑い方をしながらそう言った。
そのときの僕は先輩が学歴なんかになんのこだわりが無いことも知っていたし、もともと先輩の第一志望は東京にあるK大で、母親が病気で倒れ、高校生の妹の面倒を見るために地元に残ったことも知っていた。4年の歳月が過ぎ、先輩の母親は徐々に回復し、妹も大学生となった今、家族の強い勧めもあり先輩がK大の大学院に進学しようとしていることも僕は納得していた。納得していなかったのはどうして僕に一言も東京に行くと言ってくれなかったのか。僕は先輩にとって特別でないことは知っている。でも僕と先輩は先輩の友人たちの中でも特に親しくしていたと思うし、先輩の友人たちが先輩の東京行きを知っていて、僕だけが知らないというのは理不尽に思った。
「どうしてですか。僕のこと嫌いですか。なんで言ってくれないんですか」
あふれ出る感情をなんとか抑えようとした。でも僕の中で感情は大きく育ち、荒ぶり、制御することは困難に思えた。
先輩はそんな僕を優しげな目で見た。
細く息を吐いた。それはため息にも見えたし、心を落ち着かせるための深呼吸にも見えた。
「だって、君。私のこと好きでしょ」
心臓を鷲づかみにされたようだった。僕は先輩の顔を見た。
「私が東京に行くって言ったら、きっと君も一緒に行くっていうでしょ。私は君には君の人生を送って欲しかった。私なんかに左右されないように生きて欲しかった。なんて。うぬぼれだったかな」
僕は喉になにかが詰まったように感じて、黙って首を横に振った。
「僕は」
細く情けない声が出た。慌てて息を吸い込む。心臓はフルマラソンを走り終えた時のようにバクバクと早鐘を打っている。
「僕は先輩が好きです」
しっかりと先輩の目を見据えて僕は言う。
「だから僕も東京に行きます。僕の人生は先輩がいてこそ成り立つんです。僕は東京に行きます。拒絶なんてしないでください。僕のことなんて考えないでください。ただ僕があなたを追うのを、それだけを許してください」
そのときの先輩は呆れたような顔をしていて、僕はそんな先輩を可愛いと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます