多分、今日はドライブ日和(2)

 俺はあの時、なぜ凪をドライブに誘ったのだろう。

 酔いすぎか、それとも気まぐれな性欲の仕業か、彼女と別れたばかりだったことで寂しさを無意識のうちに覚えていたのか。いや、どれでもない気がする。

 凪には引力があった。抗うことが出来ない、人を惹きつける引力が。地球の重力に引かれてなすすべもなく落下する林檎のように静かに俺は落ちていくのを感じた。

 俺はせめてもの抵抗をしようと知人からぼろぼろの軽自動車を借りた。彼女が俺のことを幻滅してくれればいいと思った。

「佐藤さん、この資料のことなんですけど……」

 無機質な数字が並んでいるExcelの表から顔を上げると鈴宮が俺を見下ろすように立っていた。

「ああ」

 俺は鈴宮が持っているA4の資料に目を向ける。

 ざっと目を通してみても何の資料のことだか理解ができず、もう一度注意深く読んでからそれが明日の会議で使う資料だと気がついた。それと同時に俺が作成するはずの資料はまだ何も手をつけていなかったことを思い出した。

「佐藤さん、この明日の資料ってもう出来てます?」

「ごめん、今から作る」

 え、と小さな声が鈴宮の口から零れ落ちた。

「大丈夫、今から作れば間に合うから」

 鈴宮を安心させるためにそう声をかけ、脳内で今日のタスクを整理する。A社の見積もりは後回しでいい。午後には会議がある。会議終わりが17時。それと営業の菅から何かを頼まれていたような気がするが何だったか。確かそれも今日中に出すと言っていたような気がする。

「大丈夫ですか」

「大丈夫だって。終わるって言ったろ」

 少し乱暴な言い方になってしまったかと思い、慌てて鈴宮の顔を見ると、心配そうな顔をしていた。それが資料の心配ではなく、俺への心配ということに気づいた。

「最近、佐藤さん。ちょっとおかしいですよ。普段ならこんなにばたばたしないし」

「たまたまだって。俺だってミスする時はあるよ。いやー、すまん。完全に忘れてた。声掛けてくれて助かったよ」

「いや、ほんとに」

 そう言って鈴宮は少し逡巡する。

「確か、佐藤さんたちが合コン行くって言ってた時からですよ。佐藤さんがおかしいの」

 それを聞いた途端、俺の身体がカッと熱くなったのを感じた。凪の顔が思い浮かんだ。

「あー、もしかしてその合コンで会った女の子にこっぴどくフラれたとかですか?」

 明るい声で鈴宮はそう言う。

 俺は自分の頬がひきつらないように十分に意識をして笑顔を作った。

「はは、そんなんじゃないよ。単純に疲れが溜まってたのかな。俺の分の資料は自分で印刷しておくから残りの分お願いね」

 はーい、と鈴宮は俺のデスクから離れていく。

「鈴宮っち、可愛いねぇ。なあ、教育係交換してくれよ。羨ましいよな。あの子に手取り足取りマンツーマンで教えてるんだろ」

 隣の席の仲西が俺のデスクの方に身を乗り出して声を潜めて言う。

「さあ、教育係やりたいなら課長に聞いてみたらどうですか。そもそももう鈴宮に教育係は必要ないと思いますけどね。それより聞いてたでしょ。俺今めちゃめちゃ忙しいんですよ。手伝ってくれるんですか」

 仲西は不機嫌そうに俺を睨み、すぐに自分の席のパソコンに向かい直した。横目で仲西のパソコンの画面を見ると小さなウィンドウにマインスイーパが表示されていた。

 結局、会議が終わったのは18時過ぎで定時はとっくに回っていた。営業本部長が今月の売上について長ったらしい説教を始めたせいだった。会議室から自分のデスクへ急いで戻るとデスクには[○×製薬さんからの見積もり、今日中にお願いしたいとのことです。よろしくお願いします。 仲西]というメモが置いてあった。

 佐藤は忙しいだろうから俺が代わりにやってやろう、という気遣いが仲西には無かった。それがうだつの上がらない理由のひとつでもあった。仲西は当然、とっくに帰宅していた。

「ええー、なんですか。これ」

 その声に驚いて振り返ると鈴宮が俺の後ろに立ち、手元のメモを覗き込んでいた。

「びっくりした。まだ残ってたのか」

「仲西さん。佐藤さんが忙しいって知ってるはずなのになんでこういうの押し付けるかな。そもそも○×製薬ってもともとは仲西さんの案件でしょ」

 鈴宮の言う通り、○×製薬は仲西が受け持っていたが、度重なる仲西のミスを俺がフォローしていくうちにいつの間にか俺が担当になってしまっていた。

「まあ、大丈夫。終わるよ」

 時間を計算する。日付が変わる前にはなんとか終わる。

「いや、私やりますよ。この見積もり」

 鈴宮がメモを俺の手から取り上げて言う。

「え、でも」

「今度ご飯奢ってください」

 鈴宮はそう言って笑い、メモを持ったまま自分の席に戻った。

「わかんないとこあったら聞けよ」

 そう声をかけ、俺もパソコンに向かう。タスクを整理する。コーヒーを一口飲む。

 資料が完成したのは22時過ぎで、社内には俺と鈴宮しか残っていなかった。

 鈴宮が作った見積もりをチェックして俺が「完璧」と言うと鈴宮は嬉しそうな顔をした。

「よし、さっさと帰るぞ」

 そう言いながらパソコンをシャットダウンする。

「ねぇ、佐藤さん」

「なに?」

「ご飯、奢ってくれるんですよね」

「しょうがねぇな。今度な。行きたいとこあんの?」

「はい、あの」

 そう言って鈴宮は少し口ごもる。

「今週の土曜日って空いてますか」

 俯いている鈴宮の顔はよく見えない。

 タスクを整理する。空になったコーヒーの缶を握る。

 今週の土曜日、21日は凪とのドライブを約束した日だった。

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