燃やせ、青春(2)

 右足をそっと水に付けると刺すような冷たさが伝わってきた。ぎょっとして一度足を戻し、またつま先からゆっくりと入れていくと、徐々に冷たさに体が慣れていく。剥き出しの肩には太陽の熱がじりじりと当たり、早く水中へ避難してしまいたいが、この冷たさで一気に胸まで入水するのは少し勇気がいる。

 太腿まで水に浸かった頃、咲希がこちらに向かってくるのが見えた。黒の大人っぽい水着は咲希のスタイルの良さを全面に押し出していて、よく似合っていた。彼女は、普段こんなの選ぶことないからさ、と言ってその水着を手にした。一方、千佳はセクシーなものや派手な水着はどうしても手が出せずに、結局、露出の少ない無難なものを選んだ。私も冒険すればよかったかな、と小さな後悔が生まれ、溶けていった。

「どんな感じー?」

「ちょー冷たい」

「高田は?」

「まだ来てない」

 咲希は千佳の隣まで来ると、先程千佳がやったように足を恐る恐る水につけた。

「うお、マジじゃん」

 そう言ってすぐに、咲希はプールに飛び込んだ。大きな水柱が立ち、千佳は水を頭から盛大に被った。

「うおお、馬鹿お前!」

 水面から顔を出し、咲希は笑う。

「ちょー気持ちいい。千佳も早く来なよ」

 咲希の笑顔を恨めしそうに見て、その後、揺れる水面を見る。

 水面は太陽の光を乱反射して、きらきらと輝いている。

 千佳は大きく息を吸い込み、意を決してプールに飛び込んだ。

 蝉の声が消える。

 白い泡が視界を覆い、泡が消えると、プールの底に引かれている白いラインが見える。底には美しい光の影がぽつぽつと落ちていた。

 水の中は静かで、幻想的で、酸素さえあればこの青い世界で一生暮らしてもいいと千佳は思った。

 冷たいと感じたのは一瞬のことで、すぐに体が慣れてしまった。

 水面から豪快に顔を出す。

「ちょー気持ちいい」

「だから言ったじゃん」

 咲希の濡れた毛先が揺れた。


 始めに音を上げたのは咲希だった。

 高田の学校を燃やすという計画の内容は、学校をガソリン塗れにして火をつけるという酷く単純で、労を要するものだった。

 学校のすぐ側にあるガソリンスタンドに向かい、一斗缶にガソリンを詰める。その一斗缶を台車を使って学校まで運び、教室や廊下に撒き散らす。

 ただでさえ外は灼熱のような暑さで、体力は一瞬で失われ、足元の液体がガソリンなのか汗なのか分からなくなった。

 3往復目で咲希はガソリン塗れの廊下で転んで、とうとう「もうやめる!」と言い始めた。

 千佳も正直体力の限界で、「諦めたらそこで試合終了ですよー」と言いながら台車の上に座り込むと、立ち上がることが出来なくなった。

 高田はそんな2人をみて「いいんですよ」と声をかけた。

「もともと僕が勝手にやってたことですし、ここまで2人に手伝っていただけて感謝しています。2人はここで帰っていただいても大丈夫ですよ」

 そう言う彼の顔はどこか寂しそうだと千佳は思った。

 なんとか立ち上がって作業を再開しようとするが、尻と台車はここが本来の定位置とでもいう様に離れない。

 そんな時、咲希が「あー!」と馬鹿みたいな声を出した。

 何事かと千佳と高田が咲希の方を見ると、咲希は窓から身を乗り出して足をばたつかせている。

 落ちそうになってるのかと思い、慌てて咲希の方へ駆け寄ろうとすると、「プール!」と、再び咲希が叫んだ。

「プール、水張ってんじゃん」

 すぐに咲希言わんとしていることがわかり、「ええやん!」と千佳も声を上げる。

 まだ頭にクエスチョンマークを飾っている高田に咲希はプールを指して「泳ぐぞ!」と言った。

 千佳たちは学校から五分ほど離れた位置にあるショッピングモールに向かった。そのショッピングモールはその立地から、放課後はほぼ毎日通っていた。

 ショッピングモールの自動ドアは閉ざされていて目の前に立っても、ジャンプをしてみてもドアが千佳達を迎えてくれることはなかった。

「ほら、こんな時だしお店なんてやってないですよ」

 高田がそう言うと、咲希は嬉しそうに別の入口を指さした。

 見るとその入口付近にはガラス片のようなものが散らばっており、自動ドアは破壊されているように見えた。

「やめましょうよ! 不法侵入ですよ」

 高田はそう制止したが、「今から学校燃やそうとしてるやつが何言ってんだか」と一蹴して咲希は破壊された自動ドアをくぐってショッピングモール内に侵入した。千佳も咲希の後に続き、高田はそれでもぶつくさ何かを言っていたが結局は彼も自動ドアをくぐった。

 モール内は薄暗く、閑散としていた。フロアに売り物だったであろう服やおもちゃ、食材が所々に散らばっていた。自動ドアを破壊した人の仕業かな、と千佳は考えた。

 千佳たちは止まっていたエスカレーターを駆け上がり、目的の場所、水着売り場へ向かった。千佳と咲希は放課後にはこのショッピングモールへ毎日のように遊びに来ていたから当然迷うこともなかった。

 千佳と咲希は水着売り場に到着し、水着を物色し始めた。その間も高田は千佳と咲希の後ろを着いて歩いていたので、「なに、あんたもこういうビキニ着たいの?」と聞くと全力で首を横に振って、顔を真っ赤にしながら男性水着売り場へ駆けていった。

 水着を選び終わり、学校へ戻る帰り道に「あの!」と声をかけられた。

 千佳は後ろを歩いていた高田の声だと思ったが、振り返ってみると高田ではなく、髪を茶色に染めた若い男だった。黄色のポロシャツに7分丈の白いパンツを履いていた。

「知り合い?」と千佳は聞くつもりで咲希と高田の顔を順繰りに見たが2人は首を振った。

「あの!」

 若い男がもう一度言った。

「突然変なことを言って申し訳ないんですが、おっぱいを触らせて貰えませんか!」

「は?」

「あの! おっぱいを触りたいんです。最悪、服の上からでも構いません! お願いします!」

 そう言って彼は頭を下げた。綺麗に90°腰を折っていて千佳は感心した。

 え? こいつやばくね? そう言おうとした時、「寄るなー!!」という声が辺りに響いた。

 びっくりして声の主を探すとそれは高田だった。高田は若い男と千佳たちの間に飛び出すと両手を千佳たちを守るようにして広げた。

「近寄るんじゃない! 僕はこう見えても合気道の黒帯を持っているんだぞ! 彼女たちに手を出したらボコボコにしてやるからな!」

 そういった後で千佳たちの方を向いて「咲希さん、千佳さん。今のうちに逃げてください! 僕がこいつを引きつけるので!」

 千佳は今のうちに逃げてください、なんて台詞を漫画や映画でしか聞いたことがなく、それを現実の世界で目の前の気弱な男子に言われているのが何故だがどうしようもなくおかしくなり、つい笑ってしまった。

 若い茶髪の不審者は気がつくと背を向けて逃げ出していた。その不審者の逃げるフォームも現役の陸上選手のように妙に綺麗でそれが完全に千佳のツボに入った。

 隣で大爆笑をする千佳を不思議そうな目で見たあと、「ありがとね、高田。うちら守ってくれて」と咲希は言った。

 高田はバツが悪そうな顔をして真っ赤になっていた。


「おう、高田! 遅いじゃん!」

 高田は猫背気味にトランクス型の水着を着て登場した。

「こっちこっち」と咲希は高田をプールサイドに誘導した。

「手ぇ出して」

 咲希はプールの中から手を伸ばした。それを真似るように不思議そうな顔をしながら高田もプールサイドにしゃがみこみ、手を咲希の方へ伸ばした。

 次の瞬間、咲希は高田の手を思い切り引っ張って高田をプールの中へ引きずり込んだ。

 ドボンと大きな水柱が立ち、千佳の顔にも大量の水飛沫がかかった。

 先に高田が水面から顔を出し、ゲホゲホと咳き込みながら「なにするんですか、もう!」と言った。

 咲希は後から顔を出し、「気持ちいいだろ」と高田に笑いかけた。

 高田の顔は遠目でもわかるほど真っ赤になった。

「あー、マジ?」

 2人の様子を見ていた千佳は誰に言うでもなくそう呟いた。



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