最期の日くらいは空でも飛ぼう(2)

 自分が平凡だと気づいたのは大学一年生の時だった。

 その大学は、少なくとも僕の周りでは人気で、模試にはその大学名を書く人が多かった。結局、冬になると自分の学力との兼ね合いから、次第にその大学名を書く人数も減ってきていた。僕は冬になっても変わらずに第一志望の欄にその大学名を書いて、必死になって勉強した。合格した時はもちろん飛び上がるほど喜んだし、周りの友人や両親も自分の事のように喜んでくれた。そのときは一種の万能感のようなものが自分を支配し、自分は何にでもなれると思い込んだ。

 しかし、いざ入学し、自分が入学した大学の偏差値を改めてふと見た時に、あ、こんなものか、と思った。

 その55という数字は僕が平凡な人間であるという刻印となり、もはや引き剥がすことは不可能だった。

 例えば、国立と私立では同じ偏差値だったとしても試験科目数が異なるため、国立の方が賢いだの、文系と理系では理系の方が偏差値が低く出るから実際は理系の方が賢いだの、そういった情報をいくらかき集めても、大学の偏差値一覧が載っているサイトでは55という数字が変わらずに鎮座して、僕を縛り付けた。

 髪を真っ赤に染めた。耳に穴を開け、ピアスをつけ始めた。

 僕は平凡を抜け出して、特別ななにかになりたくて、もがいていた。

 しかし、友人らはそんな僕を見て、典型的な大学デビューだと笑った。

 僕が何をしようが、もはや平凡の箱から飛び出すことは出来ず、自分のこれからの人生が容易く想像出来てしまう。それは僕を絶望足らしめるには十分だった。

 死んでしまおう。その考えにたどり着くのに時間はかからなかった。

 大学入学を機に一人暮らしを始めた。その真新しい家具で囲まれた狭い部屋で、僕は手に持ったカッターナイフを眺め、そのままナイフの切っ先を自分の喉元に当てた。少し力を入れると、血が一筋流れ、鎖骨を濡らした。途端、馬鹿馬鹿しくなってナイフを投げ出してベッドに体を預けた。むなしさが込み上げてきて、声を押し殺して泣いた。

 身につけるピアスが14Gから10Gになった頃、僕は彼女に出会った。

 その時の僕は、教授が一定の抑揚でたらたら話し、大半の学生を眠りへと誘う、なんとも退屈な講義をぼーっと受けていた。

 僕がその日に限って眠らなかったのは、狂った生活リズムにより、一生分とも言える睡眠を貪ったばかりだからだ。ノートをとるでもなく、ただ教授の声を耳に入れるだけの時間は退屈極まりなく、何度も時計を見ては時間が進んでいないことに落胆した。このまま退席して、家へ帰ってしまおうかと考え、窓に目をやった時、逆さまの彼女と目が合った。

 彼女は瞬きの間に既に窓から姿を消し、その後、どさっという低い音が聞こえた。

 僕が居た講義室は3階で、そこの窓から逆さまに目が合うということは彼女は自由落下をしているのだ。と考えつくのに少し時間がかかった。

 慌てて下を覗き込もうとするが死角が多く、彼女の姿を捉えることは出来なかった。自由落下をする彼女を見た人間はこの講義室には僕以外にいなかったようで、講義は何事もなく進んでいる。

 僕はバッグを掴んで講義室を飛び出した。教授はそんな僕の姿をちらりと見たが、すぐにまた、たらたらとマクスウェル方程式の説明を続けた。

 講義棟を飛び出すと、すぐに小さな木の枝や泥で汚れた彼女の姿が目に入った。近くの木々が歪んでいて、それがクッションになったのだろう。彼女はその場に座り込んで、講義棟を見上げていた。

「あの……大丈夫ですか」

 そう声をかけると、彼女はゆっくり僕の方を見て、笑顔で親指を立てた。

 てっきり彼女の事を自殺志願者だと思い込んでいた僕はその表情に酷く狼狽した。

「君、一年?」

 彼女は先程3階以上の高さから落下したことや、現在泥で汚れていることなど気にもせずにそう聞いた。

「さっきの講義、電磁気学Ⅰでしょ。毎年、あそこの講義室でやってんだよね」

 その言い方からして、どうやら彼女は先輩らしい。

「試験鬼ムズだよ。過去問は? もう誰かから貰った?」

 僕が首を横に振ると、彼女はようやく立ち上がって、服についた泥をぞんざいに払ったあと手招きをして歩き始めた。

 僕は慌てて彼女の後を追った。彼女の頭にはまだ小枝が乗っていたので、それを払ってやってから聞いた。

「あの、なんで落ちてきたんですか?」

「神秘的でしょ。女の子が空から落ちてくるなんて」

「答えになっていません」

「最近の若者はすぐに答えを求めるのが悪いところだ」

「あなたも僕と大して歳は変わらないと思いますが」

 彼女は僕の顔を少し見て、生意気だな、と言う。

 大学を出て、大学裏手にある学生御用達の激安スーパーを通り過ぎ、閑静な住宅街を進む。

 大学から10分程離れた、灰色の少し年季の入ったマンションに入っていくと、思わず「先輩」と声をかけた。

 彼女は頷いて、「ここ、うちの家」と言ってエレベーターの11と書かれたボタンを押した。

「一人暮らしなんですか」

「うん」

「まずくないですか」

「なにが?」

 一人暮らしの女性の部屋に会ったばかりの男を招き入れるなんて、という言葉を僕は飲み込んだ。

 彼女はいわゆるビッチとかいう人種なんだろうか。それとも防犯意識が極端に低いだけか。どちらにせよ、僕は彼女に幻滅し始めていた。

 チン、と音が鳴って、エレベーターの扉がゆっくり開いた。

 エレベーターから出ると彼女は一番角の部屋の前で立ち止まり、鍵を開けた。

 彼女が僕に入るよう促す。

 1103。

 部屋番号を一瞥して、僕はその部屋に足を踏み入れた。

 白を基調としたシンプルな部屋で、広さは六畳ほど。お世辞にも広いとは言えない。

 彼女の後を追って、リノリウムの床を踏みしめ、部屋の奥へ向かう。

「ここ」

 彼女は本棚の一角を指した。

「この辺に過去問入ってるから。探して持って行って」

 そう言うと彼女は僕に背を向ける。

「シャワー浴びてくる」

 やはり彼女は無防備だった。

 初めて会った男とが部屋に居るのに呑気にシャワーなんて浴びるか? 普通。

 本棚の中にはCDや本がぎっしり詰まっていた。CDはマイケル・ジャクソンやエド・シーラン、日本のアイドルユニットのものから、クラシック曲までジャンル問わず、並べられている。本も同様で、小説から漫画、エッセイ、ビジネス書など多岐にわたる。彼女が指したのはその一番下で、いくつかの分厚いファイルが収まっていた。端からそのファイルを引っ張り出し、適当にぱらぱらと捲って、過去問を探した。

 過去問を借りたらさっさとこの部屋を出よう。

 3つ目のファイルの中にそれは見つかった。過去問を取り出し、ファイルを本棚に戻す。

 部屋は静かで、微かに彼女が浴びるシャワーの水音が聞こえてきた。

 部屋を出て左手側に洗面所があり、更にその奥に浴室があるらしい。

 水音が止むのを待って、僕は洗面所の扉を強めにノックした。

「あの、過去問見つかったので、もう行きます。ありがとうございました。コピーしたらすぐに返しに来るので」

 うーい、とくぐもった彼女の声が聞こえた。

 僕は玄関に向かおうとしたが、少し進むと、足がぴたりと止まった。

「あの」

 大きめの声で再び彼女に話しかける。

 んー? とやはりくぐもった声で返事をする。

「なんで落ちたんですか」

 落ちていく彼女を見た時、僕の心は彼女に惹かれていた。退屈で平凡な日常を彼女は一瞬で変えた。彼女が落ちた理由が僕にとっては過去問よりも遥かに重要だった。

 再び、水の音が聞こえてくる。

 水音が止むまで、僕は壁に背中を預け、ただ待っていた。

 少しすると水音が止み、浴室の扉が開いた音がした。

「空を飛ぼうと思ってさ」

 先程よりも鮮明に彼女の声が聞こえる。

「夢なんだよね。飛行機は嫌いだし、鳥を見て自由だなんて思わないけど、子供の頃見た、空を自由に飛び回るネコ型ロボットは私の憧れなんだよ」

「夢」

 彼女の口から出た言葉を呟いてみる。同じ言葉であるはずなのに彼女から出た言葉の方が艶があり、輝きを持っていた。

「そーらを自由にとーびたーいな」

 彼女の呑気な歌が聞こえてきたかと思うと洗面所の扉が開いた。彼女は首から上だけを出し、僕を見た。

「ねえ、叶えてくれる?」

 彼女の髪から、水の雫が落ちて床に模様を作った。

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