第20話 夜
夜。家のなか。
「あぁ。好きなものがあるって良いなぁ~!」
食卓に並んだ刺身を見ながら、浜梨が感激している。丼にご飯がよそられ、どこからか用意された新品の箸を手にニコニコしていた。
……。家に馴染みすぎだと思う。
平然と食事を並べる母。彼女もニコニコしながら、沢山食べていってねと言っていた。
好きなものがあるって、良いな。
「そう、ですね」
それは、頷かざるを得なかった。
好きなものがある。
それは、自分を奪われていないということだから。
心が粉々になったことがないし、自分を否定されたりしない環境ということ。
──それが無ければ、許されもしないこと。
奇跡なのだ。
「好きなものがある、って、すごく、恵まれたこと……、特別な人にだけ、許されてることなんだ」
彼の目の前の席。茶碗に乗った白米を咥えるふりをしながら、誰にともなく、独り言を呟く。ぼーっとしてしまってあまり食事が手に手にない。
二人を眺めながら、テレビでは寄生虫アニサキスに気をつけましょうというニュースがやっていたことを思い出しそうになる。一応大丈夫なはず。
それよりも。考えて、いた。
好きなものが……
他人から否定されたり壊されたりしないことは、どれだけ奇跡的な事なんだろう。今まで、ろくに考えても見なかった。
自分自身を消すしかなかった冬至を、頭ごなしに否定した自分の醜さが、嫌になる。
否定されたことのない今の自分に平然と浸って居られるからこその、傲慢さ。自分が自分であることは、周りが認めてくれるから成り立っている。それを、冬至の気持ちも考えず、無意識のうちに振りかざして居なかったか。
俺が、冬至なら──
ママにならないと、家に居られなかったなら。考え、そうになって、同時にやりきれない虚しさと腹立たしさが身体の奥から沸き上がる。
──偽善者だとしても落ち着いて食事をする気になれない。冬至を傷付けてしまった。
居てもたっても居られずに席を立ち、階段をかけ上がる。
部屋に向かいながら、懐かしいあの頃がフラッシュバックした。
──あんたは、黙ってればいいの!
──喋りさえしなきゃいい
──お前は、お願いだから、何もしないでくれ!
声が、響く。
昔から。なにも期待されなかった。
過剰なくらいに、期待されなかった。
何をしても、期待されなかった。
『お前は何もするな』と言われてきた。
なにもするなとは、つまり迷惑をかけるから存在を消せという意味だ。冬至とは違ったけど、俺は、好きなものを作る前に、壊されたり、否定されたんだ。だから、冬至のような傷付きかたはしなかった。
脳裏で、救急車のサイレンが聞こえる。遠くの方で誰かの声がする。それはどんどんと反響して、俺を絡めとろうとする。
チャイムが鳴る。笑い声がする。
何度も鳴る。
――キー×××××が××××××ってるから!何を×××××××ても、××××××××××××××
チャイムが鳴る。何度も鳴る。笑い声がする。笑い声がする。鼓動がどんどん速くなっていく。
──良いか? 作家にだけは、絶対になるなよ?
「──父……さん」の声。
──賞、か。成績にするのは良い。でも、俺になるなよ。
存在すらおぼろげな小さい頃。その頃はまだ家に居て、何かするたびに、何か、言うたびに、宿題をするために文字を書く度に、背後から見下ろして居た父。
俺の片鱗を見せるんじゃないぞ、と訳のわからないことをヒステリックに言い続け、小学生になるときには家を出ていった。
ぐらつく。視界。思考。
俺は。別に。なにも。目指しちゃ居なかったのに。
──良いか? 何を書いても、俺に通知される。お前が家のパソコンや携帯で何か書く度に、俺に通知される。通信会社のやつとは友人なんだ。
遠隔でログを漁るくらいいつでも出来る。
呪いのように、呟き続ける父。
父さんのこだわりはどうでもいい。
俺の夢なんかわからなかった。
ただ、
──言葉を、持っちゃいけないってこと。
ただ、それだけが悲しくて、反発するように、賞を取り続けた。
いつかは、父さんも、これだけ才能があるなら、好きに喋って良い、なんだってやれと言ってくれるかもしれないと、どこかで、
思ったのかもしれない。
ただそれは、儚く、淡く、残酷な幻想でしかなくて、
「うゎん!」
部屋に戻る。
机に置いていた鞄から声がする。
「おい! 今から、行くのか?」
とおいが吠えていた。
「うん。じっとしてられなくてさ」
鞄を肩にかけ、もう一度ドアを開ける。
――俺になるなと言っただろう!
頭を振り、声を追い出す。
父さんの中に、俺は居なかったし、
母さんの中にも、俺は居なかったんだと思う。
ただ、そこにあるのは、いつまでも、いつまでも、語り継がれる過去の栄光と、自分たちの陰だけ。別にそれでもいい。
父はともかく、母はべたべた不必要に干渉してくるわけじゃなかったし。
二人の過去の栄光も、俺には関係ない。だけど。
「俺は、俺自身だよ……父さん」
階段を下りていると、浜梨に会った。
「お前、今から出るのか」
なんだか少し威圧感がある。こうして向かい合ってみると、彼の方が背が高いのが無性に腹立たしいけど、今はそれどころじゃない。
「そうですけど」
「俺も行く」
来なくていいですよ、と言おうと思ったけれど、補導されそうになったときに、どうにかなるかもしれない。
「…………」
何も答えずに、玄関に向かった。
「何怒ってるんだ?」
靴を履いて、外に出て数歩で、振り向く。
同じように靴を履いて出てきた浜梨を見ながら、俺は雑に答えた。
「先生、やっぱり、刺身と付き合ってるんじゃないですか。やっぱり、刺身が好きって言った」
「刺身に恋愛感情は無いって言っただろ……」
「でも!」
冬至のこと。自分のこと。重ねたり、重ならなかったり。様々なことが頭の中を埋め尽くす。
「でも……」
好きってなんだろう。
「俺も、好きです。刺身のこと。なのに、自信なんて、つかない」
刺身に、とられちゃうんじゃないかって思ったり。
刺身は恋愛対象じゃないって聞いても、あんなに美味しいのにと思ってしまうから、信じることが出来ない。
「口に入れてたじゃないか」
好きな物があるのは、本当に幸せなのか、わからなくなる。
だけど、全部無くなったら、自分も消えてしまう。
なのに、全部無かったら良いのにと思ってしまうのは、なぜなんだろう。
後ろから、少し困ったように笑う声がする。
「……刺身の事は、ただ、食べ物だと思ってるよ」
そう言われても、本当なのか、確かめる術が無くて、ただモヤモヤした感情だけが残る。自分が醜くなっていく気がして、でもどうしていいのかわからないままだった。とりあえずこんな気持ちじゃ、冬至に会えない。明るくならないと。
「そんなに、気にしなくても、俺は食べ物は食べ物でしかないの」
どうにかなだめようと声をかけてくるけれど、落ち込んでいると思われないように、むきになるのが精いっぱいだった。
「好きな物を、何でも認めて貰えてた人には、分からないですよ」
5月30日(月)AM3:34ー2022年5月31日1時30分
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