第2話 犬とせんせえ

普通なら、喜ぶんだろうけどねぇ。と、友人が笑った。

「好かれることが無いなら、より好きで居られる気しない?」

「しない……」

 友人が、ちっと舌打ちした。嫌みかよ、ってことらしい。

こいつは、あまりモテたりしないらしいが、俺は好いている。

普段はいいひとに見られるのが嫌いだから、俺みたいなのが嫌いだろうなー、ってひとと、仲良くしてみるのだけど、結果仲良くなってしまうこともあって。

その一人だった。


「なあ」


友人に問う。


「なに」

「俺が好き?」

「はあ、大嫌いだよ」

「そういうとこ、俺は好き」

俺は、名前が嫌いだ。

俺を構成するあらゆるものを愛せない。


「はいはい。早く、僕以外とまともに人付き合いしろよ、砂季」

名前を呼ばれたことに。だから、

いらっとした。






 夕飯食べてく?

と聞いたら断られたのでしぶしぶ、部屋で一人鍋にすることにした。

気を遣わないというのは楽だ。将来は、お一人様かもしれない。

 読みかけていた本の続きを開いて、残っていたジュースを飲んだ。

簡単。理想を作るのも破壊するのも。

なんにも残らない娯楽。最悪だ。


「いつまでやんのかねぇ、ほんと」


乾いた言葉。乾いてる心。確かにあった何かの感情。確かにあった、何か。だけど、そんな風に、誰かに認められる自分が嫌いだ。

周りみたいにもっと汚れてて、愚鈍でいいはずだ。


なんでだろう。

なんで。


「お前みたいなの嫌いだよ」


そう言ってくれた友人にだけは心を開けた。


「俺も、『お前』が嫌いだよ」



洗面所に行って、鏡を見ながら言う。鏡の自分は、笑わない。なんとなく目が合わせられなくて、そのまま、頭から水をかぶった。


 早朝の市立図書館は、空いている。

数年前までヤンキーの溜まり場だったそこだが、今ではカメラやらなんやらついていて、やたらときちっとしてしまい、俺はなにもしてませんよと思っても、緊張する。


「うー……寒っ」


ふるりと震えながら、コートの裾を握って歩く。

春になったことで雪は止んだのだけど、いまだに少し寒いもので。降ってきておかしくない気がする。


白い空。なんだか落ち着かないくらいに、淡白な景色。これから芽吹き始めるだろう木々たちを横目に、よくわからない傷心を抱えている。

俺は何回繰り返す気なんだ、と。未知にも言われた。わかってる。


でも、わかんないだろ。

きれいで優しくて可愛いとこもあって、っていうのを、たぶん完璧に裏切る。別に最初っから夢を壊したって、いつか知るじゃないか。


そんなことを考えながら、ふと、木の上で震える雛を見つけて眺める。

親は居ないみたいだ。

でも下手につついちゃだめだろ。こいつ、ふわふわしてて、可愛いな。

「はー……なんっか、気に入らない」


何がなんだろ。

今喋る自分?身体?性格?


「クックック……」


考えていると変な笑いになってしまう。あーやばい、なにしてんだろ。

一人でツボに入って笑う。


 身体は普段跳んだり走ったりしているだけだし、目にゴミが入るのが嫌で、睫毛を伸ばそうとして、姉ちゃんに聞いた睫毛美容液なるものを塗っていたらわりと伸びた。その程度の変化やら日常の積み重ねというだけで。いつだってできることを、するだけのことしかしていない。


だから。

らしくないっていうか。キャラじゃないっていうか。似合わないっていうか。


モデルになりたいわけでも、アイドルをしたいわけでも、俳優に憧れるわけでもないっつーの。


親とか遺伝とか、中身とか、どうとか!!



「もう!」


昨日食べたシフォンケーキ、ついでに未知にも。ばーかと言っておく。


「もうっ、少しっ、慰めろよっ!」


石をつかんで、ばしんと3つ、川に投げ込む。

……無駄な体力を使った。


「あーすっきりした!」


自分勝手な自分が、たまらなく嫌だったけど、なおらないもんは直らない。

 引きで見たらかなりシュールな光景じゃないかと思ったらまた笑ってしまった。



綺麗になんかなりたくない。木のそばを離れて、図書館に向かっていると知らない人が付いてきた。

「お、おはようございますたー!」


セーラー服姿の、目のぱっちりした女の子。


「ご、ございますた……」

一応返すと、嬉しそうにどこかに向かっていく。たぶん友達がどっか奥にいるんだろう。


「やば、今の見られたかな」



急に恥ずかしいぞ……

と思ったが、気にしないことにした。


 別に、図書館で何をするわけでもない。ただロビーで座って、ぼーっとするのが好きだ。

ドアを押し開けてから、缶コーヒーを買って席に座る。


(学校までは、もう少しある。間に合うだろ……)

ちらっと時計を見る。

一時間はある。大丈夫だな。



 ぼんやり席に座っていると、ふと。初恋の相手に振られた日のことを思い出す。

綺麗な女性だった。

少し歩いた先にある、昔ながらの洋風な喫茶店に通う人で、よく会うようになって。初めて会った日からは、いつも先に来ていて。

いつからか俺が好きなメニューを頼む。

俺はというと単純で、そのくらいのことで「この人とは趣味が同じなんだ」となんの疑問も持たずに嬉しくなっていた。



 強い雨が、アスファルトを叩きつけている、そんな日のことだ。


「あぁ、こんにちは」

 前髪を濡らしたまま店内に急いで入ってきたOL風の人。その焦りを表すかのようにドアベルが乱暴に揺れて騒いだ。


髪は肩までで切り揃えていて、それをひとつにして結んでいる。

アイラインをきっちり引いていて、ハキハキとした印象を受けた。



一番隅の席で本を読みながらちびちびとコーヒーをすすっていた俺を見るなり「何を読んでるの?」と彼女は聞いてきて。

見た目よりも増して、好奇心に溢れているんだなと思いながら、ページをめくって見せた。


「建築、ね、ふうん。あっそう」


あっそうって……

はっきりしている人だった。持っていたのは昔の建物を撮した写真集で、アールヌーヴォとかなんとか紹介されている。


「何が面白いのよ、こんなの」


しらっとした目で言われて、でも一応聞くんだと思いながら説明してしまうのは、俺が流されやすいのだろうか。


「例えば、ここの、鉄橋の足、この形状だと普通は崩れてしまうんですけど」


ページをめくり、写真を指でなぞりながら言う。黙って聞いてくれている。

「三角になってますよね」

「それがなに?」


「あー、えっと……」


近くにあるペーパーを勝手に広げて、三角を作る。


「こう、三方向が、互いに支え合うと言いますかね」

「ああはいはい倒れにくいのね、そう言えばいいのよ」


うわ、ペース掴み辛っ。と思ったけれどなぜだか、こうも雑な人はなかなか居ないんじゃないかと思ってしまった。



 まるで落ち着きがなくて、カウンターと時計を交互に見ていて、途中から彼女は本に飽きているように見えた。


俺は、なるべく気にしないようにしてじっと本を読んでいた。


彼女はやがては苛立たしげに、とうとう、俺の席を離れて、カウンターの奥をのぞく。

今日は空いていて、俺以外はほぼ人がいなかった。

「あーっ、マスター遅い、昨日外で女と会ってたの見たけど、まだ来てないのね。あっちのホテル街に行ったんだと思う!」


ぺらぺらと、よく回る舌で彼女は言った。

んな雑な偏見あるか。

ホテル街って。

ドラマでは聞いたことがあるけど、朝の中で生きる俺にはあまり馴染みがない言葉だった。


「今日はおやすみだと、聞いていますよ。外に居たんだ」


「嘘、用事あったのに。

朝帰りして眠くて休んだんじゃないの!

サイテー!」


「いやいやいや」


クスクスと笑ってしまう。朝帰りとか、何年ぶりに聞いただろう。


「どうなんでしょうかね」

想像力が豊かな人だ。

普段、凛と清楚にしているマスターなだけあってギャップのある話に、笑ってしまう。たぶん、わかっていて言ってる冗談に違いない。


帰ってきたらからかってみようかなと思った。俺は、マスターとは仲がいいのだ。


テーブルに滴が落ちる。今更ながら風邪を引いちゃうなと気づき、はい、とタオルを渡すと彼女は目を丸くした。


「なにこれ」


「髪とか、拭いてください。雨のなか急いで来たんでしょ?」


「あっ。ありがとねぇ」


初めて笑顔を見た。

何か貰うと、すごく、嬉しそうにする人だな。


その日は、あっと何かに気づいたように顔をあげて時間を見た彼女の「また来るから!」が最後。

それからしばらく顔を見なかった。


それから、再び会ったのは、梅雨明けて夏になってきた頃。


「おはようー」


この前の苛立ちはどこへやら。笑いながらに喫茶店に来た彼女を眺めつつ、俺はというと、やっぱり本を読んでいた。


「あぁ。おはようございます……」


ぱらぱらとページをめくりながら、素敵な屋敷の写真をいくらか見つけた。昔の文豪の人がすんでいた場所、貴族の生まれだった人が過ごした場所、昔のお医者さんがすんでいた場所……


広い空間なのに、どこか騒がしく、でも、どこか寂しそうな感情を纏う建物。


このときの最近のお気に入りはレモネード。

マスターは注文のとき「リモネー」と言っている。

「相変わらずそんなの読んでんの」

いつもの席にいる俺に、いつもみたいにスーツを来た彼女が眉を寄せながら近づいてくる。

「はい。面白くて」







「どこがいいの?」


はっきり聞かれて、困ってしまう。どこもなにも。

「空気」


「空気ぃ? 見えない見えない」


「るさいな……っ!」


なんかこう、見えるんだってば。反論しようかと思いながらじっと見つめると目が合った。


「睫毛長いね。最近流行ってる、つけ睫毛?」


「はあ、地毛ですが」


「え、すごー。肌も、つるつるじゃない?」


「ど、どうも」


「私おばちゃんだから。若い肌とか、羨ましい」


「いや、まだ若いじゃないですか」


たぶん。30代くらいに見える。なんていうか独特の若々しさに溢れている。

「全然全然! それに、老いなんかすぐに来るわよ。油断しない方がいい。肉だってすぐに付くし。たぷたぷよ、私なんて」


「えぇ。気をつけます……」


 突然、若くないアピールを始める人はたまに居るけど、反応の仕方がわからん。


注文したアップルパイが届いたので、フォークを入れる。美味しいなと食べていると、彼女もそれを頼んだ。近くに店員さんが来たのでついでにラッシーを頼む。

レモネードの量が案外少なかったものだから、またなにか飲みたくなってしまったのもあるけど、

 そもそも、ラッシーは期間限定で、券をもらってたものだからついでに使っちゃえと思って。

「私もそれ」

しばらくして、少し離れた、右側の席で彼女がそれを頼んで居た。

券があるみたいだ。

「なんか、好みが似てますね」


俺は笑ってた。

彼女は、そうかもしれないと言った。




 いつも、喫茶店には学校の放課後に行く。

すっかり青一色な空を見上げて、帰り際は、今日もいいことあるかななんて思っていた。


「最近なにかあった?」


少し授業で遅くなった帰り道、同級生に言われて俺はんー、と濁した。


「あ、なんかあったんだ。すごく楽しそうだよ」


ルイと呼んでいた彼は、穏やかな性格で、目もともくりっとしていて、居るだけで場がなごむようなやつだった。

あだなの由来だって、雰囲気が貴族っぽいとかいうバカみたいな理由。


「いや、さぁ……」


「ん?」


「なんでも。ない」


空を飲み込みそうな入道雲を見ながら、なんだかむなしい気持ちになった。時間はいつも、止まらないと、どこかで知っていた。






 店の中に入ると、その人は既に来ていた。

マスターと話をしてる。

頼んでいたのは、最近俺が毎日食べていたアップルパイ。それから、いつも座っていた定位置で、城や屋敷が乗っている写真集を読んでいた。


「あのー……」


「あ、こんにちは」


「こんにちは」


明るく笑われる。


「それ、買ったんですか」

「借りたのよ、いいでしょなにを読もうと、あんたの席じゃないんだし」


「そうですけどね」


はは、と笑う。もしかしたらいつの間にか共通の趣味なのだろうか。

あまり周りにいないし、純粋に「嬉しいな」と思った。


 性格は合わないかなと思っているけれど、でも、話が合う人になりそうだ。


その次の日は、晴れていて、日曜日だった。

お気に入りだったチョコケーキが無くて、しょんぼりしつつも、チーズスフレを食べていた横の席で、彼女を見つける。


「それ、最後のチョコレートケーキですか。いいなぁ」


話題ついでに羨ましくて話しかけた。


「そうよー。

あ。あんたこの前、女の子と歩いてたでしょ」


「好きですね、ソレ」


ケーキより、俺の周りが気になるらしい。


「あれは、学校の友人でして」


「あっそう。可愛い子だったけど、やっぱり家とか連れ込んだの?」

「ふふふ。んなわけないですよ!」


「怪しいなぁー」





他人と自分は、いつもずれている。

景色も、思うことも。






 ときが過ぎて、だんだんと夏が盛りになって。


環境はいつのまにか変わっていた。



いつの間にやら彼女の薬指には指輪があって、それから、マスターに。


「こんどイタリア旅行しようよ」

とか言っていた。

「すっかり、そういうのにはまったな」

マスターの低くて優しい声がする。

明け透けな印象からしても、彼女の行動やらなんやらに驚きはしないのはそうだったけど。

前まで散々に言っていたマスターをサクラさんは今ではずいぶんとベタ誉めする。


「失礼ね、私もともとこういう、アンティークとか興味があったわよ?」


(えぇ……また自由なこと言ってる)


「なにか?」


「いえ……」


奥の席で、今日は課題をやる俺の耳に、カウンター席からの声がしていた。

「あ、そういえば、マスター聞いて。この前私見たの。あの子……」

俺を指をさす彼女は嬉しそうで。

やけに、胸が痛かった。


 気が付くと店に来る回数が減っていた。特に、理由があったわけじゃない。いや、あったのかな。

どう言いふらされてるのかと興味が無いわけじゃないけど、どうせまた自由なことを言っているんだろう。

誰かを楽しませたい一心で。






「どうしたの?」


 コーヒーを飲み干して、席を立って捨てに行く。途中で声がかかる。

知らない人だった。

「いや、その……」

見る目がないと、友人たちは言っていた。見る目もなにもなく、俺は、もともと、なにも見てない。大抵は自分なりの好意的に受け取ろうとしてしまって結果として、なにかが違っている。



 あのときも昔の建築物の話をしていたはずだった。いつの間にか俺の生活とか、そういう部分ばかり聞いてくるようになる彼女が怖く、異質に思えた。

あぁ昔から言うじゃないか。

趣味なんか口実だった、とか。

なんかちょっと話したら違ったから、とか。


「懐かしい日々を振り返りながら飲むコーヒーは苦いなあと」


「え、詩人?」


 背の180くらいある男の人だった。 スラッとしてて、茶髪で、切れ長の目で。よく漫画に出てるような。


「……違います」


っていうか誰だ。

誰でもいいか。


「君はこんな朝から、どうして図書館に?」


ぎっく、と背筋を伸ばしてしまう。

ひどいひどい、プライベート。


「学校が休みなんですよー」

「ふうん。そうなんだ?」

優しげに微笑んでくる。お、おう……。


「まあいいけど」


いいのに聞くなっ!

思わず噛みつきそうになる。我慢だ我慢。

つい悪い癖が出そうになる。俺は初対面の人になにしてるんだろう。

「きみ、意外ときれいだね、肌とか」

「意外な発見、ありがとうございます」

「あら。ハハハ! からかってみたのに」

「そうでしたか。すみません、リアクション出来なくて」

「さては、いい人だなー?」

ずきん、と胸が痛んだ。俺をいい人と言うひとは居る。でも、違う。自分が悪く言われたって俺はある程度までは、気にさえしないんだ。

だって。

きれいじゃないもの。

だから人の悪意にも善意にも、まるで気がつかないんだと思う。




誰からも好かれるんじゃなくって、

俺を傷つけようとか、そういう気持ちに鈍い。


なのに、それを誉められたりすると、急に自覚する。


いい人なんて、つまらない。

裏があるに決まってると言われるくらいなら、裏だけでいいじゃないか。

表って、なんだ。


これが、表なのに。


「おいおい、今度はどうした、褒めたぜ?」


「いい人に、いいことなんかないんですよ」


思わずさらっと告げてしまう。なんだか、逆なでされているみたいだった。何人もこれで口説ける、みたいな。

裏と表がはっきりしていて、羨ましい。

きっとこれが、人間味。

「あんたは、なんでそんな、飄々としていられるんだ?」


ああ、やばい。


「なんで、俺とは違う」


俯かないと、泣いてしまいそうだ。ハハハハ、とその人は笑う。


「いい人、いいじゃん。だめ?」


「っ……」


そんなに穏やかに言われたのは初めてだった。悔しい。


「度々変態につきまとわれたり、押し倒されたり、したことが」


無いからそう言える。

言おうとしたけれど、言葉にならなかった。だって、きっとこの人はそんなゴタゴタに慣れてて、うまくかわせるんだろうと、思ってしまったから。


 「っもう、いいです、帰ります」


ふいっと背中を向けて、出口へ向かう。

途中、男が近寄ってきて耳打ちしてきた。


「そういやさっき石投げてただろ。あれ、面白かった」


なっ!

顔が熱くなる。


「だ、だだ誰にも言わないでください」


やめてくれ、気になってしまうところだった。

好意なんか、あったところでどうせ無駄にするんだし、最初から作らないようにしないと、このままでは13回目パーティになってしまう。

さすがにもう、やめなくては。

こんなことがある度に好かれる前提の話など傲慢だよなと思う気持ちもあったりして、無駄に、辛くなってしまいそうで。

付き合って後悔させるよりは、それ以前に失望させた方がマシじゃないか?

なんて、思ってたのに。だって。

どうせみんな――

同じことしか考えてないって。

なのに。


「初めて、きれいじゃない自分を褒められた」


失望、しないのか。

道の途中で立ち尽くした。全身がまるで心臓になったみたいだ。

そわそわして落ち着かなくて。


「思ってたのと、違う……」


言われる側だった言葉を、自分で呟いてみる。

生まれて初めて、戸惑う側になってしまった。

ドキドキと心臓がうるさい。きっと、壊したくなるに決まっているのに。

むしゃくしゃしたので、「もう二度とここに行かない!」

と叫んでやると思った。

後ろから「それは寂しいなあ」が聞こえたのも気づかずに。


 「よ!」


とんっ、と肩に手を置かれてびくっとする。

え、なに。

振り向くとさっきの人。

「いや、その。悪かったな」

やけにキラキラした笑顔を振り撒いてくる。

そんなことしたら、と思ってから、普通は人に好かれるのが当たり前なのだと気づく。

「いえ、大丈夫です」

「違う違う」

違、う?

「前にお前が助けた犬。結構大事なやつでさ、あれ、覚えてない?」

「お、覚えてますが」


犬は。

そこに居た人の顔はよく見ていなかった。わりと避けるようにして走って帰っていたから。


「あれの礼を兼ねて声をかけたつもりなんだが」

「あー……えっと」


待てよ?

急に頭のなかが?で埋め尽くされる。ちょっと待て。

状況を思い出さないと。














昨日の12回目。そのときの人には確か完璧にふられたはずで。

えーっと、思考が追い付かない。ま、いいか。


「あー。それは、いいです」

いいとか悪いとかじゃなくて、気を遣わせてもなという気がした。


「失礼します」


とりあえず、帰ろう。

携帯を開いて時間を確認すると、ドット落ちしてるのか、画面にバラバラと幾何学があって、ちょっぴりカオスだった。

誰も居ない部屋に帰宅する。


午後から出掛けるつもりだったが、遠くでサイレンの音がしていただけで嫌になってきた。

実はあれを思い出すとどうしても身体がすくんでしまう。理由はわからないけど、たったそれだけで、逃げ出したくなってしまうので、部屋の隅で耳を塞いでいた。


「ダサすぎるだろ……」


と思うけれど、怖いものは怖いのでとりあえず布団をかぶっている。


幽霊やらなんやらは、あまり見ていないからなのかそこまで怖いと思わないのが不思議だ。

しばらくしていたら聞こえなくなったので、ほっとして立ち上がる。


「さーてと」


夕飯でも作るか、と腕まくりしながらいつまでも情けない自分を嘲笑する。

救急車が怖い、なんて。パトカーが怖いやつなら沢山いるんだけど……

さすがに、どれだけ居るんだ?


 シンクに置いたまな板の上に玉ねぎを置いてトントンと叩くように切る。数件来ていた携帯へのメールに返信してから、鍋をかき混ぜる。


誰かから聞く優しい自分とか、優しい世界とか。なにもかもが、たまに見世物みたいだと思うから友達にも距離をおいてみたりする。


「わりかし、終わってるなぁ」


なんて思いつつ味見をした。結構うまい。


だって、たまに嫌になるんだ。醜い自分とは対照的で。こんなの俺じゃない、だろ?

認めたくないんだ。

優しい自分。

綺麗な自分。


裏がある裏がある裏がある裏がある裏がある……




「いい人なんてつまらない」


いつまでも笑えば、いつだって幸せはそこにある。いちいちつまらないことで悲しんで苦しんでは、自分も笑えばいいのに。

そんな弱い誰かは決まって俺のせいにするんだ。

「裏があるに決まってる」

って。



笑えば全部が表になるんだよと教えてやれば。

傷つくことを傷つかなければ全て表になるんだよと、伝えてやれば、どんな顔をするだろう?

裏なんて持つから弱くなる。


 誰かに好かれる自分も嫌い。

だって嘘を吐いている気分になる。


『裏があるんだろ?』


綺麗な自分も、優しい自分も。

本当に認められたかった誰かには、認めてもらえなくて。

あるかもしれない裏を探したまま、立ち止まってしまう。



生きているだけで、嘘つき。やること為すこと、きっと偽善。

醜い醜い塊。


呼吸するのも歩くのも何もかも、


憎くてたまらない。




 せめてサイレンくらいはいい加減にどうにかしなくては、と思いながらハンバーグをこねる。


思い当たる理由など放棄してしまったせいで、どうしようもないので、作りながら、一度手袋をしてパソコンを開き、見えるようにテーブルに置く。

それから動画サイトで車の動画を再生した。


ピーポー、とけたたましい音がして、びっくりして一時停止してしまう。それから、改めて音量を調節して閲覧。

けれど一体何がどう怖いのかはいまいちわからなかったし、画面を隔てるせいなのか、安心感があり、あまり怖くなかった。


ポケットに入れていた携帯が鳴る。出ると騒がしい声が聞こえた。


「ねぇ、合コンいかない?」


あー、愛姫。

クラスメイトだった。


「興味ない」


「なんで? きれいで、優しい、そこそこの人が来るって言っちゃったよ」


「お世辞は要らないって」

「お世辞じゃないってば」


「なんで……」


なんで。


「なんで、お世辞じゃないんだよ!」


ぶち、っと切れてしまう。愛姫は戸惑ったように、え? え? と言った。

「どうせ……そんなこといいながら、俺に裏があるって言ってるんだろ! どこだよ裏って、もう嫌なんだよっ!」


完全な八つ当たりだった。勢いで電話を切る。

たぶんぽかんとしていただろう。



好かれる自分も、綺麗な自分も、優しい自分も、なにもかも信じられない。崩れ落ちるようにして泣いた。



 またサイレンの音がしている。何が怖かったかも忘れてしまったせいで、相談も出来ない。

知らない人にさわられたときも、もう具体的に何が怖かったか覚えていない。


ただ、ひとつだけ。



痛みだけを、いつも覚えている。








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