EMERALD-MIND

 その夜。闇も深くなった深夜の、廃病院。山梨にある、誰も寄り付かぬこの場所で――彼は、自分が生まれた場所に来ていた。

 深山弘二。

 絡み付く黒い暗がりの中で、彼は車を止めライトをつけっぱなしにして入り口を照らす。

 だが――すぐに、何者かに消されるようにライトは消えた。

 月と星に照らされた闇夜に戻される中、背後に何か。あたかも矛盾しているようだが、無機質な息遣いがする。いや、背後だけでは、ない。

 こちらを取り囲むように数人――数体、か。渦のような、影によって凝った四足の獣じみて歩くソレに対し――深山は、無言でその気配の中心に対し振り向きもせず肘打ちを加えた。

 直後、小さなわめき声に似た雑音を撒き散らして気配が霧散する。

 見ると、何か人らしき形に固められたアスファルトが、影のような黒い何かで固められていた。その中心点となる影を打ち抜いたせいで、形を保てなくなったようだ。

今さら、何が来ようと驚きはしないとばかりに、深山は廃病院へと入っていった。

 感覚が研ぎ澄まされるのがわかる。

 生まれてこの方深山弘二も喧嘩のひとつしなかったわけではない。が、たまにゴタゴタが起きていた学生時代すら到底及ばぬ状態。何より腹が据わっていた。果たしてそれは今も耳に付けたMDSの力か――わからぬままに失い続けた自棄の心から来る、尋常ならざる心境がもたらした物か。

 闇夜の廃病院の中、割れたガラスから、戸から、床から這い上がる影に固められた人形を、打ち砕き、殴り伏せ、頭を壁の角に叩きつけ、蹴散らしながらある部屋まで、彼は押し黙って入る。

 そこには影の人形も居なく、それはただ一人で待っていた。闇の中、深山弘二と虎井シンがかつてそこで散々泣いたであろう、出産の大部屋の中で。朝を待たずに――深山が来るのを。その待ち人は、今正に深山を見て、和やかに問いかけてきた。

「……待っていたよ」

「皆神、さん」

「ああ。君にだけは知られたくなかった。警告のつもりだったんだよ。あれは……事件を気にして離れてくれればと、思ったのだが」

 どこか悲しげな憂いを含んだ、老いた男がそこには居た。

 皆神、と呼ばれた男。

 皆神としか、誰も知らない男。

 彼と同じ世代の超能力者を、ロクに見た事が無かった。彼の家族を、親類縁者を誰も見た事が無かった。そして――誰も、その事実を気にも留めていなかった。それでも当たり前の存在として周囲に溶け込んで、混ざっていた。

「マザリは――貴方が、起こしていたんですね」

「ああ……一時は、誰か別の超能力者を犯人に仕立て上げようとは、したがね。向かないと言う事で結局は処理してしまった。自然の事故ということで済ませる路線で片が付いた……どうにも、今回は一度に仕事が多すぎたよ」

 疲弊したような言葉には、嘘は感じられない。そも、思い返せば皆神が疲弊した姿自体をまず見たことがないのだが。深山は険しい顔で問いかけ続ける。

「マザリだけじゃない。あなたは歴史上において、何か異常な現象の起こった場所で写真や目撃情報が確認されている。どの痕跡もただの見間違いの影として処理できそうな、薄ぼんやりとした物ばかりですが」

「……人の世とは恐ろしいね。できるだけ隠したつもりだがそれでも記録は消しきれない。まあ、それでもフィッツジェラルドの時などは上手くできたと思ったんだが」

 唐突に、浮いた名が出てきた。が、深山はそれに驚きを特に見せずに会話を続ける。全ては情報を受け取った時に、わかっていたことだ。

「櫻田はなんだかんだ言って、凄腕だったということです」

 当てつけのような深山の声色を皆神は否定するでなく、伏し目がちに頷く。

「確かに。だが、皆にはタダの超能力者としての存在で自分たちに満足してほしかった。あの程度の玩具で、済めばまだ――こんなことには、ならかったろうに」

 櫻田をその手で殺した事を心底悲しんでいるようだった。深山の顔は、更に強張る。

「MDS……ですね」

「ああ。今の君なら、私が放つ偽装された精神波をいくらかだし抜けるようだね。もう充分にかなりの危険因子――というわけだ」

「動画を見てしまった人たちのようにですか?」

「そうだ。私は再三彼女を――いや、それより君のご両親を、秘密裏に止めようとはしたんだ。それなりに昔からシン君には影ながら援助をしてきた。娘のように……とまでは行かないが、監視の過程でそれなりにまともに育つよう誘導してきたつもりだ。だが、彼女の勘の良さと行動力は君より上だったらしい。それでも……衝動に駆られた君のご両親まであんな行動を取らなければここまでは……いや」

 どちらにせよ、彼女は処分せざるを得なかったか。そう、皆神は言った。

「君のご両親は最後まであくまでタダのニンゲンだった。なるべく殺すべきではなかったんだ。だからこそ数々の暴挙や情報のやり取りを許してしまったわけだが――」

「あなたがそこまで人を殺す意味は」

 まるで、当人が動いているというより巨大な何かに命じられているような口ぶりだった。

「ああ。私は国家や民族の概念が通じない、まあ……現代社会的視点からすれば荒唐無稽とも言える、高次元的な組織に属する超人的な存在だ」

「…………」

「うそ臭いだろう? まあ超能力者の君たちがそう考えるのも変だろうが、ね。むしろ不可思議な力を使うものこそ、それ以上におかしな物を認めにくいものだ。現実離れした物に対して、更なる固定観念があるからね。ま、私も実戦部隊の尖兵に過ぎない。責務に骨身を削られる下っ端さ」

 それは深山が始めて会った時と変わらない、あの皆神と同じ口調に同じ所作。優しく気のいい男だったあの時と全く同じ――

「赤子だった君たちの情報――魂が持つポテンシャルを分割するために、私の心霊医術によって君たちは異なる個体として分割させられたんだ。できれば、そのままタダのニンゲンとして過ごして……ほしかったよ」

 それはおそらく本音ではあったのだろう。本心だと、わかってしまった。今の深山は、彼の精神的な防御を抜いて本心を察しつつあった。そしてそれは皆神と――皆神の属するなにかから、危険な存在としてみなされるデッドラインを越えていることも示している。

「赤子の頃から明確に才気を見せる存在は珍しいんだよ。殆どはもっと秘められているものだからね」

 それは、皆神自身も赤ん坊を相手取ることはそうそう無かったのだと言う吐露を意味していた。

「だが俺はともかくシンは、大人になっても長年自分自身の感覚に貪欲な疑問を持ち続けていた。自分の能力の半端な限界にも」

 その行動は恐らく皆神にも一切制御や誘導ができなかったのだろう。一度こうと決めたことを突っ走るような印象のあったシンは完全に皆神にとっても扱いに困る存在に違いなかったのだ。

 だからこそ親から引き離してなお、皆神自身が距離を取って直接は関わらないようにしていた。だからこそ――もはやどうにもできぬと、深山弘二より先に虎井シンを殺した。

 その契機は紛れもなくあの機器の使用に違いなかった。

「まさかあんなごく普通の研究機関があそこまでの物を発明しているとは、予想外だったよ。彼女は中途な状態で更なる才能の開花を求め、半ば発狂しながらもデータを残した。そこから君の両親だ。ご両親は精神感応と解析をもたらしニンゲンの精神に影響をもたらすMDSの力をある種の更なる進化と……君を一種の「御神体・本尊」として考えた彼ら独自の異常な世界を構築するためのトリガーと考え……バラまいた。知識も見聞も資質もロクに無いだろうに、残された妄執だけでそこまで行くとは流石に予想外だったよ」

「あなたは……」

「コンタミだよ。あの情報は……彼らが引き起こした未知の汚染だ。あの力がきっかけで何か厄介事になると面倒なのでね。調べては少しでも兆候が起こる前に動画を「踏んだ」該当者を処分し続けていた。その中では超能力者にあたる人種がまず最優先だったわけだが……」

 なぜ、そんな。と、聞く深山。

「保身的な理由――我々にとっての秩序のためだ。未知の力を有した不穏分子は怖い。この惑星が滅びる程度で済めば恩の字だ。最小限の犠牲で穏当に、というつまらない理由だよ。より大きな存在から見れば、ね」

 そんな理由で。一体この男は……歴史の裏で、幾千幾万の人間を殺してきたのだろう。どれほどの血を見てきたのだろう。そこにはうかがい知れぬ影が――まだ皆神が人の姿をしているにも関わらず、深山の目には影が見えた。

 その姿以上に皆神は老いて疲れ切った「なにか」だった。表層的な外見だけではなく。その奥に、もっと淀んで無数に折り重なった――影。

「家族も、国家も、社会も……あらゆるコミュニティは自分たちの安定を保持するために障害物を排除する。人ならざる我々もその点では例外じゃない。君の怒りと無念はもっともだ。だからと言って手加減をするわけにはいかない」

 影が集まるようにして、老いた身体に塗り固められていく。物質や魂を混合するパレットを操る、影法師。皆神の真の姿が顕現する。

 それはあらゆる絵の具を固めたように凝った、黒ずんだ灰色だった。どこから喋っているのかわからぬ声色が、深山へと伝わってくる。

「恐怖はあるだろう。憎悪もあるだろう。君はここで死ぬ、だが苦痛で死なせはしない。それだけは……約束しよう」

 深山はそこで思わず悲痛な声を、叫ぶように発した。

「数々の人たちのように……父や、母……シン……櫻田のようにか!!」

 そうだ。と静かに呟くと、影法師は一瞬で距離を詰め、恐るべき速度と膂力で深山の顔を掴み、背後の壁の中に深山を溶かし埋めていく。悔しさと言いようの無い恐怖――そしてよくわからない感情に身をよじり、深山は嗚咽する。

 その涙を見て――ほんの少し、影法師の手が緩んだ気がした。しかし、既に溶けあう肉体は止まらない。止まらない。心身が曖昧なモノへと化していくのと同時に、死が近づいていく……深山は、死にゆく。

 否。

 今は違う。

 それはもう、深山ではない。

「俺は」深山弘二では、ない。

「俺」「私」は……!

 何かが、影法師の手を掴んだ。

 それは、溶けいく「深山だった物」の胸元から出ていた。締め付ける女の腕と顔。上半身。その眼差しは――正に。

「お前……は!」

 虎井シンの、顔だった。

 シン――のように見える何者かの手に腕をぎりぎりと締め付けられ、影法師は引き寄せられた。更にもうひとつの手で、首元を締め付けられる。明らかに不自然な動きで強引に投げ飛ばされ。床が爆ぜ、始めて影法師が苦悶の顔を見せる。

 それは物理的ダメージと言うより、眼前の存在に対する混乱による精神的ショックが大きい。

 蠢くような音を立て。埋まりつつあったそれは影法師の「混ぜる」力を事も無げに引きちぎり、壁より飛び出す。その挙動は到底ニンゲンのそれではなかった。

「…………君、は。一体」

 影法師の問いに対しそれは返答せず。背後の壁が崩れると同時に、手足や飛び出した胴体が折り重なる。あたかも粘土細工が形を崩し異なる一つの塊へと捏ねられるように、潰れ圧縮された形を徐々に形成していった。

虎井シンらしき何かと、深山弘二であった何かは曖昧に溶けあい、生物――と言うより大理石でできた輝く蛹のようにやがて固まる。その蛹の光沢は青のようにも。緑のようにも見えた。死体か? 否、死んだ――と言うには、蛹の内より存在感が激しく増し続けている事実を影法師は確かに認識していた。

 魂の揺らぎ。

 自分と同じく、高次元に属する何者かの力を。

「肉体の全ては分離された、何より脳も――精神も二つだったはずだ。なら、君のその揺らぎは……何故、何故そこにシンが」

 魂は、ひとつだったとでも言うのか。

「分断し、片方を殺そうとも、その総体は揺るがなかったとでも――!」

 解き放たれた蛹から、一つの何者かが現れる。それは、それらは互いの真の名を知っていた。

 行くぞミドオ。

「ああ、アドリ」

 色の抜け落ちたような硬質のつるりとした甲冑の顔からは、エメラルドの丸く大きな二つの眼が見つめてくる。肩からは眼と同じ輝きを見せる、流動する結晶――とも呼べそうな外套を纏っていた。

「それが……その姿が……!」

 人を越えた姿。その名は――

「俺がミドオ」「私がアドリ」

 そう、それは言った。

 その本質は変わらない。肉体を分かたれ、別々の人生を歩もうとも……それは生まれた時の姿が、時が経つにつれて別々の認識をされたに過ぎないのだと。

「またの名を――」

 ミドオとアドリは続けて何かを言おうとするが、影法師はそれを聞く暇もなく後ろへと下がる。壁を抵抗もなく水面を潜るようにすり抜け、屋外の門前近くの上空まで。更には瞬時に空中から着地したと同時に、ミドオとアドリが居るであろう方向へと手をかざす。

 直後、影法師の力によって周囲の景色が廃病院ごと溶け混ざり、沈んでいく。地面と病棟。空気分子と空間が、溶けていく。地殻変動すら足元にも及ばないようなエネルギーが荒れ狂う。原子規模の数のミキサーが存在ごと混ざろうと、断とうと立体的に襲いかかる。それらは呪詛を帯び霊的な側面からすら逃げ場の無い檻となって、敵対者を消し去ろうとしていた。

 ぐちゃぐちゃに影法師の前の空間が混ざる。

 やがて範囲内の廃病院全てが溶け固まり、物理的にありえないような流動体となって痕跡すら残す物かと押し固めていった。嵐を封じ込めるように、全てが沈んでいく――

 しかし……エメラルド色に輝く衝撃が、影の手を吹き飛ばした。混ぜ固められた建物と地面が弾ける水面のようにかき分けられる。

 暁の光が、差し込めた。

 流動体が跳ね飛ばされ作られた道を、一歩一歩踏みしめ、ミドオとアドリは迫り来る。朝日に照らされきらきらと光る道を、歩いていく。

 影法師は、思わず口を開く。

「君は――君たちもまた、今となっては私と同じ領域に到達した。いや、私以上の強さを持ち、その力はこれからも増大しつつあると見た……良いのか。ここで死んだ方が、まだ人らしく終われるかもしれないんだぞ!?」

 それは……追い詰められて出た言葉ではあるが、だからこそ――本音でも、あるのだろう。ごく普通のニンゲンとして生きてきて。あるいは孤独な者として生きてきて。まだ余計な物を背負い込むのかと。

「構わない」

 それでも歩みは止まらない。言葉に対し、何一つ揺るがず。むしろ問いに返すたびに更に圧力は増大していく。

「ニンゲンでなくなろうが……俺たちがなんであろうが……!」

 拳を握り締め。

 輝きが収束していく。

「なんのために――」

 朝日と入り混じる光を見た影法師は――思わず、その姿に見入るように固まり、悟った。

 この者らは止められないと。

 それでも此方とて勝負を捨てて諦められぬとばかりに、影法師が腕を拡げると、彼の一部が影の矢となって散らばりながら高空めがげて飛んでいき、やがてミドオとアドリの周囲一帯に黒い雨のように降り注ぐ。

 だが、走り抜ける甲冑の拳から漏れいずる輝きが、降っては止まぬ矢を蒸発させるように吹き飛ばしていく。瞬時に――影法師の眼前までミドオとアドリは何の障害も無かったかのように突撃し、迫り。

 瞬間、影法師は至近距離のミドオとアドリに対し、地に降らせた「矢」を引き戻して更にぶつけようとしたが――その暇すらロクに与えず。

 拳が開かれ、輝きが炸裂する。

「――どう戦うかを決めるのは「俺」「私」自身だ――!」

 腹部と思わしき部分を跳ね上げる掌打に乗せられた衝撃が、影法師を空まで叩きあげる。固体のように定着した衝撃波が、日の光に染まる朝の空を、この星の空全てを。更なるエメラルドの色に上書きして――飛び散った。

 そして空に霧散する衝撃の中から落ちた影の残骸は、回転しながら地に激突する。

 かき混ぜられた挙句吹き飛ばされた、もう廃病院どころか何か建築物があった場所とすら言えない爆撃され干上がった沼のような場所に落ちたそれは、呻きのような物を残しながらも大穴とヒビにまみれ。消えて、死んでいく最中だった。

 いつの間にかミドオとアドリは、襤褸切れのようになった影らしき物の傍らに佇んでいた。

 影法師だった物は空間に解けて、液体に落ちた角砂糖が散らばり薄められるように拡散していく。影が解体され消えゆく過程で――皆神の、顔が見えた。

「……皆神、さん」

「いい、んだ……君は、勝った。なら、勝ち続けなさい。死んでいった者らには、もう――できないことなのだから。君の子、茂君も。いずれ、狙われ……だから」

 戦うんだ。皆神は、そう言い残して消え去った。

 ミドオ――深山の目には涙が流れていた。涙を流しながら、肯定するかのように感じ取れる言葉が、口から漏れ出ていた。そして彼の中で、アドリはただ黙っていた。何か余計なことを今口にしても、蛇足であるとでも示すかのように。

 やがてそれは去っていく。

 影法師も、エメラルドの衝撃も。人界が検出できるカタチでは、それらの情報の一切は残らない。ただ破壊の痕跡のみが残されていた。

 後にこの場所は最大にして最後のマザリ――謎の攪拌事件として人々の認識へ刻まれることとなる。真相は、限られた者しか知らぬことであった。

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