Singh,Another side of emerald(4)

「ぐ……ぐぐっ」

 気絶していた民の一人、ハネは痛みに目を覚ました。見慣れた森の中――あの言い知れぬ女に、自分は瞬く間に負けたのだと思い出す。目覚めてすぐに思い返す内容としては、至極不愉快な事実確認だった。

(身体がガタつく――ぐっ、一体どれくらいの時間が経った? いや、とにかく。長の元へ帰還せねば)

 長はどうしたのだろうか、負けたのか――どちらにせよ、これから民はどうすれば良いのか?

 あらゆる疑問を抱えながら、木々の間をハネは走り抜ける。さほど時間も経たず本拠として構える洞穴に戻ると――皆、気配が無い。

 すわ、シンと申す輩に浚われたか或いは――と、ハネは叫んで長の安否を、いや存在を見つけようとする。

「長! 長! おられますか! ご無事ですか――」

 ふ、と。何か――濃い、異常な気配を奥に感じて、目をそこにやると――ハネは、その光景に硬直した。

 長らしき何かが、見るにおぞましいもやを帯びた何かが――岩に埋まっている。驚愕にも似た険しい顔が突き出て……握り締めた拳の腕が、少し離れた場所にあった。

 そして。長の隣には、影をかき集めたかのような、何物かが立ち尽くしていた。

「お前は……その、姿は」

 影法師のような何かが――滑るように、こちらに迫ってくる。

 ハネは叫んで、翻って駆けた。そのまま逃げ続けた。肉体に蓄積したダメージも、疲労も全てを無視して――最も安否を優先すべき存在として心の内にあった、長のことさえ気にならぬままに。

 いや、むしろ……長が、この恨みを抱えて逃げろと言ったような気がした。

 この憤りを、消さないでくれと。あの光の消えうせた目がそれでも言っているような、そんな錯覚にも似ているが確信めいたメッセージをハネは感じた。

 咄嗟に人気のある遊歩道まで逃れるか、人里に紛れ込もうとする。今は何よりあの影法師から逃げ切る事が先決だ。

 ハネの肉体は加速を続け、四足獣のような動きをした弾丸となって凹凸のある地面を苦も無く疾走する。明らかに形容し難い怪しげな物が宿りつつあった。

(長の分まで生きねばならぬ――)

 根本として恐怖に突き動かされての物であれど、その思考もまた嘘では無い。長に凝っていた物が、その死を見た同胞たるハネにも徐々に憑依し、整いつつある――

 だが、その生を望む願いが実際に叶うかどうかは、別の話である。

(おかしい、普通の人間ならともかく我々が……青木ヶ原の民が、ここで迷うことなど。いや――)

 距離感が、おかしくなっている。

 思わず立ち止まる。負傷が残るコンディションにも関わらず、自分は今までの生涯で最も速い疾走を可能としている。なのに――まるでどこにも出られる気がしない。そっと、振り返っても誰も居ない。

 見覚えがあるはずの場所から、出られない。ハネはグルグルと見渡し、途方に暮れる。不安と焦燥が強まりながらも――限界が来るように足が、止まる。

 そして。

 ある瞬間、目の前に影が差した。

ッ――――」

 とばかりにハネの口から息が漏れるのと同時に、その顔は影法師の手に握られた。

 暗闇に捕まれた何も見えない視界の中で。ずぶり、と。地面に首から下が押し付けられ、己の血肉と土、木が混ざる音と感触だけを彼女は最後に感じた。

 そしてまた、青木ヶ原樹海の死体が増える。誰も気付かぬまま――地面と混ざったそれは、ただの木々の合間に挟まるしゃれこうべと化す。

 それが見つかろうと、誰もマザリなのだとは思わぬまま。やがて――メディアに確かな攪拌事件として報道されるのに先んじて、関東圏で今年始めて起こったマザリの事件だと気付かれもせぬままに。ただの自殺者のかけら、何の変哲もない処理すべき白骨死体とみなされ――ひとつの民がこの日、人知れず消えた。


 シンは――どうにか、全てが終わってから樹海の道なき部分を脱出し、国道に繋がる遊歩道まで出ていた。

 追ってくるのなら別にそれでも構わない。

 疲弊と傷を黙殺しながら日も暮れかけ、柔らかな赤に染まる遊歩道を歩く。

(世間と切れた人生という意味では、自分も彼奴らのことをとやかく言えないだろうに――な)

 思えば、シンの人生には特に人との関わりと言う物が無い。ただ物足りないような欠落を感じては、自身に力が足りぬからそうなるのかと、戦い続けてきた。

 そうやって記憶を遡ると――ぷっつりと、ある地点からの記憶が無い。

 数歳児程度の記憶からしか……いや、そんなのは当たり前だろう。人間の記憶と言う物は、三歳頃から固まるものであってそれ以前の記憶が無いのはむしろ正常な証拠だ。

 だから、記憶が無いと言うのは単に幼児としての記憶を捏造する思い出や情報――親からの当時の話だとか。アルバムの写真や、生まれた時の逸話が無く――思い込みを生み出せるだけの余地も無い、というだけのコトだろう。

 シンは孤児だ。

 その孤独感を埋めるために戦い続けてきた、そんな凡庸な理由に突き動かされた人生、というだけなのだろうか。

 少なからず身よりも無い天涯孤独の人間の心を読んだことは、ある。孤児は孤児をよく知るものだ。

 時にねじくれ、時に折り合いを付けていたが――どれも、シンの心に一定以上の共感は生まれなかった。客観的に相手の心を読むことと、読心ができぬ主観的な自分自身の心の面持ちはまた別に思えるのか、もしくは心を読むと言う力自体がシンの精神構造に影響を与えているのか。それは当人にも判断のつかない領域の不明瞭な部分である。

 シンが読心を人間関係を如何こうするためではなく、主に――殴り合いでの、感覚を研ぐ道具として使うようになり十年以上経つ。

 あと何年自分はこんなことを続けていられる、と思ったのも未成年の頃から一度二度ではない。そう思っては人知れず超能力絡みや、そうでない物も含む喧嘩を続け、争いを続け、時にこういった介入まで続けて今に至り――こうして、傷を負いながら誰も居ない樹海の遊歩道を歩いている。未来永劫、この道が続くような錯覚が起こり、それを振り払うように足を進める。

 日暮れまでに一定の場所まで行かねば、疲弊は蓄積する一方である。シンの中の冷静な部分が足を止めさせない、はずだった。

 その時、目の前の地面に、夕日に照らされ伸びる影が差した。

 人が居た。

 通行人か、と思い顔を上げると……そこには、満面の笑みを浮かべた老夫婦らしき二人が立っている。

 曖昧な笑いや観光を楽しんでいるわけでもなく、誰でも無いシンのみに向けて凄絶な笑みを浮かべていた。

 ああ、目当てのモノが見つかったと言わんばかりに。

「ようやく見つけたよ。シン」

「――弘二に会いたいかい?」

 手を差し伸べてくる老人たちのその言葉に対し――シンは、見知らぬ初めて会ったはずな二人に満ちた狂笑とは対照的に、柔らかな笑みを浮かべた。

弘二、という単語を聞いた瞬間。彼女は――今までに無い深い共感と、欠落が埋まるような感覚を始めて覚えたのだ。

 そして彼女は向かう――

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