Singh,Another side of emerald(3)


 シンが今にも迫る洞窟内では、長の回りに二、三人ほど固まっていた。

「ヨ。アラ。キイト。レン。ガク――カナラもです」

 煤に汚れたジャンパーを羽織る、矮躯の子供のような者が、いくつかの単語を発声すると共に地面にあった小石をいくつか取り除く。

 次々と消える民を、なんらかの監視によって捕捉しているようだった。

「我々は隠れることや潜みながら狩ることには長けておりますが……対等の争いには全く向きませぬな、長」

 布、と言うより帯を顔と手足の末端を除いた全身に巻きつけたような様の――木乃伊とも蓑虫とも区別の付かぬ格好をして、褐色の顔をした長身の女が呟く。

「ああ。だがどこに逃げる? 儂らが逃げられる場所など他におるのか?」

「――仰る通りで」

 と返しながら。中枢の側近らしき女は警戒を高め洞穴の入り口まで歩き。名も知らぬ敵――虎井シンについて、黙考を重ねていく。

(長の力により、この場は機械的には阻害されている。何より磁界を狂わせるということは、動物の持つある種の第六感にも似た鋭い感覚をも狂わせることに等しい……初見のそれでここまで動じぬ人間、というのは何かしら特化した知覚能力を持つか……いや、不可思議な力を持つ人間というだけでは説明の付かない冷静さ。獰猛な機械を相手にしているような――)

 と、そこに至った時点で。突如――バタっと女の意識が断絶した。

 直後。

 入口には今しがた木乃伊女を打倒したであろう、ただ黙り込んで奥の長をねめつけるシンの姿があった。

 洞穴の中を滑るように入り込む。少なくない傷と疲弊の見える身体だが、息は整っていた。鋭い眼光のみが薄暗い石に囲まれた光景の中で、確固たる意思を主張するようにハッキリと見えた。

「来たか」

 長は驚くでもなく。枯れ木――というより切り落とされた枝が更に朽ちた後のような、生命力を一切感じない諦め切った目を向ける。シンは、その目線にすら何一つ物怖じせず終わりだと言い放った。拳を再度握り、構え飛ぶように長の居る方向へと跳躍し――その背後にあった、レリーフに蹴りを突き立てる。石片が散らばり、象徴は打ち砕かれた。

 長は、振り返って自分たちの全てを破壊せしめた者の背を、ここに来て今さら、やや物怖じしたように睨む。

 ゆらり、とシンもまた長に対して向かうように踵を返すと、その視線を受け止め――

「退去してもらうぞ、青木ヶ原の民よ」

 と言い放った。

「……わかっておった」

 何がだ、と彼女は返答しなかったが。概ねそのような大意で促すようなシンの沈黙を聴いて、長は喋り続ける。

「森は開かれ……我等の居場所など、もとより無かったことも。ここ数十年で、自殺の名所などと言われたことが、むしろ死にかけた状態で延命していた我等を、死体あさりとして生かすことに繋がっていたことも――そして、善意で対応する近隣の者らの手によって、それすら無くなりつつあったことも」

 長の言葉だけでなく、確かに、この民は日本の歴史で考えると……先祖代々よりここに居ると、堂々と言えるものではなかったろう。そも青木ヶ原樹海の歴史自体が数千年とあるわけでもない。おそらくはどう遡っても江戸時代前後に排斥され住処を追われた彼らは、コロコロと変わる情勢に戸惑い隠れ住んでいたに過ぎず。恐らく彼らの樹海における積み重ねた歴史は三百年にも満たない。

 だが、ここ数十年で樹海の立ち位置は著しく変わった。ただの人も入らぬ森の一種であったモノが、自殺の名所と化し。やがてそれすら否定され……着々と、観光の手は安定し入りつつある。

 青木ヶ原の民とは要は、元来人里離れた孤高の自然を愛する民などではなく……超常的な力でようやく隠れきり延命できるか――と言う程度の、ただ隠れ住む存在。本来はただ、そのまま飢え死にするはずのコミュニティを追われた者達が、何の因果か本当に不可思議な力を持っていたがために代々死に損なって生き延びただけの、棄民であった者たち。

「儂は玩具か? 青木ヶ原の主は、民は――タダの世相に翻弄される玩具か!」

 洞窟に絶叫が響き渡る。倒れ伏した民が、無意識ではあるだろうがいくらか呼応するような苦悶の声をあげた。現代社会のフットワークの軽さが。文明社会という言い知れぬ化け物が。我々から生きる場所を平然と自覚もなく奪うのだと訴えていた。

「国なんてものはそう言う物だろう」

 どこの地方も、どこの場所でも、誰でも翻弄されることに違いはない。何よりここで一番苦労しているのは現地の近隣住民だろうと、シンは考える。

「儂は日本国民では無い!」

 つまりは戸籍も人権も、彼らには無い。社会も国家も彼らを認識していない。不法滞在の人間ですらなく――それはつまり、確認すられていない野生動物と大差無いのだ。

「なら全員で日本国に保護でもしてもらえ。できるはずだ。お前はただ、死にかけの状態から外に出るのが怖かっただけだ」

 現代になって、そうして受け入れられる土壌はできたはずだと、シンは突き放す。そもそも外の情勢を全く知らぬままにも見えなかった。彼らは、外を見ていたのだ。見ながら、出てはいかぬと怯え、半端なところで息づいていた。

「そこまで老いさせたのは誰だ!」

「私じゃあ、ない」

(人のことをどうこう言えるほど、まともに社会に属しているとは……言い難い、しな)

 ふと、シンの口調が僅かに和らいだ。

「出て行け。罪を背負えとは言わん。私に言う権利も無い。だが、私みたいなのが送られている時点で、もうこの樹海で生きるのはもう限界だろう……海外の観光客も、多くなりつつある。もはやここにお前たちの住める土壌は無い――機を逃せば、本当に全員死ぬぞ」

人として生きろ。悲しげに長と、倒れ伏す者らへそう言うと、シンは黙って洞穴を背にした。彼女は決して――振り向くことは無かった。

姿を消した後も、長は洞穴の出口をめ付ける。恐怖、屈辱、憎悪――それらが入り混じった視線。拳はその爪で己が肉を抉らんとばかりに強く握られている。

「許せぬ」

 あんな物に、あんなただ暴力で全てを押し流しに来た輩に、今までの苦労が――例えそれが、する必要の無い徒労と化した生き方であろうと、潰されるという事実が許せなかった。

 倒れ伏す周囲の者すら眼中に無く、岩場に拳を叩きつける。石片散らばる洞穴の岩場を何度も何度も小さな節くれ立った拳で殴りつけ――やがて、血が滲み出す。

 この男。長に、名は無い。

 強いて言えば青木ヶ原の長――それが、彼の名である。

 人がまるで住むのに適さないこの樹海を住処と言う名の牢獄代わりにして……村も作らず、何もせず。隠れて人里にも出ず生きるべしと育てられ、生きてきた。

 何百年も前に我々は追放されたのだと。人より長じた力が少しあろうと外の者らと争えばいずれ死ぬだけで、だからここで生きるべきなのだと。幾度も数えるのが馬鹿らしくなるほど言い聞かされ、長はそうやって己が運命を受け入れた。

 今さら人として名を得て、ただの老人としてこなれぬ外へ行き――見世物のように扱われるか、或いは……今以上に、誰に身取られることもなく霧散し更に朽ちていけというのか。

 怨念が――己が器を超えた呪詛じみた何かが、長にこびり付いていた。死者の念……だけでは、ない。そこに生きる者が代々溜めた現状への憤り。恐怖。そして、長自身の心と力が。その場に倒れ伏す者らすら糧にして――何らかの怪物となろうとしつつあった。

 形容しがたい何かが洞穴の中で胎動しつつある中。

 不意に長の前に影が――差した。

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