帰郷(2)
本社への手続きは滞りなく行われ――彼が日頃からあまり休みも取っていなかったせいか、局側もいい機会だとばかりに動いたため、深山は二週間ほど休むことになっていた。互いにゴタついた問題を整理しておくか、という魂胆がありありと見て取れる休暇なのであまり深山は嬉しくもないが。元々テレビ業界に努めている以上、安定した休みなど最初からそうそうあるとは思っていなかっただけ不気味ですらある。
とはいえ。貰った時間は活用せねばなるまいと、彼は考える。
実家がある山梨へ向かい電車を乗り継ぎながら、何時間も揺られて。ただ焦点の合っているのか合っていないのか適当な眼差しで外の風景を見ると――徐々に、深山の記憶の中で、見慣れた雰囲気に近づいてくる。そこまで自然が多い、と断言できるほどでも無いがそれなりに緑と身近な場所に。とはいえ東京自体、木々のあるところにはあるものだが。
(だから……良くない考えと、思い出ばかり浮かんでくるのは、別にこの見慣れた緑のせいではない――筈だ)
実家に近づくに連れ、焦燥感のようなよくわからない感覚が迫る――どうしても、納得から程遠いことになっていた。元々、深山は事件に拘る性質の人間ではなかった。だが、マザリに対しては例外じみている。一歩間違えればパラノイアじみている執着心。神経を削られながら、同時に何をすれば満足するのか、何が解決策となるのか一切判らない――そんな、状態。
その論理性に欠けた思考回路は、どうにも先に死んだと唐突に報が入った己が父母の存在と言動を想い出すようで、尚更現状への苛立ちが増す。違いがあるとすれば両親は身勝手な夢に溺れ――深山弘二は、言いようの無い危機感に突き動かされている、と言う点だろう。
彼は、己が心を「読む」ことはできない。だが――もし、読めたとしても。同じく、理解できない代物なのではないだろうかと。そう深山が思ったのは実のところこれが初めてではない。
人間、自身の心すらハッキリとはわからないものである。ともすれば――自分でも自覚が無いだけで、あの人格破綻者どもと自分に大差など無いのではないだろうか、と。友と出会い。親元を出て、仕事を見つけ、結婚し。気付けば十代中盤の頃より暫くは考えてもいなかった、その幼少の頃に抱えていた恐れにも似た不快感が――心奥までジワリと、再度染み込むように押し寄せてくる。
だが、その心を繋ぎとめたのは、やはり家族の存在だった。妻と息子――そして今までに会った人達が、否応なく冷静さの残る領域まで引き戻す。
そうだ、もう親は居ない。良くも悪くも、あの者らは居ないのだ。
親の死を聞いてから一度も、深山が涙することはなかった。悲嘆と涙は必ずしも連動するものではないが、彼が心の奥底に一切の悲しみを抱かなかったのは確かだ。だが、特筆して嬉しいとも、解放されたとも思わなかった。自分自身でも形容のできない奇妙な虚しさと謎の感情が――ぽつん、と深山弘二の内に存在していた。
(いや、単に俺自身が向き合いあぐねているだけで――)
大人が肉親を亡くすというものは、実は概ねそういった感情に満ちた物なのかもしれない。そこへ更に確かな悲しみや絶望が付与されるかどうかの違いはあれど。
と、丁度――甲府駅に電車が到着した。
構内のエスカレーターを降りると、もう見慣れた風景ばかりだ。駅からしばらく歩いて実家に戻る。
古い家屋だ。他のあらゆる郷愁の念より先んじて、リフォームでもするべきだろう、と深山は第一に思った。木造だったのを親の代で大々的に改築はしていたらしいが――それでも尚、古さが隠せていない気がするのは、見る側の持つ印象の悪さがもたらす要素も少なくはないだろう。
だが、記憶に照らして全くの変化が無いわけでもなかった。見覚えの無い自動車や、あんな場所には無かったはずの増えたエアコンの室外機などだ。後は――家の前に群がる、人間。
そこには幾人かの取材らしき面々が来ていた。よく知っているというほどではないが、顔くらいは多少覚えている面子も居る。テレビではなく、週刊誌や新聞の記者だ。
「やあ」
「深山弘二さんですね!」
暑さに汗を飛ばしながら、自身に群がる記者たちを見る。あまり驚きは無い。仕事でこういう風に来るだろうという程度のことは想定していたからだ。
人の不幸を食い物に――と言った嫌悪感は無い。広く見れば同業者だし、深山自身は悪質な報道を態々してきた覚えはないが、そう堂々とこう言った取材をけしからんと一喝できるほど――自らを清廉潔白だとも思ってはいない。
「言っておくが、俺は生前より実家とは距離をおいていたからあまり話せることもない。遺品整理とかで忙しいし、記事にもしにくいだろうから立ち去ってくれ」
あまりにキッパリと言われ、記者連中がポカンとしている中をサッと家に入る。重要なのは否定の意思を簡潔に伝えたら、取材される当事者は怒りも泣きもせず無視して行くことだ。何より反応という餌を与えぬ事。黙って去るのが一番適切な対処であると、経験上深山は知っていた。
……される側ではなく、取材する側として関わる者視点の経験則ではあるが。
「さて……」
久しぶりの実家に入る。古びた木造の柱に、色あせた壁。床や角には、拝むように作られた自分の写真や髪を縫いこんだ服が、無数に置いてある。老いた彼らも少しは内装に気を遣い、変わっているかと深山は思ったが……家を飛び出す前と、何も印象が変わらない。いや、場を占める怪しげな物品の量という意味では、雑然とした無秩序さはむしろ加速してさえいるだろう。しかしあそこはどうだろう、とかつての自室に行ったが――やはり何一つ変わりが、無い。ベッドと机、それに本棚程度しか無い簡素な部屋にベタベタと貼られた意味のない札が、趣味の悪さだけを未だに主張していた。
その後もざっと家屋の中を回るとただ、物置代わりにしていたはずの部屋が、ひとつ空いていた。六畳ほどの部屋。そこにはかつての自室と同じくベッドが置かれ……ああ。
(茂が来たら、捕らえておこうとしたのか)
その気付きには恐怖よりも納得があった。自分でも嫌になるくらい――冷めた納得が。
窓は開けないようはめ殺しへと変えてあるし、扉も頑丈にしてある。机などは固定してあり、イザという時に有効な鈍器として使えそうなものはない。ご丁寧にわざわざ改築でもしたのか、深山が子供だった頃には存在しなかったはずの、不自然に新しい洋式便所(蓋は無いが)と固定式のシャワー室まで足してある。それらが使用された形跡は、無い。まるで家屋の中に新品の牢屋をひとつ作っておいたかのようだ。
ただひとつ、明らかに牢として浮いた点があるとすれば、見慣れたデザインだが、比較的真新しい札がそこかしこに貼られていることか。札としての内容の意味は深山が暮らしていた当時からよくわからない。
この部屋をよく見渡して一つ判明した事実は――彼奴等は、ただ茂単体に価値を見出しただけでなく、己が逃げ出さぬよう人質代わりにでも使おうとしていたのだろうと。そう深山がかつての父母の挙動から導き出していた推察が、完全に正解だったと確定した事だけだ。嫌な答え合わせだった。
いっそのこと全てを放り出して相続放棄をしたいのは山々だが、親の動向や状態を見知らぬままではどうにも気味が悪い。臆病なようだが、彼らが何をして――いや、しでかしているのか全くわからないだけに、切実な話である。率直に言えばこの家その物が、実親の怨念が見えるようで不気味に苛立つ代物だったが、何か手がかりになる物はないかとザッと見渡して探し続ける。何の手がかりを探しているか――自分でもわからぬままに。
一階に下がって水回りを確認する。死ぬ直前まで掃除などは一応していたようで、生活するには仔細無いようだ。洗面所や、風呂場の札やゴチャついた感じの雰囲気もまた全く変わらない。
「…………」
洗面台の鏡を見つめ、不意にある種の彼にしかない感覚を開放する。そこから輪郭の周りに曖昧な情報が感じ取れそうで――だが見えない。深山弘二は己の心をその能力で読むことができない。自身の心の色が、働きがどう在るのか。それを知ることはできない。
(やはり、そこも変わらないか)
その時、何やら騒ぎが外から聞こえた。すわ何事かと玄関に行くと、老人の声のようなものが聞こえる。どこか、深山の耳には聞きなれた声だった。
玄関を急いで開けて外を見ると、記者たちを一掃する老人とその連れらしき婦人の姿があった。そこには、隣近所の代表とも言える村田の姿がそこにはあった。幼い時からたまに深山が遊びに行っていた近所のおじさんだ。さすがに混乱させるだけだと子供心に超能力のことは明かせなかったが、小さな自分に対し同情混じりに強く生きるんだよと言い、父母に対し気の強い奥さんと一緒に「こんな騒ぎの食いものにして弘二くんが可哀想だろう」と一歩も引かず怒鳴っていたことを深山はよく覚えている。自分のことを本気で心配してくれた大人の一人で印象深い。もっとも、当時はここまで髪が薄くはなかったが。
村田がやってきて快活に――昔と変わらず、深山に話しかける。その間も婦人は記者たちの逃げて行く方向を仁王立ちで暫し睨み付けていた。
「いやぁ弘二くん。大変だね、いやどうも……戻ってくるのも、大変だったろう」
マスコミどもは追っ払ったからね! と力強く汗を流しながら村田翁は言う。
「あ、いやゴメン。弘二くんも今はテレビの仕事をしているんだっけか。配慮が足らんなあ」
心底……思わず心を読んでもなお、裏表なく済まなそうな状態のまま言う村田の声に、少し深山は、実家に戻ってから否応なく重くなっていた心が軽くなっていくのを感じた。あの親から逃げ東京に出て仕事をすると言った時、やはり全面的に応援してくれたのも村田夫妻だった。
そしてテレビ関係の仕事につき、東京での生活に追われ、機を逸してロクに連絡ができないのが心残りのまま――いつしか記憶も薄れ、深山も四十手前までなっていた。だが村田老人の気遣いは変わらない。深山は、おずおずと彼の言葉をフォローし始める。
「いえ、その。やっぱり嬉しいです。詮索されて愉快じゃないというのはやはりありますから……なんて、俺が言うのも相当身勝手かもしれませんが」
「おお、そうかいそうかい。まあいいだろうさ! 弘二くんはこれまでイッパイ苦労したんだ、それくらい嫌がっても許される!」
と、奥に居た強気な老婦人……村田婦人がもう良いかとばかりにつかつかとやってきて玄関口でバンバンと肩を叩く。やはり記憶よりずっと老いてはいたが、その強気さは一切変わっていなかった。
「ウチのやつがみんな追っ払ってしまってね。いや、凄い迫力で……私まで追い払われるとこだったよ」
「当たり前だよアンタ、並のヤロウとは私ゃ胆が違うんだよ胆が!」
おどけてみせる村田老人と、親指で自分を指し示してハッハッハと笑う村田婦人を見て……深山は、気が抜けたように弛緩した。懐かしい村田のおじさんおばさんに会えたことが、むしょうに嬉しくなったのだ。
「……俺、今度……嫁と息子を連れてきますよ」
そう言って涙目になる深山に、穏やかに村田夫婦は頷いた。
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