第5話

「正ちゃん」


 遠くでちとせの声がする。


「正ちゃん、起きて」


 窓から射し込む月明かりのせいもあり、正太郎は重い瞼をかすかに開いた。


「ん……何時だよ、今……」


 急に、ちとせの瞳から涙が零れた。


「どうした、ちとせ?」


「こんな夜中にごめんなさい。少しの間だけ、あたしの言うとおりにして。何も訊かないで」


 正太郎は身を起こしたものの、吸いつくようなちとせの視線に、言い知れぬ哀しみと恐怖を感じ、思わず身震いしそうになった。


「身体、拭いてください」


 ちとせの言葉で、全てが腑に落ちた。


 こんな夜がいつかは来るのを知りながら、ずっと目を逸らしてきたのだ。


「わかった」


 正太郎は立ち上がり、流しから洗面器を持ってきて、ポットの湯をあけ、タオルを浸した。


「いいよ」


「はい」


 ちとせは正座をして背を向けると、浴衣を肩からはずして行く。


 正太郎は輪ゴムで彼女の長い髪を束ね、左手で持ち上げたまま、そっと白い背中を拭い始めた。


 タオルの通った跡が、暗がりでもくっきりと赤らんで見える。


「大丈夫か?熱くないか?」


「平気」


 正太郎は丁寧に、優しくタオルを動かした。


 肩から項、耳の裏。背中。脇の下から二の腕へ。


 それから、掌、指の一本、爪の一枚に至るまで。


 足の先まで拭き終わると、洗面器の湯を捨て、入れ替えた湯に浸した新しいタオルで、ちとせの顔を拭く。


「目を瞑っていろ」


「うん」


 前髪をおさえ、瞼、鼻筋、顎。最後に耳を拭った。


「終わったよ」


 そう告げて、タオルを湯に沈めた。


「お化粧箱、取ってくれる?」


 正太郎は押入れの中から漆塗りの小さな箱を出した。


「正ちゃん、出来る?」


「口紅からでいいか?」


 ちとせは肯いた。


 正太郎が頬にそっと左手をあてがうと、ちとせは目を閉じた。


 唇と同じ色に手足の爪まで染め終えると、正太郎は息を吹きかけ乾かした。


「うまいのね」


「いつも見てたから。真似しただけさ」


 ちとせはかすかに笑みを浮かべた。


 正太郎も微笑もうとしたが、うまくいかなかった。


「髪も梳いてやるよ」


 誤魔化すように言うと、ちとせはまたこくりと肯いた。


「お願いするわ」


 正太郎は長く波打つちとせの黒髪に櫛を入れた。


 手の震えを隠すように、単調なリズムでそっと梳き続ける。


「行くのか、ちとせ」


 紅く染まった細い指が動いた。


「やはり、行かなきゃならないのか」


「約束だから」


「そんな大切な約束なのか」


「約束は約束よ。あの人の不幸を消してあげなきゃならないから」


「その人との約束は、もう終わるんだろ?」


「多分ね」


「なら、今夜で終わりにしろよ」


「ええ、そのつもり。正ちゃん、心配かけてばかりで御免ね」


 ちとせの声が咽んだ。両手で顔を覆う。


 正太郎は櫛を止めた。


「俺は何も知らないんだから、お前も忘れろよ。朝がきたら、何もなかったことにするんだ。いいな」


「もう最後だから」


 ちとせは立ち上がり、押入れの中から黒い布袋を取り出すと、顔を背けたままドアの方へ向かった。


「お化粧箱の底に、妹のアドレスがあるの。あたしの実家は、彼女が一人で住んでるから、そのうち二人で、ね」


 ドアが閉まった。


 櫛の先が掌へめり込み、赤い血の雫がうっすらと糸を引いて落ちた。




「どうか、そう恐縮なさらずに」


 正太郎はちひろへ言って、ちょっと咳払いをした。


「それより、今日こうして改めてお伺いしたのには、訳がございまして」


「と、申しますと?」


「つい先日、あの中森が死んだそうです。こちらでの案件が片付きましたら、そのまま東京へ戻るつもりでしたが、これだけはぜひお知らせせねばと思い」


「あの男が……」と、ちひろは身を固くした。


「はい。出所後は地道に働いていたようですが、心疾患で突然」


「そうですか。死にましたか」


「ええ、死にました」


 正太郎は煙草に火をつけた。


「それでやっと決心がつきまして、こうしてお会いしに参った次第です。十八年間御連絡もせず、誠に申し訳ございませんでした」


「いえ、どうかお気遣いなく。あの男に殺されたのは姉が悪いんですし」


「実はそのことで……よろしければ、ちひろさんの口からちとせのあの力について教えていただけませんでしょうか」


「呪い釘ですか」


 ちひろはまっすぐ正太郎を見た。


 吸い込まれそうな深いその瞳の色は、やはりちとせにそっくりだと思った。


「そうです。聞いてどうなるものでもないでしょうが、やはり気がかりで……この十八年間、たえて心を離れたことがありません」


「そうですか」


 彼女は溜息混じりに立ち上がり、庭に面した障子を開けた。


 表はもう薄暗く、部屋の明かりに木々の影が不気味に黒々と浮き上がって見える。

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