第4話

 数日というもの、正太郎の脳裏は一つの思考にすっかり占領されていた。


 ――呪術師。


 あらゆるベクトルが、その方向へ集約されてしまう。


 したくもなかった憶測が、もはや半ば以上証明されていた。


 どこをどう辿っても、迷路の出口は一つしかないのだった。


 正太郎は決して迷信深い性質ではない自覚がある。


 だが、事実は厳然として存在していた。


 すべての辻褄が合う。


 ちとせは呪術師なのか?


 彼女は相変わらず夜更けに部屋を抜け出していた。


 あの坂の上の社へ行っているに違いない。


 何のために?


 正太郎は眼前の蠅を追い払おうと血眼になった。


 蠅は少しも逃げようとしない。


 ちとせは自分がどこで生まれ、どこで育ったかを決して口にしない。


 しかし、あの蒼白い肌の色はまぎれもなく北国の者のそれだった。


 同じ部屋で暮らすようになって三年近くになるが、正太郎は彼女の過去を知らなかった。


 身内はもとより、友人だという者にも会ったことがない。


 それでいいと思っていた。


 正太郎にとって、ちとせとの暮らしの邪魔になるものはこれまで何一つなかったからだ。


 でも、今は……。


 ――呪術師。


 かしましく飛び回る蠅の群れに、正太郎は悲鳴を上げたかった。




 ほんの一月ほどで、正太郎はすっかり体調を崩してしまった。


 身体中の肉という肉が削げ落ち、時に立ちくらみがする。


 それでも、いつもと少しも変わらぬ素振りを懸命に続けていた。


 彼女との暮らしを守りたかった。


 正太郎はちとせが外出した夜の日時を細かくメモをし、仕事の合間に図書館へ足繁く通った。


 その末に得た答えは二つ。


 一つは、ちとせが個人的な理由で「呪い」を行っているわけではないということ。


 どの文献も対象が望んだ結果に陥るまで、一日も作業を怠ってはならない点で一致している。


 しかし、ちとせの外出には週に何日かの空白が不規則に存在する。


 そこから推測できるのは、対象が複数いて、それもかなりの人数らしいと思われることだった。


 もう一つが、彼女の作業はおそらく私怨によって行われているのではないということ。


 つまり、そこから何らかの利益を得ているらしいということだった。


 多数の人間が対象にされているということは、そこに行為者である彼女の他にも別に何らかの意志が介在すると考えざるを得ない。


 ちとせに「呪い」を依頼する何者かがいるということだ。


 彼女と依頼人を結ぶものがあるとするなら、それはやはり「金」だろう。


 だが、何故そうまでして「金」を得なければならないのか?


 直接問いただしてみるしかないが、むろん正太郎に出来ることではなかった。


 口にしたとたん、今の暮らしは崩れ去ってしまう。


 正太郎は同じ場所で立ち竦んだまま一歩も進めない無様な自分を、強いて笑い飛ばすよりなかった。




 相変わらず鍵は締まりが悪い。


「駄目だな、こりゃ」


 後ろ手にドアを閉め、ひとりごちた正太郎の前で、何が気になるのか、ちとせが窓の陰から外を覗き見るような格好で背中を向けていた。


「何を見てるんだ?」


 声をかけたが返事はない。


 隣に立って肩越しに外を見ようとする僕に、彼女は小声で囁いた。


「誰か、こっちを見てる」


 尋常でないその強張った横顔に、正太郎は緊張した。


「さっきからずっと、見張られてるみたい」


「借金取りに追われる覚えはないけどな」


 確かに、ちとせの言うように、男が一人橋の上に立ってこちらを見ている。


 ハンチングを目深に被っていて、顔が見えない。


「帽子でよくわからんが、見たことない奴だな」


「最初は気にしてなかったけど、もう一時間近くああして橋の上を行ったり来たり」


「ちとせ、下着でも干しといたんじゃないか」


 おちゃらけると、彼女は険しい表情で振り返り、


「ふざけないで!」


 その剣幕に、正太郎は息を呑んだ。


「馬鹿言ってないで、何とかして」


 弾かれたように立ち上がり、正太郎はアパートの階段を駆け下りた。


 橋のそばまで走り、立っている男の方へ、


「おい、そこのあんた!」


 声をかけると、相手は不意を衝かれてギョッとしたらしく、一目散に逃げ出した。


 路地を抜けるまで追って行ったが、商店街の人波に見失い、仕方なく来た道を引き返した。


 男の立っていた橋の上から部屋を見ると、窓辺にちとせが立っていた。


 まるで個室に隔離された病人のようだ、と正太郎は思った。


 身体の弱いちとせをそう形容するのを、誰よりも嫌悪していたはずなのに。


 この時気づくべきだったのだ。


 二人の未来が閉ざされつつあることに。

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