第三十一話 消えたモーレックの森の守護者

 怖い、と生まれて初めて思った。

 死にかけようが、死のうが、その直前で恐怖など感じたことは今まで一度もなかった。だが今、初めて恐怖を味わっている。

 生まれた時からずっと自分を守ってくれていた、モーレックの森の守護者が、なんの言葉も残さずに突然姿を消した。

 また戻ってくるのか、永遠の別れなのかもわからない。

 心臓がバクバクとうるさく音を立てている。

(……ど、どうしよう)

『アリス、落ち着くんだ。土の精霊がいなくても、我がそなたを守っている』

 闇の精霊が声をかけてくる。

「う、うん。そうよね」

 だが、知らず知らずのうちに、体がカタカタと震えてしまう。

「……アリスはここで待っていて。私とアルバートで陛下と話をしてくる」

 ルートヴィッヒが声をかけてくる。

「で、でも……私も行くべきだわ」

 ヘレナを助ける手立ては、自分の精霊ができると、アリスが陛下の御前で断言したのだ。

「あまり色々考えるな。そもそも、アリスが頑張らなきゃいけねー相手じゃねぇんだからよ。俺たちで精霊の件はうまいこと話をするからさ」

 アルバートがポンポンとアリスの肩を叩いた。

「では、アリス。ここで待機していてくれ」

「は、はい……」

「闇の精霊、アリスのことを頼む」

 ルートヴィッヒが闇の精霊にも声をかけた。

『言われないでも、わかっている』

「そうか。そうだな」

 ルートヴィッヒとアルバートは部屋から出て行った。ポツンとアリスは王宮内の一室に残された。

(……どうして、こんなことになったんだ……)

 雷の下位精霊ヴォルトもなかなか戻ってこない。

 あっちも何かあったんだろうか?

(――――下位精霊……)

 ハッとアリスは顔を上げる。

「闇の精霊さん、土の精霊を召喚してみるのはどうかしら?」

『そんなんで、土の精霊アテナが戻ってくるか? なんかあったから消えたんだろうから』

「ううん、土の下位の精霊さんが何か知らないかなって」

『土の下位精霊……ノームか……』

「どう……かな?」

『……ノーム自体も現れるかわからんが、そなたの気が済むようにやってみるがいい。この部屋にも結界は張られているが、土の下位精霊がすり抜けてこられんことはないだろう』

「うん……」

 アリスは祈るように手を組合わせ、精霊の召喚魔法を詠唱した。

 ――――召喚魔法は失敗に終わる。

 昨晩のように、精霊が現れることはなかった。

「……昨日と、同じように唱えたのに……」

『呪文は間違えていない。と、いうことは――――もしかしたら、精霊界のほうで何かあったのかもしれないな。前にアリスが言っていた、精霊王不在が故の何か』

「……こんなときに……」

 シーンと静まり返った部屋。

 アリスはぞっとした。

「や、闇の精霊さん?」

 返事がなくて不安になる。

 今、彼もいなくなったらと考えたら立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。

『すまないアリス、少し考え事をしていた』

「な、なによ! 驚かせないでよ」

『取り敢えず、床よりソファに座ったらどうだ?』

「座りたくて床に座ったんじゃないよ!」

 アリスは気力を振り絞り、すくっと立ち上がって、三人掛けのソファに座った。

「――――闇の精霊さんまで、居なくなったのかと思ったんだ」

『あぁ、それは悪かった。精霊王の代替わりのときのことを思い出していたんだ』

「精霊王の代替わり?」

『精霊王は他の精霊に比べて短命な方が多い。大きな力を扱う分、魔力の消耗も激しいだろうからな……』

「闇の精霊さんは、先代の精霊王のことも知っているのね」

『もともとあちこちに顔を出さないのが精霊王だから、知っているって程じゃないけど。でも、先代が亡くなったときも、精霊たちは精霊界に強制的に戻されたんだよ』

「……だから、モーレックの森の守護者が急に居なくなったの? でも、だったら闇の精霊さんはどうして人間界に留まっていられるの?」

『アリスの中にいるからだと考えられる。この中から出たら、多分我も精霊界に戻される』

「一度精霊界に戻されたら、いつこっちに戻ってこられるの?」

『新しい精霊王が、誕生するときまで』

「誕生って……そういえば精霊王の二番手はいないって言っていたけど、継ぐべき精霊がいるわけではなくて、生まれてくるまでってこと?」

『いや、そういう感じではなかったような。精霊王となるべき要素を持った者、全てにあらかじめ種が蒔かれていて、精霊王の逝去のときに、精霊王の力の全てが“選ばれた者”に与えられて、花が芽吹くように、魔力もその者の中で増大する』

「……ちょっと待って。精霊王となるべき要素を持った者、全てって言ったけどまさか、人間界の魔法使いからも精霊王が誕生するかもしれないの?」

『そうだな』


 ギィイイ。

 大きな部屋の扉が開かれて、ルートヴィッヒとアルバートが戻ってきた。

 思いのほか早く戻ってきた分、アリスは不安に駆られた。

「……ど、どうでしたか。お話し合いは」

「うん……俺が魔導石を送りつけてきた人物を、呼び出す役割を担った」

 アルバートがそう言った。

 本来、モーレックの森の守護者がやる筈だった役割だった。

「……そ、んな……」

「フレデリック王太子殿下が、だいぶ錯乱状態になっていてね。やれと言われたらやるしかない」

 アルバートが苦笑する。

「……そ、その役目、闇の精霊さんができないの?」

 アリスは自分の中にいる闇の精霊に話しかけるが、いい返事は返ってこなかった。

『我にはできない。理由はさっき話したとおりだ。わかるか? アリス』

「……あ」

 アリスの体の中にいたら、召喚魔法は使えない。

 外に出れば――――――精霊界に戻されてしまう。

『呪いの発動を忘れるな』

 アリスは唇を噛み締めた。

 ふいに人影を感じて、彼女はそちらをまっすぐに見た。

「……そう……ということは、私に呪いをかけた人物が近くにいるってことよね? 結局、ヘレナは囮で、本命は私。そうよね……時限爆弾みたいなものなら、闇の精霊さんが体内にい続ける必要はないのだから、いつでも、呪いの発動のタイミングを狙っていたのね――――――フレデリック王太子殿下」

 アリスがソファから立ち上がると、いつからそこにいたのか、アルバートとルートヴィッヒの間にフレデリック王太子殿下が立っていた。

「フレデリック王太子殿下!?」

「呪いの発動? なんのことかな……私は、セイラス家の連中がうるさく言うように、ただアリスが王太子妃になってくれればいいと思っている」

 フレデリック王太子の言葉に、アリスは怒りを覚える。

「……ヘレナが邪魔になったのですか」

「邪魔というか……自分の立場をいつまでも理解しようとしなくて、そのくせ、こっちの愛情は永遠のものだと思っている。不思議な娘だよね……見た目はあんなに美しいのに、中身はからっぽで自己愛が強くて、男癖も悪くて……まぁ、うっかり精霊に殺されても、仕方ないのかな」

 アルバートは一歩下がった。

「まさか……精霊にやらせたのですか?」

「精霊がやりたいっていうから、私は任せただけだよ」

 フレデリック王太子殿下はクルリと踵を返し、ヘレナが閉じ込められている魔導石がある部屋まで歩いていく。

(……ヘレナを、愛していたんじゃなかったのか?)

 アリスはフレデリック王太子殿下の豹変ぶりに、驚きを隠せなかった。

 フレデリック王太子殿下は、魔導石が置いてある台の前まで歩み寄り、苦笑する。

「魔導石は美しい宝石のような石が多いのに、この不気味な石はなんだい? ハハッ、あの娘にふさわしい石だとは思わないか?」

 フレデリック王太子殿下は、気がおかしくなってしまったのだろうか。それとも本心で言っているのだろうか? アリスは寒気がした。

「私というものがありながら……愛されることを喜びながらも、結局は弄んで……踏みにじった……」

 フレデリック王太子殿下は、ヘレナが閉じ込められている魔導石を見下しながら言った。

「……フレデリック王太子殿下……しかしながら、精霊の力を借りるとき……代償の話は、聞かれなかったのですか?」

 アルバートの言葉に、彼は振り返った。

「代償? あぁ、魔力がどうとか言っていたな。まぁ、私が持っていないものだ、払える代償などない」

「いいえ、それは違います。魔力がない場合は――――」

 アルバートが全てを話し終える前に、魔導石がバキバキと割れ始めた。

 それを見ていたフレデリック王太子殿下は、動揺した表情を見せた。

「……魔導石が……割れる……?」

『もうすぐ、永遠とわの別れですよ、殿下』

 ぼんやりとした霧のようなものがあらわれた。あれがフレデリック王太子殿下と契約を交わした精霊なのだろうか? でも精霊であるなら、どうして今ここに存在できるのだろうか?

『……あれは無の精霊マクスウェルだ。けして近寄るなアリス。あれはどんなものでも、どんな力でも“無”にする力を持っている。他の精霊とは違う種類のものだと思ってくれていい。精霊界への強制送還もやつにはきかないようだ……』

 闇の精霊が囁いた。

(無……だって?)

「ヘレナ! ヘレナ!」

 フレデリック王太子殿下が、ヘレナに声をかけるように何度も魔導石に話しかける。

『ハハハハハ! 我が力で無にするのは気持ちがいいわ!』

 魔導石が破裂するように割れて粉々になり、あっという間に砂と化した。

「ヘレナ……どうして……いっとき閉じ込めるだけだと、貴様は言ったではないか!」

『おや、そうでしたか? われが勘違いしてしまったようですな』

「勘違いだって?」

『憎しみの感情が見えましたんでね、サービスのつもりだったんですが、喜んで頂けませんでしたか』

「ふざけるな! ヘレナを返せ! この……化け物が!!」

 無の精霊がゆらゆら揺れた。

 ヘレナに対して悪態をついて、アリスを王太子妃にとまで言っていたフレデリック王太子殿下の瞳から、涙が零れ落ちていた。あれは演技だったのだろうか? 魔導石の中にいるヘレナに見せるために。

(だとしたら……最悪だ……ヘレナはどんな思いで……)

「あぁ……なんてことだ……」

『ご自分で望まれたことなのに、はて、何故、泣くんでしょうかね。あぁ、嬉し泣きですか』

 無の精霊がパチンと指を鳴らすと、剣をかまえたモルベルトが現れた。

「ヘレナ! ヘレナはどこだ!」

 最後の瞬間に立ち会えなかった――――――立ち会わせなかった無の精霊は、いったい何を考えているのだろうか。

 本体が霧状であるから表情は見えないものの、酷く喜んでいるように見えた。

 ぞっとする。

『さて、ずはあなたから代償を頂きましょうか。モルベルト――――――魔力を分け与えた分の生命力を頂戴しますよ』

「――――――まて、マクスウェル! ヘレナはどうした!」

 モルベルトの叫びを最後まで聞くことなく、無の精霊は右手らしきものを動かし、モルベルトから生命力を吸い取った。

 ――――――それは、あっという間で、モルベルトは砂となって、ふいに吹いた風に砂は飛んでいってしまい、跡形もなくなった。

 風を吹かせたのは無の精霊だろうか。

 今生に一瞬でも留まらせることを許さない、といった非情な行動にアリスは眉根を寄せる。

『人間は愚かですねぇ』

 無の精霊は、今度はフレデリック王太子殿下に向けて右手を挙げた。

 フレデリック王太子殿下は、砂になった魔導石を掌にかき集め、ただ涙を流していた。

『一国の王太子がそう泣きなさんな。愛する女のところに送ってあげますよ。もう二度と輪廻転生かなわぬ、冥界で“皆で”仲良く暮らせばいい。ククッ』

 無の精霊は愉快そうだった。

「待て、無の精霊。フレデリック王太子殿下の代償、私が払おう」

 ルートヴィッヒの声が響いた。

『ほう、イフリートをもつ魔法使いか』

 無の精霊がゆらゆら揺れる。

 ルートヴィッヒの言葉に対して、闇の精霊がぼそりと呟く。

『駄目だな。ルートヴィッヒは、イフリートに対しても相当の魔力と生命力を代償として与えている。代償には魔力がまったく足りん』

「……魔力と生命力ってどういうこと? 代償は願い事を叶えてもらうときだけじゃないの?」

『……人間界に召喚させ、使役させるだけでも本来は代償が必要なんだよ、アリス』

「モーレックの森の守護者は……」

『やつからアリスは祝福を受けているだろう? だからアリスは代償を払う必要はない』

「……ちょっと待ってよ、だったらお父様は? あなたが人間界にいるってことは、お父様も結局命をかけているってことよね?」

 ――――――嘘などつかない。

 そう笑っていたケンジット公。

 ルートヴィッヒが、イフリートを召喚させた理由。

(僕を守るためか……その為に、皆が命がけで……)

 つっとアリスの瞳から涙が流れ落ちた。

 怒りのような、悲しみのような、なんとも言えない感情が、アリスの中を駆け巡る。

 自分を大事に思ってくれるのは嬉しい、幸せだと思ったときもあったけれど、こんな形は望んではいない。

「僕は、どんなふうに死んだってかまいやしないんだよ。因縁だの執着だので繰り返される自分の人生を鬱陶しいと思っていたけれど、もういいさ! 僕の為に、大事な人たちが死ぬのを見るくらいなら、僕はあいつらと永遠に冥界にいてやるよ!」

『アリス――――――よせっ』

 心臓にささっている針が鈍い光を放つ。

「――――っ」

『――――――くっ、呪いの発動か……っ』

 発動を抑えようと魔法を詠唱するが、闇の精霊の魔法は結界のようなもので跳ね返される。

『どういうことだ……』

 パンっと大きな破裂音がして、闇の精霊がアリスの体内から出される。

『……しまった……っ』

 闇の精霊の姿がすぅっと消えてしまい、ルートヴィッヒとアルバートは目を見張った。

「闇の精霊! どうして……」

 無の精霊は愉快そうに揺れている。

「さぁ、僕が代償を払うよ! 持っていけ!」

 アリスは両手を大きく広げた。

『いいでしょう! あなたの魔力は面白そうだ』

「駄目だ! アリス!」

 ルートヴィッヒが彼女をかばうように抱き寄せた。

 アリスは彼の腕の中で、ぽつりと言う。

「……イフリートは解放して。僕の為に代償は払わないで。僕は僕自身が痛めつけられることには耐えられるけど、僕の為に皆が苦しい思いをさせられるほうが――――――辛いんだ」

「私は、君を守りたかったんだ」

「……ありがとう、ルートヴィッヒ。この世界は本当に温かくて幸せだったよ。あなたも、幸せであればいいと思う」

 無の精霊が手を挙げるのと、アリスがルートヴィッヒを突き飛ばすのは同時だった。

 無の精霊の手の中には、アリスの指輪から出る魔力が吸い込まれていく。

『なんだこれは! 闇の精霊の魔力じゃないか!』

 指輪に込められた魔力が全て吸い取られると、黒い宝石は砕け散った。

『邪魔な指輪は壊れたな! まだまだ代償分には魔力は足りんぞ』

 無の精霊は再び魔力を吸い取るために腕を上げたが、今度は無の精霊の腕が弾け飛んだ。

『な、なに……?』

 アリスのプラチナブロンドの髪はキラキラと光り輝き、風もないのにゆらゆらと揺れている。

 ペンダントに埋め込まれていた、土の魔導石は虹色に変化して、彼女の額にその場所を移した。

『……な、なんだ! こいつはっ』

 もう一度、無の精霊は手を上げたが再び腕が吹き飛ばされる。

『な、なんだぁああああああああ!!!!』

 アリスは閉じていた瞳をゆっくりと開ける。

 サファイヤブルーの瞳が、宝石のようにキラキラと美しく輝いていて、この世のものとは思えぬ光をたたえていた。

『こいつ! 人間のくせに!! 生意気なっ』

 無の精霊が不気味な色の光を出して、アリスに放つ。

「イフリート! 壁になれ!」

 イフリートはルートヴィッヒから出た瞬間消える。

「!!イフリート!?」

 不気味な色の光は、アリスが差し出した右手で止められた。

 光は霧のような形になり、やがて消滅する。

『――――――どっ、どういうことだ!』

『全ての精霊が、精霊界に戻った。儀式は終わる。あぁ、おまえは“違うもの”だから、儀式には不要だが、違うものよ、その力を人間に与えるのも貸すのもご法度だった筈だが、忘れたか』

淡々と“アリス”が告げた。

口調は別人だったが、声はアリスだった。

『……ま、まさか』

『精霊界にて謹慎していろ、そのうち処罰を与えてやる。楽しみに待っているんだな』

 無の精霊は、震えながら一礼すると、ふっと姿を消してしまった。

「……い、いなくなった……?」

 緊張から解かれたアルバートはさすがに立っていられず、片膝をついた。

 無の精霊が巻き散らかしていた、黒い念のような魔力はいつしかアリスが涼しい風のようなもので清め、魔導石が置かれていた部屋は、何事もなかったように静かになった。

 部屋の中央には成すすべなく項垂うなだれて、座り込んでいるフレデリック王太子殿下と、アリスが立っていた――――。


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