第二十九話 パァーとやっちゃおう!
一同、呆然とテーブルの上の浮遊物に目を奪われた。
ヴォルト以外の、その場の全員が“これ”はいったい何なのかと、思わざるを得なかった。
テーブルの上にプカプカ浮いているのは、枕ぐらいの大きさの、水の球体。
(え? スライム?)
なにせ、アリスは召喚魔法を使ったのが初めてだったので、失敗したのか? とも思われた――――が。
『そなたが私を呼んだのでは、なかったの?』
アリスは戸惑った。何故なら、他の精霊たちは皆、人のかたちをとっているのに対し、目の前の物体(?)は、水の塊だったからだ。
戸惑うアリスを尻目に、ヴォルトが一歩前に出て、手をひらひらとふった。
『ようこそウンディーネたん。君を待っていたよ』
ヴォルトが天使のような笑顔を向けると、水の塊が空中でぴょんぴょん跳ねた。
『あらあら! ヴォルトちゃまじゃない。どうしたの? こんなところで』
『ちょっとウンディーネたんの力を借りたくてね……って、今回の僕の代償は誰が払ってくれるの?』
ヴォルトが人間たちをぐるりと見渡す。
精霊に願い事をするときは、必ず代償がいる。この場合も、人間の願いをヴォルトが代弁するのだから、代償が必要になってくる。
「はい。もちろん、私です」
アリスは手を挙げた。
『んじゃ、私の分は?』
お願いをされる側のウンディーネもすかさず聞いてきた。
「え、えっと……それも、私……」
「それでは、アリスの魔力が足りるかわからんだろう。雷の精霊の分は私が払おう。水の精霊の分は召喚したアリスが払うということにしよう」
ケンジット公が代償の振り分けをした。ケンジット公の本音としては、アリスがどれだけの魔力を持っているかが未知数で、
「雷の精霊を呼び出したのは、地の精霊ですよね。だったら、代償を払うのは必ずしも召喚者じゃなくていいってことになりますよね? 水の精霊の代償は俺が払います。俺のほうがどう考えても、魔力の量がアリスより多い」
アルバートがそう言った。ウンディーネは満足そうに笑う。
『それでいいよぉ。あなたの魔力からは水のいい匂いがする』
『決まったな。じゃあ、話の続きだけど、ウンディーネたんには、ポセイドンに伝言を頼みたいんだ』
『伝言? いいけどぉ、時間かかるよ。ポセイドン様しょっちゅうどっかに戦いに行っているし、戻ってきても、メドゥーサがべったりだし。それでもいいのぉ?』
ぽよよん、ぽよよんとウンディーネは空中を跳ねる。
「……あの、それって百年、二百年単位の話だったりしますか?」
アリスが尋ねると、ウンディーネは彼女の目の前に来た。
『そんなにはかからないと思うけどぉ、一回お出かけされちゃうと少なくても、半年は帰らないよ』
「そうですか。お返事くださり、ありがとうございます」
アリスはにっこりと微笑んでウンディーネに恭しくお礼を言った。
ウンディーネはそんな彼女の笑顔の中に、悲壮感を感じ取って聞く。
『なぁに? 火急のことなの?』
「……正直、あまり時間はありません」
精霊レベルの時間の流れで動いていたら、アリスの呪いはあっという間に発動してしまうだろう。
『なるべく急ぐけどぉ……ポセイドン様には何を伝えればいいの?』
『奥様のデメテル様にガレリアの森の守護者の仕事に戻って頂きたい、と伝えて欲しい』
『うひゃあ、まじでそれ、私が言わなきゃ駄目なのぉ!』
水の塊がぷるるっと震えた。
『……確かに、それって今、水の精霊の中でも大問題になっているのよねぇ。なっているけどぉ、デメテル様って生の精霊だしぃ水の精霊が口出ししにくいというかぁ……それにポセイドン様ってばお戻りになられても、メドゥーサがへばりついているし……なんだか、お気の毒なのよねぇ』
(確かに、愛人べったりの夫のところに戻るくらいなら、冥界で娘と一緒にいるほうがいいよな……)
アリスは顔が思い出せない、前世の母のことを考えた。
彼女は
……知っていたとしたら、いたたまれない。
(あの人はあの人で、辛かったのかな)
かといって、到底なぐさめようという気持ちにはなれなかったろうけれども。
(モルベルトを選んだのは、あの人なのだから。そして、僕を見捨てたのもあの人――――)
アリスは大きく息を吸って吐いた。
諦める決意をする。
「よし、もうやめましょう。ガレリアの森に入ることは諦めましょう」
一同が驚いた顔をする。
『じゃ、じゃが、ガレリアの森にある魔導石を採ってこなければ、代償の魔力が足りずにアリスの呪いが解けぬ』
「もうただでやれよ!」
アルバートが掟ガン無視のことを言い出す。
『無茶を言うな。代償は必ず必要なのじゃ! 精霊と人間との掟なのじゃ! 私だって、代償なしで呪いが解けるならとっくにやっておる。それができぬから……悔しい思いをしておるのではないか』
モーレックの森の守護者の
ウンディーネが困ったように、空中でウロチョロしている。
「……アルバートも精霊さんも、私のためにありがとう。ごめんね、泣かせてばかりだね」
こんな風に泣いてくれる人がいる。
もうそれだけで、十分ではないかと思えた。もともと人間はいつかは死ぬ。それが早くなるだけだ。と、アリスは思った。
「私のことで、みんなを危険な目に遭わすわけにはいかない。水の下位精霊さんも、下手なことを水の上位精霊さんに言って愛人の恨みをかってもたいへんだし。私の呪いのことはもう諦めよう。ただ、モルベルトとヘレナとの因縁は今生で断ち切りたいとは思っているけど……」
「……アリス……」
「……次もあの顔を見るのは、嫌だからね」
アリスが苦笑すると、皆が悲し気な表情をした。
『そのアリスの問題って、地の魔導石があればいいの? 呪いをとく代償にはアリスの魔力がたくさん必要だから?』
ヴォルトが言った。
『ガレリアの森にはいくらそなたでも、立ち入ることはできんぞ』
『前から思っていたんだけどさ、森の守護者がいないなら、こっちだってやりたい放題できるんじゃないの? いっそ森を全部燃やしちゃうとか。ほったらかしにするほうが悪いんだからさ。魔物が本当にあの森にいるなら、精霊の責任問題になる――――――けど、今は責任を取れる精霊王がいない。だからやっぱり、守護者のデメテルがどうのってより、あの森は精霊たちでなんとかしないと、駄目なやつだよね』
ヴォルトは天使の笑顔を見せる。
『だったらさ、もうパーッとやっちゃおうよ』
「いやいや……そんなことしたら、雷の上位精霊に首を
アルバートの意見はもっともだ。
ついさっきまで、雷の精霊トールは掟に厳しいと言っていたばかりだ。
そんな精霊が、魔導石が採取できるような森を焼いて、黙っているとは到底思えない。
『ガレリアの森は人間の領地外にされている。完全に放置されているんだよね。人間も精霊もノータッチになっちゃうと、魔物の住処になるんだよ。だから、ガレリアの森をどうしようか……って話はトール様からも出ていたんだよ』
「……そうか、では、雷の上位精霊に話を通してきてくれないか。願いの代償は私の魔力で頼む」
ケンジット公が言う。
『今回はナシでいいよ。森のことは精霊側の問題だから。じゃ、ちょっと行ってくるよ』
ふっとヴォルトの姿が消えてしまう。
(……森を焼く……それは吉と出るのか凶と出るのか……人間の干渉がないから魔物が出てしまうなら、ガレリアの森をケンジット公爵領にすればいい話なのでは……)
そもそも、精霊王が雲隠れしてしまっているというのも、気がかりだった。
どうしていなくなってしまったのか?
「食事の途中だったね」
ケンジット公の言葉に、アリスは顔を上げた。
「……そうでしたね」
「アリス」
「はい、お父様」
「私は、おまえを諦めないよ。おまえの死は、遅ければ遅いほうがいい。それに親より先に死ぬような、親不孝な娘に育てた覚えはないよ」
自分も親不孝をしたいわけではない。
そんなことも承知の上で、ケンジット公は言ったのだろう。
「ありがとうございます。お父様」
「……私もアリスを守るためなら、惜しむものは何もない」
ルートヴィッヒが言った。
「俺もだよ。気を使って諦めるとか言わないでくれよ」
アルバートも言う。
「……ルートヴィッヒ、アルバート、ありがとう」
生きることを望まれている。泣きたくなるほどの胸の熱さを覚えた。
ここは彼らを巻き込んではいけないと、はねつける場面なのかもしれないが、それは出来なかった。
(僕は、もっともっと強くならなければ)
自分だけではなく、皆も守れるぐらい強い力が欲しいと、心の底から思った。すると、体の奥で眠る何かが、自分の願いと共鳴するように熱を持った。
今まで感じたことのない不思議な感覚。
(なんだろう……これは)
アリスのペンダントの魔導石が、虹色に輝く。小さかった魔導石が、ほんの僅かではあったが大きさを増した。
『……?』
モーレックの森の守護者が、アリスの変化に気が付く。
アリスの魔力が一気に増した――――そう感じ取った。
(大きな力を感じる。不思議な感覚じゃ……そしてこの魔力の感じ、知っているような……)
増えた魔力の分析をしたくても、壁のようなものがあって跳ね返される。
(あの小さな魔導石で、これほどの大きな魔力を引き出せる筈は……ないのだが)
『あ、あのぅ……私、どうしたらいいですかね』
ふよふよと浮いたままのウンディーネが言う。
そうだった。計画変更なら、ウンディーネの出番はもうないのかもしれない。
「お時間があるようでしたら、一緒に……しょ、食事でも、どうでしょう」
言いながら、ウンディーネは飲食できるのか? とアリスは考えていた。
『食べてもいいの? わぁーい』
「出来たら、雷の精霊さんが戻ってくるまで、いていただけるとありがたいのですが。いいですよね? お父様」
「勿論だ」
ケンジット公の許可を得ると、ウンディーネはいっそう嬉しそうに飛び跳ねていた。
『久しぶりの外泊だー』
(ウンディーネ、なんか可愛いな)
アリスは微笑んで、彼女を見ていた。
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