第九話 アリス、大いに頑張る
アリスは前世より、努力を厭わない人間だった。誰かが止めなければ、平気で一日中弓をひき、その体力が足りないと感じれば、一日中グラウンドを走り、そして体幹トレーニングも怠らない。
だからこそ、全国大会優勝という実績があったのだが、あいにく、顧問や部員の褒め言葉は“彼”には届かなかった。
褒め言葉が“彼”の心に浸透することがなかった。
尋常ではない“彼”のトレーニング法を、顧問が「まだ育ち盛りなのだから、無理をすれば身体を壊す」と、止めたことがあったが“彼”は苦笑するだけだった。
“彼”にはわからなかったのだ。
今、この瞬間以外の世界などあるのだろうか? と。未来の自分の姿が“彼”には見えていなかった。
未来があるかどうかわからないのに、今、無理をするな? というのはどういうことなのだろうか。今、鍛錬せずに、いつ鍛錬する? 今、努力をせずに、いつ努力をすればいい?
“彼”を心配した弓道部の顧問が、スクールカウンセラーにカウンセリングを受けさせたが、良い方向にはいかなかった。
「好きでしていることの、いったいなにが悪いというのですか?」
好きでしていると言う割には“彼”の瞳には輝きが一切なかった。一度専門の病院で診てもらったほうがいい、という話も出たが“彼”の母が心療内科に連れて行く――――なんてことはしなかったし、夫に相談などすることもなかった。
「君の弓の腕前には感心するよ」
アリスはハッと現実に引き戻された。
ルートヴィッヒの声が真後ろでする。
昔のことを思い出しているときは、不思議な感覚だった。夢か現実かわからなくなる。
「あ、ありがとう、ございます」
「でも、今日のところはここまでだな」
練習を切り上げようとするルートヴィッヒに、アリスは首を左右に振った。
「まだできます。疲れていません」
「疲れていないのは結構だな。君にはこの後も色々課題があるからね。ダンスの授業、魔法の授業、やることはたっぷりある」
「……あぁ、そうでしたね」
今は学校の放課後ではない。
いつまでも好きなだけ、好きなことをできるわけではなかった。
(……僕は弓道が好きだったのだろうか?)
ふと考えてしまった。
自分には合うと思ったから、入部をしたが、それは何故だったのか。
「どうした? 魂がどこかに飛んでいっているぞ。ダンスの授業の前に少し休んでおけ。なんならヒーリングをかけてやってもいいが」
「あ、それは遠慮します。なんだかズルしているみたいなんで」
「魔法がズルねぇ……」
ルートヴィッヒは苦笑いをした。
「だって、使える人と使えない人がいるのだから、魔法でなんとかしてしまうのって不公平じゃないですか?」
「使えるものは、使えばいいと思うのだが」
「ルートヴィッヒ様はそれでいいと思います。私がそういうのが苦手っていうだけで」
「多少は頼ることも、覚えたほうがいいと思うがな。まぁ、ヒーリング程度の魔法なら、アリスもじきに使えるようにはなるだろう」
「え? そうなんですか? じゃあ、いろんな人の助けになりますね」
「はぁ?」
ルートヴィッヒは、心底呆れたような表情をした。
自分が魔法を使われるのは駄目で、他人はいいのかと。
ましてや積極的に使いたいとも取れる発言に、彼女の思考回路はどうなっているのだろうかと思った。
(それほどまでに、自分に対して愛情がないのか?)
ルートヴィッヒやアルバートが、魔法が使えるようになって欲しいのは、彼女の身を案じてのことだし、弓の鍛錬をしているのも、アリスが自分を守れる手段が増えればいいと思っているからだ。
沢山の人間が彼女を失いたくないから、呪いに対してもがいているのに、アリスの意識はどこか違うところを向いているような気がしてならない――――と、ルートヴィッヒは感じていた。
(アリスは……未来を見ていない?)
ただ、今だけを生きていて、将来どうしたいとか、どうなりたいとか、呪いを解きたいとか考えていないように気がした。
(これでは、過去ばかりを見ていたときと何も変わりはしない)
ケンジット公爵夫人の死を自分のせいだと、嘆き、苦しみ、心に鍵をかけていた。ときには、その嘆きや苦しみさえも隠して微笑んでいた。
(君が悪いわけではないのに)
何故この少女が苦しめられ、呪いをかけられなければならないのか。
早く作り笑いなどではなく、心の底からの彼女の笑顔を見たい。と、ルートヴィッヒは思っていた。
「では、ダンスの先生をお待たせしてはいけませんので、私はお先に失礼させていただきます」
スカートをつまみ上げ、アリスは恭しくルートヴィッヒに頭を下げた。
「あ、あぁ……」
「また明日もよろしくお願い致します」
にっこりと美しく微笑むアリスに、ルートヴィッヒは微笑みを返した。
アリスの一日のタイムスケジュールは、午前中は数学などの勉強。昼食後は弓の練習が二時間ほど。ダンスの練習が三時間(デビューが近いため)夕方の一~二時間はアルバートによる魔法の訓練。夕食。その後は自由時間になるのだが、アルバートから借りた魔法の書を読み耽るのが一日の流れだが、魔法の書を読む、という作業も誰かが止めなければ、睡眠時間を減らしてまで彼女は読み続ける。
アリスの中に早く魔法を習得しなければ、という焦りはないのだが、彼女は“ほどほど”がわからないのだ。
「まぁまぁ! お嬢様! まだ本を読んでいらっしゃったのですか!」
寝室を覗きに来たリリーが、呆れたように言う。
「明日はドレスの採寸もありますし、一日忙しいのですから、早く寝てくださいませ」
結構、いや、かなり貴重な魔法の書をやや乱暴にアリスから取り上げて、アリスの身体をベッドに沈めた。
「ちゃんと休むということも大事ですよ。お嬢様はルートヴィッヒ様のヒーリングを積極的に受けられないのですから」
「……だって、ヒーリングはズルよ」
「そう思うなら、自力で回復できる生活スタイルを送ってくださいませ。倒れられたら強制ヒーリングですよ」
「……それは、ルートヴィッヒ様に申し訳ないから、早く習得しなければいけないわね」
リリーは呆れた、といった表情をみせた。
「倒れた人間が、どうやって自分にヒーリングをかけるのですか」
「あ、あぁ……そうね。本当……私って駄目ね」
ふうっとアリスが悲しげにため息を付くと、リリーは微笑んだ。
「駄目な部分は人間誰にでもあるものです。そういうところは助け合えばいいだけですよ。お嬢様」
ふかふかの羽毛布団をアリスにかけながら、リリーが言う。
「お嬢様には頼もしい味方が沢山いらっしゃいますよ」
「私に……味方」
リリーのその言葉が、何故か胸をきゅうっと締め付けてきた。
一瞬呪いのせいかとも考えたが、そういった類の不快なものではなかった。
(味方……かぁ)
思わず口元が緩んでしまった。
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