第六話 チェリーパイは紅茶と共に
広々としたリビングに入ると、食欲をそそる甘い良い香りがした。一気に気持ちが高揚する。
『あぁ、なんて良い香り』
突然精霊が現れて、ウキウキとした様子で椅子に腰掛けた。
(……やっぱり、気のせいだったな。ルートヴィッヒ様がいるときは出てこないと思ってたんだけど)
アルバートの屋敷のメイドも精霊に驚く様子もなく、てきぱきと給仕している。
『この家の菓子は美味い』
精霊は美しい所作でチェリーパイを食べ始めた。
「いただきます」
銀色のフォークでチェリーパイをさっくりと一口大に切り分けて、口に運ぶ。甘酸っぱいチェリーのジャムの味と、カスタードクリームの味がふわっと広がる。
実はケーキの類は苦手だったのだが、この世界ではよく食べる。
(ケーキは苦い思い出しか、なかったからな……)
前世の父親が甘いものが好きではなく、あの家ではめったにケーキが食卓に置かれることはなかった。
妹の誕生日だけは――――違ったが。「男の子なんだから、ケーキなんて食べないでしょう?」ケーキをねだった日、母親がそんなことを言った。
(ケーキがどうこうではない……僕はただ、誕生日を祝って欲しかっただけ)
ぐっと唇を噛み締めると、精霊が口を開いた。
『さて、ぼちぼち頃合いだと思うのだけれど?』
チェリーパイをぺろりと平らげている。アリスはまだ半分残っている状態だった。頃合いとはなんだろう? 早々に食べきったほうがいいのだろうか?
などと考えていると、アルバートが「ゆっくり食べていいんだよ」と言ってくれた。
「ありがとう。アルバート」
アリスが礼を言うと、ルートヴィッヒが小さく咳払いをした。
(な、なんだ?)
『アリスが怯えるから、そのわかりにくい感情表現はやめたらどうかしら』
「……考慮する」
ふたりのやり取りを苦笑しながら見ていたアルバートが、ゆっくりと話し始める。
「えーっと。人間ってみんな死んだらその後、生まれ変わると思うんだけど。あ、まぁ、人間だけじゃなくて命あるもの、みんなか」
「え?」
突然何を言い出すのだろうと思っていると、精霊の蔦がしゅるしゅるとアルバートに向かって伸びていく。
「ちょっ、やめろよ」
『意気地がないのぉ、私が話したらいいのか?』
おっとりとした口調の中にも苛立ちが感じられて、何を話したいのか身構えてしまう。
「いや、私が話そう」
ルートヴィッヒが片手を挙げた。
「――――アリスは」
「えっ? わ、私?」
持っていたフォークを皿の上に置いて、姿勢を正した。
「あ、食べながらでいいよ。なんだったらチェリーパイをおかわりする?」
アルバートが明るい声で言ってくるが、今はそれどころではなかった。
「せっかくですが……」
「そっかぁ」
精霊の蔦がイライラしたようにうねっている。
「……話を続けても?」
「申し訳ありません、ど、どうぞ」
ルートヴィッヒに聞かれて、アリスは何度も頷いた。
「書き換えたい記憶があるのだろう?」
「え?」
話が唐突過ぎて、彼が何を言おうとして、精霊が何を言わせようとしているのかが理解できない。
「人はもともと誰かの生まれ変わりで、大抵は前世の記憶は持たない。でも、君は前世の記憶を抱えたままこの世界に生まれてきた」
「あ、あの……」
どう答えればいいのだろう?
正解がわからない。そうだと言えばいいのか、違うと言えばいいのか――――。
(黙っていたら肯定と同じだ)
にこっと笑ってアリスは口を開いた。
「何を仰っているのかわかりません」
精霊は相変わらず蔦をうねらせていて、それから名案が浮かんだとばかりにアリスを見てくる。
『記憶の封印はどう?』
ドライヤーか扇風機の力しか持っていない、と思っていた精霊の発言に驚かされる。
そんなことができるのか?
(いや……罠かも)
もし本当にそんなことが可能であるなら、アリスがアリスであるうちに封印をしておくべきだった。
「あの、やっぱりチェリーパイのおかわりをいただいてもよろしいでしょうか?」
「いいよ。紅茶も新しくいれさせよう」
アリスがわざと返事をしなかったことで、精霊の蔦がしおれたように床に落ちていく。そして気落ちしている精霊に、追い打ちをかけるようにルートヴィッヒが言う。
「精霊、大きな代償をアリスに払わせるのは駄目だ」
『じゃあ、他になにか案があるとでも? まさか根性論を言い出すまいな? 強い気持ちを持て、前を向け、過去との離別を、と唱えるか? ヴィクトリアのことであれほど心を痛めていた少女だというのに』
ヴィクトリアはアリスの母だ。アリスを産んですぐ亡くなった人。
(心を痛めた――――)
自分の命と引き換えに、ヴィクトリアはアリスを産んだ。アリスを産まなければもっと長生きできたかもしれない女性ひと。忘れてはならない心の痛みを、忘れてしまっている。
「……本当に、記憶の封印なんてできるの?」
『私にできないことなどない。仮に、アリスがこの世界に絶望をして、この世のすべてを破壊しろと望むなら、それもまた可能』
「そんなの、望まないわよ」
アリスが苦笑すると、精霊は頷く。
『で、あろうな。そもそも、そういった類の人間に我々は祝福を与えたりしない。では、望みは記憶の封印でいいのか?』
「いいえ、記憶の復活を」
『記憶の復活?』
怪訝そうな表情をする精霊に、アリスは大きく頷いた。
「忘れてしまった私の……アリスの記憶を思い出させて欲しいの」
『妙なことを言う』
「妙ではないわ。アリスとして過ごしてきた日々の記憶を取り戻したいだけ。それから……書き換えたい記憶なんて――――私にはないです」
「アリス……」
ルートヴィッヒは何か言いたげにしていたが、アリスはにっこりと笑った。
「そもそもお母様の記憶がないのはわかっています。それでも、お母様を想っていたアリスの記憶は、私には必要だと思うんです」
このとき、アリスの記憶が戻れば“アリス”が戻ってくると考えていた。
『まぁ、それがアリスの望みなら、叶えよう。私は何度でもアリスの望みを叶えられるのだから、また思うことがあれば言えばいい』
ただ、今回の望みは安くはない。と精霊は言うとアリスの額に右手の掌を置いた。
(……アリス……戻っておいで)
ややあってから、アリスは不思議な浮遊感を覚え、意識を失った。
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