第五話 アリス、おおいに困る

「大地の息吹よ、我が鼓動、我が呼吸に呼応せよ、グレートスラッシュ!」


 アリスの掌から三日月型の光がいくつも出て、空気を切り裂くようにまっすぐ飛んでいく。


「おぉ、凄い凄い」


 アルバートがパチパチと拍手するが、アリスは不満げだった。


「……アルバート“先生”魔法が的まとまで、届きません……」


 的となった木には傷一つ、ついていない。


「まぁ、確かに火力不足は否めない感じはするけれど、今までまったく魔法が使えなかったことを考慮すれば、だいぶ上達したと思うよ」


「的に……届かないのは悔しいです」


 高校時代に弓道で全国優勝したことがある身としては、狙った場所まで届かないというのは屈辱的であった。


 無論、弓道と魔法はまったく別物だということがわかっていても。


「うーん。もうちょっとうまく魔力を引き出せるようになれば、的まで届くようになると思うんだけどな。やっぱり魔導石の力が不足してるのかな」


 アルバートがアリスの首にかかっているペンダントをそっと持ち上げながら、ため息をつく。アリスはガバっと顔を上げた。


「アルバートのせいじゃないです。私の努力が足りないんです」


 アルバートが長身とはいえ、ペンダントを確認するためにかがんでいた彼の茶色の瞳がすぐ目の前にあった。


 顔を赤くしてズザッと後ろに下がったのは、アルバートのほうが早かった。


「ご、ごめん。ええええええっと、その、一旦休憩しよう! うん、そうしよう。お茶の用意をさせるよ」


「あ、はい」


 アルバートはバタバタと研究所として使っている屋敷の中に入っていった。


 ぽつんと取り残されたアリスは、呆気にとられていた。


(ん? 何が起きた?)


 首を傾げたとき、背後から声をかけられる。


「随分と、君たちは仲が良いんだな」


 振り返ると、そこにはルートヴィッヒが立っていた。


「こんにちはルートヴィッヒ様」


 アリスはスカートをそっと持ち上げながら恭しく頭を下げ、挨拶をした。


(今日、アルバートの研究所に来るって言ってたかな?)


 アルバートからはもちろん、ルートヴィッヒ本人から訪問の話は聞いていなかった。


 この国の貴族の作法として、アポ無し訪問はしないのが普通だった。


「私は僅かな時間でも君と会いたいと思ってオーガスト家に連絡しても、いつもここにいると言われる」


「あ、そうなんです。今、アルバートに魔法を教わっていて」


「……ふうん“アルバート”ね」


 ルートヴィッヒの形の良い眉が、ピクッと跳ね上がった。機嫌を損ねたのはアリスにもわかったが何故機嫌が悪くなったのかまでは、わからない。


(な、なんだろう?)


 ツカツカと近くまで彼が歩み寄ってきて、右手がすっとあげられた瞬間、アリスは殴られると思って両腕で顔を隠すようにして後ろにさがった。


「か、顔は、殴らないでください」


 愛らしいアリスの顔に無惨な痣ができるのは、彼女に申し訳ないと考えていた。


 アリスはそれこそ、ビスクドールのように愛らしく可愛らしい容貌をしていた。彼女の白い肌には傷一つつけてはいけない。


(アリスを守れるのは、僕だけだ)


 緊張で震えるアリスを見て、ルートヴィッヒはひどく驚いた顔をしている。


「すまない。ペンダントを見るつもりで、殴るつもりは毛頭なかったのだが……驚かせてしまったようだね。何もしない。大丈夫だよアリス。これまでだって、これからだって、君を殴ったりはしないよ」


 そろりと顔を守っていた腕を下ろすと、彼のエメラルドグリーンの瞳と目があった。


「大丈夫だよ。私は君を傷つけたりしない」


「ご、ごめんなさい……私……」


 一度わき上がった恐怖心はなかなかおさまってくれそうにもなく、激しい動悸で目眩がし、過呼吸が起こる。


(こんなときに、パニック起こすなんて……)


「我が声に応えよ“ヒーリング”」


 ルートヴィッヒが詠唱すると、アリスの身体がすぅっと軽くなった。


(凄い、癒やしの魔法は心の動揺にも効くんだ)


 すっかり動悸もおさまり、アリスは落ち着いた表情でルートヴィッヒに頭を下げた。


「ありがとうございます。楽になりました」


「……君の……その心の傷は……いったい……」


「わかるんですか? 私の傷が」


 心までは読めるはずはないだろうと、彼に聞く。


「今までと異なる傷があるのは感じられる。以前の君は君の母――――ケンジット公爵夫人のことで思い悩んで傷ついていたが、今は違うようだ」


 一瞬洗いざらい話してしまおうかと思ったが、自虐的に笑んだ。


 誰が信じる? 自分は異世界転生者だと、そしてもとの性別は男で、この身体の持ち主のアリスはどうなったかわからないなんてことを。


(アリスが……アリスに戻れるとも限らないのに)


 押し黙るアリスを、ルートヴィッヒは静かに見守っていた。


 彼女が口を開くのを待っていてくれている。


 だけど、アリスの唇は固く閉ざしたままだった。


(僕が話すことで……アリスがどう思われるか……)


 駄目だ、やはり話せないとアリスは思った。


「アーリース! お茶の準備ができたよーって、ルートヴィッヒ、来てたんだ」


 重い空気が吹き飛ぶような明るいテンションで、アルバートがアリスを呼びに来た。


「そりゃあ来るさ、私だってアリスの婚約者候補。君にばかり彼女を独占させておくわけにはいかないよ」


「そうかそうか、今日はチェリーパイを用意させたから君も食べていくだろう?」


「いただこう」


 二人が並んで屋敷に入っていくのを、アリスは後から追いかけた。


(……ごめんなさい……ルートヴィッヒ様)


 この世界には、もう自分を傷つけようとする者はいない筈なのに、心に染み付いた痛みや苦しみを無視できそうにはなかった。


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