公平な判決
静まり返っていた。室内。重苦しい空気が部屋中に蔓延していて、そのせいか、天井から注ぐ灯りは、目が痛むほどの白となって飛び込む。
こんなにも息が詰まる場所なのに、そこには何人もの人々が集まっていた。そして彼らは部屋で最も高い場所に座す、一人の男の発言に注目している。
その白髪混じりの男が姿勢正しく椅子に座る様には、ただならぬ貫禄があった。彼は黒い法服を纏っていて、そこには己の公平性を示す意味があった。あるいは、その服を纏うからには、そうあらなければならなかった。
法の番人、法の体現者と呼ばれる存在。裁判の長。それが、彼の役職であった。彼の口から出るたった一言をもぎ取るために、弁護士や警察は、血眼で情報をかき集める。
しかし、そんな彼の後ろ。法廷に似つかわしくない白のシルクハットにスーツを着こなした浅黒い肌の人物が、あろうことにも長たる彼に向かって、軽々しく口を出している。
「あの被告人は有罪ですね」
何とも不届千万、不埒な輩。けれど荘厳な法廷内で、これほど目に余る発言をしているのに、この存在に気付いている人間は居ない。被告人に弁護士、検察官に裁判官、傍聴人でさえ。誰にも姿すら気づかれず、声も届いていないようだ。
──その声が聞こえるのは一人、裁判長だけ。そして操られてでもいるのか、裁判長は陳述や弁論をも右から左に聞き流し、評議すらもこの人物の指示された文言で操って、注文通りの判決を宣告してしまう。
「主文、被告人を……」
それを聞き、白スーツはほくそ笑む。こんな歪な関係が生まれたのは、いつからだったか。全員が退廷し終えた法廷内を見下ろして、裁判長の男は深く、息を吐いた。
──その日、月明かりが差す寝室で、彼はふと目が覚めた。理由は二つ。一つは閉めてあったはずの窓から夜風が吹いてきて、寒さが身に染みたせい。何よりもう一つは、聞き覚えのない声に囁かれたからだった。
「もし、夜分遅くにすみませんが、ちょっとお話を聞いていただけますか」
彼は声に驚くとシーツを蹴りとばして飛び起き、壁に背を引っ付けた。けれど運悪く月は雲隠れし、室内の灯りも全て消えている状況。ベッド脇にいると思しき謎の人物は、闇に紛れて見えはしない。
法に身を捧げていれば、恨みを買うことはごまんとある。もしやコイツは、以前の裁判の判決を不服とした者で、復讐のために忍び込んできたか。それとも、次の裁判を有利に進めるため、誰かに依頼されて脅迫をしにきたのか。理由はいくらでも考えられた。
「何者だね、アンタは……」
侵入者に声の震えを悟られないよう質問をする。こんなことを聞いたところで、答えなど返ってくるかと、まだ寝起きで回らない脳に喝を入れつつ。
「私は、いわゆる悪魔でございます」
闇から声が飛んできた。これはふざけている者か、頭がイカれている者か、どちらかの答えだろう。
だが月がまた、雲間から顔を出すにつれて、彼はこの発言を認めざるを得なくなっていった。目前の人物は──悪魔を人物と形容していいかは分からないが──頭部から二つ、背後に一つ、常人にはあるはずもない突起が付いていた。言い表すならまさしく、触覚と尻尾。ぬらりと黒々しいそれぞれが、怪しく左右に揺れ動いている。そしてそれらと耳先、口元にチラリと見える牙、爪先、どれもがひどく尖っているのだ。格好も胸元にシルクハットを抱え、白スーツを纏った、暗闇だろうと目につくはずの紳士風な服なのに、月明かりが出るまで全く見えなかったのも、この人物が本当に悪魔だとすれば、どうも腑に落ちてしまう。
「どうも、夢を見ているのか」
「誰しも、初めはそうおっしゃいます」
「となると、やはり夢ではないようだ。それにしても悪魔が来たとなると、私に悪徳な宗教勧誘でもしに来たか。それとも、魂を奪いに。もしくは破滅をもたらしに……」
「お待ちください。同業がそういった行為をして、世間に悪魔の悪評が蔓延っているのは重々承知しておりますが、そのような事案は悪魔に何か願い事をした、報いとして起こる弊害であって、今回はそうでなく、むしろこちらからの善意の申し出をしたいと、お伺いした次第なのです。ですからそういった先入観は一度、捨てていただきたい」
悪魔は格好に違わず口調も紳士的で、そんな知性的な立ち居振る舞いに、男も態度を軟化させた。そこには公平を重んじる立場として、偏見を捨てようとしていたのもあった。
「ふむ、一理ある。それにしても、そちらからの申し出とは珍しいですな。して、それは何なのです」
「はい。まずあなたは今、とある裁判の担当になっておりますね?」
「ええ、確かに……」
それは弁護側と検察側、双方の主張が真っ向から食い違っていて、少しの差異で大きく判決が揺らぐ事件だった。一審では執行猶予付きの判決が出たものの、弁護側は無罪を、検察側は実刑判決を求めて、双方が控訴。しかし控訴審では差し戻し判決が下り、再び一審へ。そしてその差し戻し裁判の裁判長として、この男が選ばれていたのである。
「その裁判の、お手伝いをしたいのです」
「手伝い?」
「そうです。私は悪魔、人智を超えた存在です。私の前では、誰の心も丸裸。どんなに嘘をつこうとも、心中の事実を見抜くことができます。どうですか、私を裁判所に連れて行ってくれませんか。被告人が真に罪人か、それともそうでないか、すぐにお知らせできますよ」
それは男にとって、魅力あふれる提案には違いなかった。しかし。
「それは……お断りしたい。裁判において最も重要なのは公平性です。そして私が考える公平性というのは、いくつもの事実から客観的に判断をするということ。いくらあなたが人心を見抜けると言っても、あなたの発言が真実と裏付ける証拠は?どこにもないでしょう?法に身を捧げる人間として、あなたの証言だけを特別扱いする訳にはいかないですし、それだけで判決を考えるなど、もってのほかなのです」
法に生きる男の返答は、予想されていたのだろう。悪魔は目を妖しげに、それでいて爛々と光らせて、不気味な笑みを湛えたまま反論をした。
「確かに、そうでしょうね。ですがそれはあなたが言ったように、あくまでもあなたが判断する際の、という意味であって、絶対普遍的な、揺るぎない公平などはありませんよね」
「何が言いたいのです」
男は少し声を荒げた。己の信条、ひいては司法の根幹を、馬鹿にされた気分になったからだった。
「いえいえ、馬鹿になどしていませんよ」
そんな男の心を見透かしたのか、悪魔は一言呟いてから続けた。
「実はすでに、今回の裁判の被告人を見てきました。あれは嘘つきですね、まごうことなき罪人ですよ。実刑判決でいいくらいの」
「ですから、あなたの発言をあてには」
「まあまあ、そのうちに分かりますから。今日はこの辺にしておきます。また、お伺いしますね」
そういうと、悪魔は黒い靄となって消えてしまった。部屋には独特の、異界の刺激的な香りを残して。
「何だったのだ、今のは」
この出来事の数週間後、件の裁判が始まった。けれども、そこには想定されていた厳しい判断、判決は起こらなかった。
何故なら検察側から、被告人の犯行を裏付ける物的証拠や証言が、大量に提出されたのだ。まさに一部の隙も与えぬ証拠群に、弁護側はもはや、情状酌量を求めるしか道は残されていなかった。
「今回の差し戻し裁判の判決は、思ったよりも楽に終わりそうじゃないか」
結審後、男は同期の判事から、こんな軽口を叩かれた。傍から見ればそうなのだろう。それどころか、今回の裁判の関係者なら、全員そう思うはずだ。もはや目に見えている有罪判決、情状酌量を求めているとはいえ、実刑は濃厚。間違いなしと言ってもいい。被告人ですら、覚悟を決めているようだ。
だがしかし、でも、けれど。男の頭にはどうしても、悪魔の顔がチラつく。突如出てきた証拠たち。その裏で何か、力が働いているのではないだろうか。
「お察しがいいですね、流石です」
夜、男が部屋で頭を抱えていると、どこか嘲りを含む声が耳に飛び込んできた。窓枠に膝を立てて腰掛けた悪魔が、いやらしい笑みを浮かべこちらを見ている。
「やはり、あなたの仕業か」
「そうです。私が検察側へ、多少のお力添えをさせていただきました。と言っても捏造は一切しておりません。匿名の情報提供者として、いくつか助言をしただけです。それよりも、お分かりいただけましたでしょうか」
「何がです」
「あなたの公平性の危うさですよ。どんなに言葉を並べて高尚に表現しても、証拠頼りなんです、結局は。いいですか、もう一度言いますよ。私は人智を超えた存在なのです。あなた方の作り上げた司法のシステム自体に、文句を言うつもりはありません。法をどうこうしたいわけではないですから。そうでなく、私は真に正しく、あなたの公平を実現させてあげようと言っているのです。
さあ、どうしますか。今後私を使いますか、使いませんか」
男は数分、目を閉じた。悪魔は男の返事を、黙って待つ。部屋には、無音だけが流れていた。不思議と風のない夜で、虫も鳴かない夜だった。人の気配も無かった。新月で、月明かりも無かった。暗がりだけがある夜だった。
「……わかりました。これからも、助言を頼みたいです」
「よろしい。素晴らしい決断ですよ、ええ!」
悪魔は、これまで以上に口角を上げて、薄気味悪く笑うのだった。
それから悪魔は、男が裁判を行う時、必ず背後に現れるようになった。無論、その姿は他者からは見えない。しかし常に、男にだけ聞こえる声で指示してくるのだ。「あれは有罪です、まあ執行猶予付きでいいでしょう」「あれは無罪でしょうね、しかし隠しごとをしています。犯人を庇っているんでしょうね」男は、その声の傀儡となって動く。これが公平なはずなのだと、盲目的に信じて。
そんなある日の、ある裁判。殺人未遂を起こした被告人の、ある証言。皆が精神異常者の戯言と、一考の価値もないとしたその証言に、男は恐怖せざるを得なかった。
「悪魔に唆されたんだ。あいつは悪人だから殺してもよいと、悪魔が俺を、誑かしてきたのだ」
悪魔に言われた。悪魔のせいだ。被告人は絶えず呟き、裁判長を縋るように見上げた。
だが、救いを求める表情は絶望へと変化し、被告人は声を張り上げて喚き散らす。
「悪魔だ、あそこに悪魔がいる!あの悪魔だ、俺を陥れたのは!」
「はは、裁判長が悪魔で、真犯人か」「推理小説にしても陳腐だな」どよめきと失笑が入り混じる法廷内で、唯一裁判長の男だけが、真に恐れ慄いていた。そんなことお構いなしに、悪魔は囁く。
「アイツは有罪ですね、それはもう、凄まじい大罪人です。無期懲役、終身刑、死刑。どれにしましょうか。もちろん、発言は全て偽証です。さあさあ、早くこの裁判も終わらせてしまいましょう。公平なご決断を、期待しておりますよ」
男は震える。裁く立場にも関わらず。なにせ彼への裁きは、同時に自らへの裁きでもあるのだ。悪魔に公平を願ってしまった報いが今こうして、眼下に現れたことを、男は理解した。
はたして彼が下す判決は有罪か、それとも無罪か。悪魔は歪んだ笑顔を浮かべながら、楽しそうに、この公平な裁判の行く末を見届けるのだった。
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