理想郷
「お父さん、気持ちのいい朝だね」
「こらこら、あまり先を走ると危ないからね」
早朝。朝日を浴びて川辺を歩く、親子の声が聞こえてくる。そこでは小鳥は語り合い、川はせせらぎ、優しい風が朝露に湿った草木に息吹を与えて、野に咲いたサフランは皆一様に伸びをしていた。これは、その場所に限った話ではない。ここは今から数百、数千、数万年後の未来であり、この頃の地球はどこを見渡しても自然に溢れ、それまでの過去には必ずあった不毛な土地や殺伐とした地域は、どこにも存在しなかった。この星はついに、これ以上ない理想郷の時代を迎えたのである。
それは有史以来人類を襲った数えきれない苦難の連続が、ついに途絶えたことを示していた。流行りの病や突発的な事故、同類同士の愚かな戦争はもう、存在しない。そのため、この時代を生きるものたちはひどく穏やかで、それがまた平和へと一役買っていたのである。
といってもちろん、突如世界がこうなったわけではない。万事には順序があった。それらは、全てがゆっくりと進んでいったのである。
だから事の始まりを、決まってここから、とするのは難しかった。ただ、強いてそれが目立ちはじめた箇所を言うのであれば、百何年前かの新聞記事の、小さな一枠の記事が挙げやすかった。
"ロボット工学の権威サトウ博士、付け替え不要の永久的な義手開発へ"
『ロボット工学の権威サトウ博士が、新型の義手開発に着手しているとの情報が入った。本人へ取材したところによると、自身の研究成果を元に人体の神経と義手とを、これまでとは違い間接的でなく直接的に紐づける──つまりは義手の一部を人体へ埋め込み、恒久的に使用できるようにするのだそう。実現すれば医療界に新たな革命が起こるが、しかし衛生面や適合率などの様々な問題が山積しており、また人権保護団体から非難の声も上がっているため、実用化は先の話と思われる──』
この時はまだ、世界の姿は現在とさほど変わりなかった。だからこのニュースを多少気にする人はいても、それ以上に話題が広がるわけでもなく、各々が数多のニュースを見る内に忘れ去られる程度の存在で、そのため数年後に実用化成功と一報が入っても、それほどの騒ぎになることもなかった。
だが、最新義手をつけた人間が社会へ表立って出てくると、人々の目つきは変わった。それは欠損している外見を差別したとか、そういうわけではなく、むしろ尊敬、感心の念であった。サトウ博士によって作られた義手は、常人の三、四倍の力を装具者に与え、これまで仮初の手では不得手とされていた、細々とした作業もすんなりとこなす。
"凡人よりも優れた装具者"──素晴らしき新たな人材に、世間やマスコミは彼らをもてはやした。けれどこうなってくると、このことを面白く思わないものも出てくる。
「何だ、今までは俺ら労働者がいなけりゃ企業は回らないって言ってたくせに、あの変な手をつけた奴らのせいで、お前らは仕事が遅いとどやされるようになり、今では肩身が狭くなっちまった。ああ、おもしろくねえ。あーあ、俺もアイツらと同じモンがついてればなぁ……」
と、こんな感じ。さらに、一部はこう発展させる。
「待てよ、なら俺も義手になりゃいいじゃねえか。工場で事故を装えば保険金も降りるし、その金で義手を頼めば……」
で、さらにさらに一部はこの発想を実行に移した。片腕を故意の事故で失い、会社から保険金を取り立てて、数ヶ月後何食わぬ顔で義手をつけて戻ってくる。大抵は失敗するのだが、それでも一人が成功すると始末が悪い。同じ不満を持って踏みとどまっていた者達が、アイツがやったならと連鎖して行うからだ。会社からすれば金は出てくわ、工場ラインは止まるわ、たまったものではなかった。
そこで事態を鑑みたサトウ博士は、新たな開発を行った。それは最新義手の力を、健常者でも扱えるようにするもの。具体的に言えば腕にちょっとした機械を埋め込んで、義手と同じ働きをさせるのである。
コレに喜んだのは企業だった。彼らは早速、社員達全員に手術を受けさせ、問題は解決。さらに仕事効率が従来と比較にならないくらいに上がり、それと比例して売り上げも伸びるのだから、笑いが止まらないといった状態だった。
さて企業レベルまでこの波が来れば、次はいよいよ国が顔を出してきた。だが、国が求めたのは今までの産業利用よりもより直接的な利用方法で、つまりそれは、身体能力向上により軍を強化しようと画策したのである。
サトウ博士はその要求を聞き、最初は難色を示した。しかし、ちっぽけな一博士である彼は、国の力に逆らえず。結局は技術を応用し、全身強化を兵士に施す術を生み出してしまったのだった。
しかし、各国にはスパイという者がいて、いつでも情報を抜き取ろうとする。今回の件も例に漏れず、それぞれの所属国家へと情報は行き渡るのだった。
「なに?そんな技術、一国で独占していいものではない。どうにか我が国の兵士にも適用できないだろうか」
義憤と嘯き、恐れを隠し、各国はいつしか人体改造手術争奪戦の様相を呈していった。しかし、この争奪戦に勝つためには高度な頭脳戦を勝ち抜かねばならない。サトウ博士はそれぞれの国へ、時には拉致に近い形で招かれ、その都度このように頼まれたのである。
「我が国の政治関係者、全員の脳を強化してくれ」
心境の変化があったのか、博士は以前と違い悩みもせず、申し出を快く受け入れて次々と手術を行っていった。
そうして彼が全ての国を回り終えた時、世界には変化が起きていた。
「争いなどくだらない、もうやめよう。そんなことよりも、この手術は素晴らしい!全ての人間は脳強化手術を受けるべきだ」
各国首脳陣は、口を揃えてこのように唱え始めた。これは罪悪感に駆られたサトウ博士の復讐であったが、しかしサトウ博士も聡明な頭脳を得るため、義手を開発する数年前に脳を手術していて、果たしてどこからこの発想が生まれたのか定かではなかった。きっと時代の流れと同じく、ゆっくりと変化していったのだろう。そして時が進んで緩やかに、人は生身から置き換わっていって……。
──このようなことが、全て過去に行われて。今では大人も子供も、手術痕のない人間はいなくなった。彼らは今、自分の意思で体のほぼ全てを機械化し、擬似的な不老不死を得ている。いずれは肉も無駄だと悟り、その金属でできた骨格を、陽の光の元へと晒すのだろう。
「お父さん、気持ちのいい朝だね」
「こらこら、あまり先を走ると危ないからね」
未だに、親子の声が聞こえる。彼らはのんびりと、川辺を歩いているのだろうか。それとも、人の言語も歩き方も、あらかた捨ててしまったのだろうか。
でも周りの自然からしたら、それはどうでもいいことだった。人に目を向けることもなく、小鳥は語り合い、川はせせらぎ、優しい風が朝露に湿った草木に息吹を与えて、野に咲いたサフランは皆一様に伸びをしている……。
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