オアシスのラクダ

 ここはビルの裏路地。すぐ側には人が大勢居るのに、冷たさしか感じられないこの場所で突然、どう見ても場違いな動物が現れた。


 それは背中に二つのコブを持ち、長いまつ毛を有する、砂漠地帯に生息する四足歩行の生物──ラクダだ。ラクダが、どこからか唐突に出現して、ゆったりと腰を下ろしたのである。


 「あら、こんなところにラクダがいるわ」


 初めにこの不思議なラクダに気づいたのは、昼休み中のOLだった。この日の彼女は仕事でむしゃくしゃすることがあって、食でストレスを解消しようと会社の裏手からほど近い、お気に入りの蕎麦屋に向かった。そして今はその帰りのわけだから、同じ道順を辿った結果、こうしてラクダに遭遇したのである。


 「はい、ラクダです」


 ラクダは名前を呼ばれたので、返事をした。その声は見た目から想像されるイメージと違わず、のんびりとした、眠気を誘うような声だった。


 「すごいわ、最近のラクダって喋るのね」


 OLは驚きつつも、平静を保っていた。もしラクダの声が低く恐ろしい声だったり、甲高く耳障りな声だったら、今頃彼女はパニックに陥っていただろう。しかし、このラクダはイメージ通りの、耳心地の良い声をしていえ、安心感すら覚えるのだ。そんな声だから、彼女は喋るラクダに対して、「人間が様々いるように、ラクダにもそういう個体がいるというだけなのだろう」と、特段深刻にならず考えられたのだった。

 

 「ねえ、あなたはどこから来たの?」

 「それが、覚えてないのです」

 「砂漠からではないの?」

 「私も、最初はそう考えました。しかし、砂漠に住んでいた記憶が見つからない。ならばサーカス団かとも思いましたが、その記憶もないのです。もっと言うと、この近くの、どこかに住んでいた気がするのですが……」

 「だけど、この近くにラクダが住んでいたなんて、聞いたことないわ」

 「そうでしたか。では、私はどこから来たのでしょう?」

 「私には分からないわよ。というか、その質問は私がしたのよ?」

 「おや、そうでした」


 ラクダはまた想像通りに、穏やかな顔で微笑んだ。それは見るものに幸せを届けるような、素晴らしい表情で、それを見た彼女も一緒に微笑んでしまうくらいのものだった。


 それから一通り談笑すると、彼女は自分の休み時間がそろそろ終わることに気がついた。


 「ごめんなさいラクダさん、そろそろ私、行かないといけないわ」

 「そうですか。あなたと話せて楽しかった。私はいつでもここに居ますから、よろしければまたどうぞ。では、お気をつけて」


 ラクダの対応は最後まで紳士的だった。彼女も手を振って、会社に戻る。するとどうだろう、ラクダとの会話で気が晴れたのか、ストレスが霧散している。それどころか、いつもより身体が軽く、よく動ける。結果、終業時間には、いつもの仕事量の二倍は働けていたのだった。


 「ねえ、あなた昼休みまではイライラしてたじゃない?午後になって、どうしてあんなに動けるようになったのよ」

 

 ここまでの変貌ぶりに驚き、同僚が聞く。そうなれば、彼女はこう答える。


 「ラクダに会ったのよ。紳士的なラクダでね、話すだけで心がすくというか、とにかくすごいの」

 「ラクダ?この近くに動物園なんてあったかしら……」

 「いいえ、裏路地にいたのよ。明日、会わせてあげる」


 同僚は彼女の答えに眉を顰めた。疲れで幻でも見たのだろうか。しかし、その心配も翌日には無くなった。この同僚の目にも、きちんとラクダが映ったからだ。


 「ラクダさん、今日はお友達を連れてきたわ」

 「これはこれは。初めまして、ラクダです」

 「ね、居たでしょ?」

 「本当ね。驚いたわ、こんな所にラクダがいるなんて」

 「すみません、びっくりしますよね」


 同僚も、ラクダの存在に驚きはすれど声を上げはしなかった。やはり、ラクダの纏っている雰囲気が安心させてくれるのだ。もし間違って尾を踏んでしまったとしても、このラクダは許してくれるのではなかろうか。それほどの包容力と温もりを、ラクダは備えていた。


 それから、彼女たちは話し合った。内容は何でもない、当たり障りない世間話。しかしそれだけの話で、二人の心は解きほぐされていくのだった。時折挟まるラクダの相槌や、話し声が小気味良くて、それだけで楽しいのである。


 そして昼休みが終わり、二人は別れの挨拶をラクダにして会社に戻ると、やはり、効果が現れた。何事も手際が良くなり、目を見張る速度になる。資料を届けにきた上司は、ついさっき渡した仕事が終わっているのを見て驚き、尋ねる。


 「二人とも、どうしてそんなに調子がいいんだい?」


 普段通りなら、上司の質問など面倒臭くて、適当に誤魔化していただろう。けれど今は二人ともノンストレス、誤魔化そうなどとは微塵も思えない。正直に伝える。


 「ラクダと話したんです」

 「ラクダ?こんな所に居るはずが……」

 「それでは明日のお昼に裏路地へ……」


 こうして、ラクダの存在は社内に知れ渡っていった。ラクダに会った社員は全員、業績が上がり、会社もそれに伴って成長。その内に、人が殺到してもラクダが大変だと、"週一ラクダ制度"が整備されるほど、会社はラクダさまさまな状態になった。


 しかしそんな会社の中にも、がんとしてラクダに会おうとしない男がいた。


 「ふん、皆はきっと、集団幻覚に陥っているのだ。あの路地には特殊ガスが漏れていて、それを吸ったせいでおかしくなっているんだろう。そういったことも考えず、迂闊にラクダに会うやつは馬鹿だ」


 男はこう言って、誰に言われようともラクダに会おうとはしなかった。そう思うなら自分から、もしくは誰かに頼んでガスが発生しているかどうかを調べればいいのだが、彼にとって重要なのは周りに左右されない自分の特別さを示すことだけであったから、調査をする気などこれっぽっちもないのであった。


 このように変にプライドが高い性格だから、彼はこの論を喚き散らし、聞いてもいないのに無駄なアピールをするのだった。今日ラクダに会おうとしている者に対しては、


 「やめておけ、あんな物のどこがいいんだ」


と止めようとするし、ラクダの話題が社内で上がれば、


 「ラクダ頼りじゃいけません、そもそもアレと話して何になるのですか。会話だけでストレスが無くなるなら苦労しませんよ……」


と、長々と否定の説を述べる。しかし、あのラクダを良く思う人間だらけのビル内で、男の味方をしようとするものは一人もいない。大体うるさそうにされるか、流されて、時には無視をされる。男はその度に誇りを傷つけられ、次第に孤独になっていく。


 「私の考えは誰にも理解されない、何故なのだ。ラクダが、ラクダが憎い!」


 だが、ラクダを推進をしている社にとって、もはや男の存在は邪魔でしかない。それに、他の社員はラクダによって能力が上がる中、彼だけはその恩恵を受けないから、相対的に仕事ができないと見なされてしまう。そしてある日、これ以上は看過できないと、彼はクビを言い渡されてしまったのだった。


 クビになった後も、あれもこれもヤツのせいだと、彼はラクダに憎悪の火をたぎらせた。それもそこそこになると、この不満を誰かに話して、少しでも晴らしたくなる。けれど、職を失った彼に話せる相手はいない。こんな性格だと、友もいないのだ。男は一人、文句を言う日々が続く。


 その飢えが長く続くと、次第に男は寂しさに囚われてくる。けれども、どうしても人付き合いが上手く行かなく、話し相手は依然できない。


 仕方なく、バーに行く。以前なら酒を飲んで喋るだけとは、何が楽しいのかと見下していた場だ。しかし話せる相手が、もうここしか見当たらない。


 酒を煽って、マスターに愚痴をこぼす。相手は適当な返事をしてくれるだけだが、それでも久々の会話ができて、嬉しくなる。


 が、この嬉しさが裏目になった。不慣れな場の不慣れな酒を、加減無く飲み過ぎてしまったのだ。


 ほどなく彼は悪酔いをして、高圧的な態度になった。そして他の客の体が当たっただの何だのと因縁をふっかけ喧嘩をし、その拍子に店の物を壊す。見かねたマスターからは入店禁止を言い渡され、用心棒に店から叩き出される……。


 同僚もダメ、友もダメ、酒場もダメ。結局、彼には話せる人物が一人も居なくなった。この地には沢山の人間がいるのに、一人もだ。


 「誰か、私と話してくれ。私が悪かった。性格を治す、言葉遣いも丁寧にする。表情だって、優しくする。だから、誰か」


 危うい足取りの酔っ払いの声など、誰にも届かない。やがて、彼はこう思う。


 「ここは都会だが、私にとっては砂漠だ。延々と続く孤独の砂場。心は渇ききって潤いを求めるが、水はどこにもない。


 しかし、それは私が悪いのだ。私の思想が足を絡めとる砂や、攻撃的な太陽となって、コミュニュケーションという足取りを重くしてしまっているのだ。どうやったら、この砂場を上手く歩けるのだろう。


 ……そうだ、ラクダだ。ラクダは砂漠をものともしない。ラクダは話が上手いのも、私は知っている。もう今更だが、あのラクダと、一度でも話せばよかった。そうすれば、心の潤わせ方を知れたかもしれないのに。あのラクダはオアシスだったのだ。砂漠のオアシスの、ラクダ。私も、そのような存在になりたかった」


 男は孤独を嘆き、過去の自分を呪った。そしてフラフラと歩き続けて、夜の道端で人知れず倒れた。




 次の日。彼は目を覚ました。昨日飲みすぎたせいか、記憶がない。いや、昨日のことだけではない。これまでの全てがぼんやりとしていて、どれも思い出せなくなっている。しかし道で止まっているわけもいかないので、歩きながら悩むことにした。


 道を歩く途中、店の窓に移った自分の姿を見た。四足歩行で、おっとりした顔をした、茶色い生物。


 「……ラクダだ。私はラクダだ!」


 その瞬間、彼の心の底から強い自負心が湧き上がってきた。私はラクダである。だが、どこから来たラクダだ。ここらの風景を見て思い出せはしないだろうか。うん、どことなく見覚えがある気がする。確か、ここら辺に何かあったような。


 ラクダは記憶を頼りに歩き、そして、ある地点に腰を下ろした。そこはとあるビルの裏路地。どうしてここが記憶にあるのだろうか。考えていると、ラクダに声がかかった。


 「あら、こんなところにラクダがいるわ」


 その声に、ラクダは丁寧に、穏やかに返事をする。


 「はい、ラクダです」


 きっと、記憶はそのうち戻るだろう。それよりも自分はラクダとして、人と話してあげたい。だってラクダの目から見れば、都会の人間は誰もが砂漠を歩き疲れているから。


 ──こうしてラクダは、今日もこの街で、人々と会話を交わしている。渇いた彼らの心に、少しでも潤いを与えるために。

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