「顔」

 僕には、嫌いな言葉がある。


 「顔がかっこよくなったね」

 「顔色がいいね」

 「顔立ちが変わったね」


 こういった類の言葉だ。無論、相手からしたら褒め言葉のつもりだろうし、言われて悪い気はしない人の方が大多数なのも知っている。

 

 だけど僕にとっては、これほど嫌な文句はない。「なんでそんなことを言うんだ!」と、怒鳴ってしまうことがあるくらいなのだ。


 けれど許して欲しい。僕だって、素直にこの表現を受け取りたいのだ。しかし明確に、そう出来なくなった過去があるのだ。


 だから、僕は贖罪の意味を込めて記そうと思う。僕がこの言葉を忌み嫌うようになった、あの不気味な夕闇の出来事を。


 ──それは、僕が中学生の頃。僕の生まれは地方の片田舎で、家には両親と祖父が一緒に住んでいた。周りには山があって、僕の通う中学は一山向こうの町だったから、通学路は山道。といっても、父が送り迎えをしてくれていたから歩くことは滅多にない。同級生にはよく『送迎車付きだ』と茶化されていた。


 そしてある時、父が熱を出したか何かで、どうにも歩いて帰るしかない日があった。今にして考えれば、タクシーを呼んで家で払ってもらうとか、学校の車で送ってもらう手もあったんだろうが、頭の固い中学生だった僕は、歩くと決めきってしまっていた。たまには歩いて、車に対してとやかく言うやつを見返してやりたいって、どこか思っていたのかもしれない。


 それに山道といえど、車が通れるくらいには舗装されているから、距離はあってもそこまでの苦にはならない。それよりも電灯の間隔が広くて、日が暮れるとかなり暗くなるのが怖かった。


 そうして、普段は窓から眺めていた道を歩き続けて、闇が迫ってきた時間帯。家までは三分の一くらいの距離で、人の声が聞こえてきた。


 「おおい、おおい、誰かぁ……」


 どこか弱々しい声だ。怪我でもしているのだろうか。僕は急いで周りを見渡した。すると、山の斜面沿いに、横穴が空いているのを見つけた。


 横穴の高さは大人が立てるくらい、幅は二人が通れるくらいだった。入り口は綺麗なアーチ状に掘られていて、その上には文字が刻印された金属板が嵌め込まれていたから、きっと誰かが意図して作った場所だったんだろう。けれど、金属板には何が書かれているのかわからなかった。そこには植物が絡まっていたし、なにより暗さが増してきて殆ど見えなかったからだ。


 「ここだぁ、誰かぁ」


 こんな場所、あっただろうか?そう考えていると、また声がした。横穴から反響して聞こえ、間違いなく、中に人がいると分かった。


 「大丈夫ですか?」


 僕は声をかけてみた。まず、相手の状態を知りたかったのだ。


 「あぁ!やっと誰かが来てくれた。すまない、手を貸してくれ。身体を痛めて動けないんだ」


 はっきり聞こえたその声は、若い男のようだった。息遣いからして、弱っている。だが彼を助けるにも、中学生一人では心許ない。


 手伝ってくれる人を探すか。けれど、家まで戻って家族を呼ぼうにも時間がかかるし、車を止めて運転手に助けて貰おうにも、それが次、いつ来るのか分からない。


 他に手は無かった。もしかしたら、待たせているこの時間で、彼の命が左右されるかもしれないのだ。僕は意を決して、真っ暗な横穴に入っていった。

 

 「こっちだ、こっち」


 声を頼りにして進むと、そのうちに音源が近づいてきて、人の手らしきものが触れた。そこまで深い穴でもなく、真っ直ぐの一本道だったのも幸運だったと言える。


 「ありがとう、これでここから移ることができる」


 僕は彼に肩を貸して、そのまま回れ右をして、二人で歩き始めた。


 ……しかし、ここに来て穴の形状が僕の心に疑いをもたらした。そこまで距離が無い、一本道の穴。いくら身体を痛めたといえど、這いずって出ようと思えば簡単に出られるだろう。それに今、彼は肩を掴んで歩けるくらいなのだから、余計に不思議だ。どうして、中から動かなかったのだろうか。それとも、ここから出られない要因が他にあったのか?


 そんな僕の思考は、中断を余儀なくされた。出口へ向かう僕らの耳に、何やらおぞましい音が聞こえてきたのだ。


 穴の奥から聞こえたそれは、知らない音では無かった。誰もが知っている音だ。カサカサ、ブーンと言った、聞き慣れた虫の音。それらが大量に重なって、鳴り響いている。


 一体何匹いるんだ。そう思い、立ち止まって視線を後ろに向けたその隙を、蟲たちは見逃さなかった。それらは敵意を剥き出しにして、一斉にこちらに向かって飛びかかり、襲いかかってきた。


 「あぁ!走れ!食われて死んでしまう!」


 男はそう叫んだが、僕は、"大袈裟だ、確かに大量の虫は気持ち悪いが、死ぬわけはないだろう"と、心のどこかで笑った。確かに沢山の蟲は気持ち悪いが、たかだか虫だ。いざとなれば、踏み潰してしまえばいいだろう。


 けれど、追いついてきた一匹の虫の攻撃が、僕の考えを一変させた。


 「痛い!」


 ほとばしる激痛。僕は思わず、噛まれた箇所を見た。


 血の気が引いた。その虫は僕の左肩に張り付いて、僕の血液をうまそうに啜っている。しかもそれだけでは飽き足らず、噛みちぎった皮膚の下へ潜り込もうとしていたのだ。


 「うわぁ!!」


 僕は叫び、その虫を必死に払い除けた。後ろを再び見ると、奥から次々に蟲が湧いてきている。僕らは走り、転がり出るようにして横穴から飛び出した。理屈は分からないが、奴らは横穴から外には出てこなかった。ナワバリの意識があるのだろうか。


 「助かりましたかね……」

 「なんとか、かな」


 ほっとして、それから僕は男と歩いた。放っておくわけにもいかないから、僕の家まで連れて行こうと思ったのだ。そして歩きながら、どうしてあそこに居たのか、質問をした。


 「どうして、か。いや、特に深い理由があったわけでも無いんだ。何故かあの穴に惹かれてね。それで入るまでは良かったんだが、それから気を失って……」


 丁度、電灯の下に差し掛かったその時だった。男の足が、ぴたりと止まった。何かに、気づいたかのようだった。




 「あ、そうか。思い出したぞ。あそこから出るためだ」


 それは、支離滅裂な答えだった。出るために横穴に入った、それでは理屈が通らない。


 「これでここは終わりだ。ここは終わり……」


 男は、虚に呟いた。その時くらいに、何故かもういなくなったはずの虫の騒めきが、また聞こえ始めもした。粒のように小さい命が、うじゃうじゃと動き回ってぶつかり合い聞こえる、あの不快な音だ。


 「いきなりどうしたんですか?何か変ですけど、大丈夫ですか?」


 男の受け答えのあやふやさと、だんだんとはっきりしてくるその音は、僕を不安にさせていった。さっきの横穴のことがショッキングだったせいで、僕は幻聴が聞こえ、男は気が狂ってしまったのだろうか。これはいけない。僕は男の正気を伺うためにも、彼の顔をしっかりと見つめて喋った。


 灯りに照らされて、それまで見えはしなかった男の顔が、やっと見られた。やはり若く、綺麗な顔をしている。しかし、どことなく気味の悪さがある。はたして、その不和がどこから来ているのか。それを知りたくて、僕は彼の顔を、さらに凝視してしまった。

 


 それが、いけなかった。



 ──男の顔には、蠢くなんて可愛い表現では足りないほどの無数の蟲が、小さい体に巨大な意志を孕んで、もぞもぞと集っていたのだ。何百、何千、何万と、隙間なく。


 そもそも、それを蟲と呼んで良いのかも分からない。人の顔に擬態する蟲なんて、聞いたことがない。


 しかしそれを理解した瞬間には、意外にも嫌悪の感情は出てこなかった。肌色の体を持ったそれらが極小の脳みそを駆使し、各々の持つ羽の、些細な色違いの模様を組み合わせて、完璧な人面を作っている。自分の予想を超えるその事実は、畏敬の念さえ覚えさせる。それほどまでに、それは完成された擬態だった。


 が、そう見えたのは一瞬だけだ。見れば見るほど気色悪く、気持ち悪い。すぐさま我に返ると、僕は叫び声をあげ、男の顔を手で叩こうとした。


 が、地肌に当たるはずだった手は空を切った。代わりに、嫌な感触が手から伝わってくる。


 まず、僕は手のひらを見た。そこには何匹かの蟲がぶつかり、止まっていた。さっきの空振りの手応えは、こいつらだったのだ。そして、次に男の顔を見た。


 その姿に、僕は目を覆いたくなった。信じたくなかったのだ。手が横切ったラインが、そのままぽっかりと裂けてしまっている。そして、裂けた中には、やはり大量の蟲が……。


 それはつまり、僕が男の頭部と認識していた、その全てが蟲で構成された、作り物だったことを意味する。


 まさか!彼の目も、鼻も、耳も、口も、おそらく髪の毛すらも、蟲だったというのか。

 

 "そうだ"と僕をあざけるように、蟲達は擬態をやめ、螺旋状に連なって飛び立っていく。さっきまで頭だったものが、りんごの皮剥きみたいに、見る見る解けていった。その後には、何も残らない。


 飛び立つ彼らの羽音が、微かに人の声に聞こえた。これがまとまって鳴けば、さっきまでの男の声になるように思える。きっと、これだけの知能を持ち合わせる蟲なら、様々な声色を奏でられるのだろう。


 蟲が全て飛び去ると、頭を失ってバランスを保てなくなった身体が、照らされた灯りの、外側に倒れた。けれど残ったそれらを、僕が調べることはなかった。何故なら僕も、その時に気を失ってしまったのだ。



 気がつくと、家のベッドに寝ていた。母曰く、僕の帰りが遅いので、父が無理を押して車を運転し探していたところ、僕が山道に倒れているのを発見し、家へ連れ帰ってきたのだという。


 「目覚めなかったらどうしようと思ったけれど、起きてくれて良かったわ。最初は驚いたけれど、怪我をしたわけではなさそうだし、歩き疲れたんでしょうね。もし、どこか痛ければ病院に連れていくから、ちゃんと言うのよ?」


 そう母は優しく言ってくれたが、僕はそんなことよりも、あの男と蟲がどうなったのか、気になって仕方がなかった。


 だから起き上がってすぐ、僕以外の誰かが倒れていなかったかを父に聞きにいった。しかし、父は熱でだるそうにしながら「お前以外には誰もいなかった」と言って、「感染るから」と、僕を部屋から閉め出した。


 それから、その出来事を家族に話したのだけれど、祖父は「とんだ悪夢を見たものだ」と相手にしなかったし、母は「頭の医者に行ったほうがいいかしら」と別の心配をするだけだから、僕も"あれは夢だったんだな"と割り切ろうとした。


 けれど、話し疲れてベッドに戻った時、シーツの上で一匹の虫が潰れているのを見つけ、背筋が凍った。その虫は僕がまじまじと見た、顔に擬態した、あの虫だったから。


 それから、何度も山道を車で通ることはあったが、横穴を見つけることはなかった。歩いて見つけようかとは何回も思ったが、そう考えるたびにあの羽音が頭をよぎって、その気を無くさせてしまう。


 ──今でも、その出来事は僕の頭を悩ませる。あれが夢じゃなく現実だったなら、蟲達はどこへ行ったのだろうか。あの男の身体はどうして消えたのか。そもそも、あの横穴は何だったのか。


 そして、それについて考えていると、いつも最悪の想像に行きつく。もし、僕が気絶していた時、知らない間に、僕の顔に蟲達が集まっていたとしたら。僕が気づかないだけで、今の僕の頭が全て、蟲へと置き換わっていたら。


 そんなことは無い!無いはずだ。僕は僕だ。これまで、何度もそう言い聞かせてきた。


 それでも、今でもこう言われると、僕は自信を無くしてしまう。


 「顔つきが変わったね」


 だから、これは僕の嫌いな言葉なのだ。これからも一生、変わることは無いだろう。


 だけどもし、僕がこの言葉を聞いて嫌がらなくなっていたら注意して欲しい。その時は、奴らがとしているかもしれないから。


 それは例えば、君の頭に。

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