初めての感情

 朝。乗客全員が満遍なくストレスに襲われる、すし詰め状態の電車内。そこに無表情無感情を突き通す、虚無を体現したような男がいる。


 彼の名は田中太郎。ありきたりな名前の通り、特徴のない顔と格好をした男である。彼は今、勤務する会社へと向かっていた。


 やがて、電車は社の最寄駅に着いた。ドアが開き、人の濁流に揉まれながら、鉄仮面のまま彼は会社へと歩く。そのうち、会社の入り口に着くと、同僚が彼に声をかけた。


 「おはよう。今日は昨日より冷えてきたね」


 それは特段、深い意味を持たない挨拶だったが、これに田中は頭を悩ませた。どう返したものだろうか。この同僚とは何度も顔を合わせているが、毎回どうしても、朝の挨拶には窮してしまう。


 「はあ」


 挨拶の返事にしては、なんとも気の抜けた反応。しかし、これには明確な理由があった。


 実は田中は、感情が恐ろしく希薄なのだ。それゆえ、彼の表情筋は固まりきっているし、それほどに彼の思考回路は、事務的な処理しか行わないのである。


 例えばもし、美人な女性が電話番号のメモ書きを添えたお菓子をくれたとしても、彼の頭はこう思うだけだろう。


 「物を一つ、相手に貰った」


 それが逆の事柄でも変わらない。見知らぬ酔っ払いに頭から酒を浴びせられ、嫌味ったらしく「プレゼント」と吐き捨ててられようとも、彼の頭脳は、先ほどと変わらぬ反応をするだけである。


 「物を一つ、相手に貰った」


 田中太郎という男は、このような性格なのである。だから、同僚に「冷えてきた」と言われても、寒かろうが暑かろうがどちらも苦にしない彼にとっては、果たしてどう反応すればいいか分からなかったのだ。


 一見すれば、愚鈍としか思えないこの男。実際入社したての頃は、彼は何とも使えない社員と思われていた。しかし暫くして、彼の噂を聞いた人事部はその天性の才を生かせる部署へ、彼を配属したのである。


 そこはクレーム処理専門部署だった。この人事は、社内での彼の価値を大きく変えた。


 田中はどんなクレームにも「人が声を出している」以上のことを思わない。だから返事も「はあ」「さようでございますか」と、興味無さげな返答しかしないのだ。さながら手応えのない、柔すぎるクッション。そんな応対が、クレーマーの燃えたぎる言葉を全部いなしてしまう。

 

 それでもどうにか当たり散らかしてやりたいと、クレーマー達はさらに大声で喚く者がいたり、時には脅したてる者もいる。だがそれらも、暖簾に腕押し、ぬかに釘。田中の手にかかれば皆、最後には話す力を無くしてしまって、クレームをやめてしまうのである。


 田中のこの意外な才能を、会社は高く評価し、給与を他の社員の三倍に上げた。以前同じ部署にいた社員は「どうして奴が評価されているのだろう」と首を傾げたが、彼が異動してからのクレーム件数の激減を見ると、彼の仕事っぷりの素晴らしさと、それに対する妥当な報酬に納得せざるを得なくなるのだった。


 しかし田中からすれば、いくら給与を貰っても使い道がなかった。好きの感情が無いから、趣味にも金を使わない。使うとすれば、最低限の生活費と税金の支払い。あとは貯金に回すので、そのうちに彼の貯蓄額は相当なものになっていた。


 その噂が誰かから流れたらしい。ある日、彼が自宅で寝ていると、暗い部屋に窓が割れる音が響いて、黒い影が侵入してきたのである。


 「どちらさまでしょう」

 「動くな、金を出せ」


 寝ぼけた目をこすると、目の前に黒い覆面を被ったがっしりとした男が、刃物をこちらに突きつけてきていた。


 「はあ」


 これは世間一般でいう、強盗とやらか。田中は恐怖も感じないから、客観的にそう認識して、とりあえず侵入者の指示に従う。


 「で、金はどこだ」

 「銀行にありますが」

 「なら銀行の通帳があるはずだ」

 「ええ、あります」

 「ではそれはどこだ」

 「棚の二段目に入ってます」


 田中としては、貯めた金にも未練を持たないのでスラスラと場所を教える。彼としては、この侵入者の男の要求を断る理由もないのだ。


 だが、男からすればそうではない。通帳を見つけ中の額を確かめると、何故こいつはこれだけ金が入っている通帳を簡単に渡したのかと、考え始めたのである。


 「(刃物を持っているとはいえ、自分は棚の方を向いているから、こいつは自由に動ける。飛びかかってきてもいいはずだ。何故そうしない?俺が力がありそうだから諦めたのか?しかし、ヤツの顔には恐怖や焦りなんて表情が、感じられないぞ)」


 そのまま何も考えなければ良かったのに、下手に頭が働くせいで、強盗は固まってしまった。何か、ヤツには秘策があるんじゃなかろうか。突如出てきたあるはずのない可能性が、心を揺さぶる。


 「どうかしましたか」

 「い、いや」


 棚を漁ってから止まりっぱなしの様子を見て、田中は声をかけた。それは理由も意味も持たない、真に何もない言葉だったのだが、強盗にしてみれば、これほどに驚異を感じるものはなかった。


 「一つ聞くぞ」

 「はあ」

 「俺は金を盗むぞ、いいのか」


 変な質問ではあるが、強盗は追い詰められていたのだ。もはや彼の目には、田中が常人でなく見えている。もしやこいつは、警察や、それに関係する人間ではないか。きっと、そうに違いない。金がどこそこにある、と噂を流しておいて、入ってきた犯罪者を捕まえようとしているんだ。


 強盗の質問は、そんな猜疑心が事実であると確証を得るための、最後の手段だったのである。


 「さようでございますか」


 これに、田中は普段と何一つ変わらぬ返事をした。それ以外の答えを持ち合わせて無かった、とも言えた。が、強盗にとって、その丁寧すぎる言葉遣いと平坦すぎる抑揚、そして微塵も動揺していない表情は、仮説を立証するのに十二分の材料となり、同時に強大な焦燥感を与えたのであった。


 「くそっ、罠か!」


 そう結論に至った男は、割った窓から飛び出した。焦っているから、窓枠に足を引っかけ転び、持っていた通帳も落とす。


 「あの、落としましたよ」

 「ちっ!誰が取りに戻るか!」


 通帳が欲しかったのではないか。田中は男の慌てぶりを不思議に思いながら彼を追いかけたが、強盗の方が逃げ足は早い。


 やがて彼を見失うと、田中は割れた窓から部屋に戻った。一体、あの男は何がしたかったのか。


 分からない。分からないが──


 「ああいった感情に富む人こそ、最も人間らしい、模範的な人物なのだろう」


 そう言って、この無感情人間は人生で初の羨みを覚えたが、それよりも寝なければと、部屋に落ちたガラス片も、窓から吹く冷たい夜風も気にせず簡素なベッドに横たわった。


 布団の中、田中は担当するクレーマー達も、日々感情的になっていることを思い出した。ということは、彼らも模範的な人間であるのか。


 そうすると、自分が部署を移ってからクレームが少なくなったというのは、良いことではないのかもしれない。これはつまり、人間の手本を減らしてしまっているわけになるのだから。


 羨みの感情を覚えて、頭どこかで回路が作動したのか。これまで考えたことのない不安や後悔が、田中の心を縦横無尽に走り回った。


 彼は今宵何度目かの、生涯初の経験をした。朝になるまで一睡も出来ずに過ごしたのである。


 日が昇り、翌る日の出社時間。会社に着くなり、田中は辞表を提出した。突如の申し出に、上司、いや社内全体が驚いた。


 「どうしたんだね、田中くん。君が辞めるなんて……」

 「すみません、私はもう駄目です。感情が湧いて出てきてしまった。これまでの自分の行いが、堪らなく恥ずかしくなってしまったのです。これからはもっと人間らしく、自由に生きていくために一度人生をリセットしようと思い立ったのです」


 会社としては、辞めようとする者を無理に止めれはしなかった。それに感情が無いのを買っていたのに、それが戻ったのなら、田中の価値はもう無くなってしまった。引き止めたところで、働きは他の社員と一緒、経験の差からすればそれ以下だろう。


 そういった議論が上役会議で交わされ、田中の退職は問題なく受理されることとなった。田中も田中で暮らしていけるだけの貯金はあるから、明るい顔で会社を出ていく。


 「それにしても、あいつはこの後、何をするんだろうなぁ」


 彼がいなくなった社内では、その話が持ちきりになった。しかし、その答えもすぐに分かるだろう。


 何故なら田中太郎は、模範的人間を見習い、そこに生きがいを見つけたのだから。つまり彼は、意気揚々と会社に電話し、感情的にクレームを入れる、悪質クレーマーへと変貌したのである……。

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