自分の日

 それに彼が気づいたのは、小学生の時だった。


 部屋の中、テレビの斜め上に位置する壁掛けカレンダー。ふとそれを見ると、三十個の区切られた数字のうち、一箇所に丸印がつけてあったのだ。しかしその日は平日で、彼の記憶では特別な行事がある覚えもなかった。

 

 「お母さん、この日は何かあるの?」

 

 彼は母親に丸の意味を聞いた。こういった印がある日は大抵、何かしらの用事を控えていると知っていたから、母からの答えもそれらの予測にあたると思っていた。


 しかしながら、それは見事に外れたのである。

 

 「いいえ?その日は特に予定もないわよ?」


 なんと、何もないと言われたのだ。ならば何故、印を付けているのだろうか。


 「じゃ、どうして丸をつけているの?」


 印でカレンダーの余白を埋めるのなら、そこには何か意味が発生してなければおかしくなかろうか。彼の思考は至極真っ当なプロセスを得て、新たな疑問を弾き出した。

 

 「どうしてって……そういう物だからよ。誰でも、毎月どこかに自分の日があって、そこに印をつけるのよ」


 が、母には当然のことに疑問を呈す、我が子が異常に見えたらしい。「うちの子、大丈夫かしら」そう言いたげな顔をしている。母親だけではない。一緒にテーブルを囲んでいた父親も、怪訝な表情で息子を見ている。


 これは、知っていないと恥ずべきことだったのか。彼は肩をすぼめ、これ以上の追求をやめた。印に対する興味は依然あるが、さらに無知をさらけ出せば今度は叱られそうで、それが嫌だったのだ。


 そんな彼の窮屈さを見抜いたのか、父親は「そうだ」と気づいたようにカレンダーを指し、優しい声色で息子に言った。


 「お前もそろそろ、日を決めていい歳だな。自分の部屋にもカレンダーが置いてあるだろう?好きな日にちを決めて、毎月そこに印をつけておきなさい」


 「はい」と答えはしたものの、やる意味が分からないから、どう決めればいいかも分からない。分からないから、決め方は適当になる。リビングから自分の部屋に戻った彼は、数秒、日付とにらみ合い、結局「最終日でいいか」と短絡的理由で、"三十"と数字が書かれた下に星印を付けたのであった。


 その日は終わって、翌日。彼は学校で、それぞれの友人たちに「自分の日」があるのかを聞いて回った。こんな風習を今まで知らなかったのは、我が家にだけ伝わる事柄だったからではないかと、疑いを持ったからだ。

 

 「もちろん、持っているよ。僕の場合は毎月十五日だ」

 「私、持っているけど、何日かは秘密にしてるの。だってその方が、自分だけの日って感じがしていいでしょ?」

 「自分の日は、誰でも持っているものだろ?なんでそんなこと聞くんだい?」


 その疑惑も、粉砕された。友人たちは皆、自分の日を持っていたし、この常識を遥か前から知っているようだった。となるとやはり彼が、これまでカレンダーを気にしないで生きてきたのが問題だったらしい。


 (危なかった。もし昨日、この存在を知ることができなければ、自分は周りより一つ知識を欠かしたまま生きていくところだった。けれど昨日、やっと「自分の日」を持てたから、皆に置いてかれずに済むんだ)


 これが彼が「自分の日」を持ち、初めて受けた恩恵であった。周りとの歩調を合わせることができたのである。


 もちろん、「自分の日」の恩恵はこれだけで終わりはしなかった。それは彼の人生の歩みと共に、様々な作用をもたらした。


 例えば、勉強。彼は「自分の日」が来るたびに、その月に学んだことをノートにまとめるようになった。「自分の日」は自分にしかない特別な日だが、かと言って何かが定まっている日ではない。しかし逆に言えば、そこにどんな予定を入れてもよいのだから、彼は自分にとって有用なことを取り入れたのである。


 それに、もしそれをやり忘れたとしても元から何もない日なので、これといって何か問題がでるわけでもない。それでも勉強の時間を作る意識ができたことによって、彼は自分の人生が、少し豊かになった気がした。


 また「自分の日」は周期がちょうど良かった。祝日やら何やらは年に一度だけ、物によっては場所も第二何曜日とか言って、毎年の日付も変わってしまう。けれど「自分の日」は毎月一回、必ず同じ数字で表れる。その日が平日でも休日でも祝日でも、変わりなくそこに居てくれる。それは彼の心に、多大な安心感を与えてくれた。


 彼が成長し働くようになると、「自分の日」は「給料を使ってよい日」となった。適当に決めてしまった三十日という日付けであるが、給料日が二十五日の会社に入ったのが良かった。人は給料が入ると、無性に使いたくなってしまう。しかし、彼は自分の日までグッと堪えるのである。給料日から自分の日までの、この五日のインターバルが効くのだ。するとどうだ、給料振り込み当日よりも購買意欲は抑えられ、無駄遣いをせずに買い物ができるのである。無論、我慢できずに自分の日より前に使ってしまうこともある。けれど、それはそれで仕方ないことなのだ。自分の日は絶対ではない。軽い目標の気持ちでいいのである。


 こういった考えを毎月持つから、彼の心には、次第に余裕が出てくる。「絶対でなくともよい」そう思えるから、仕事でミスをしても、「自分は絶対ではないからしょうがない」と思えて、へこたれる事もなく、次のことに目を向けられた。そうなれば作業効率も上がって、昇進の話も出るようになってくるのだった。


 やがて、恋人もできた。二人とも社会人だったので、デートの日をいつにするか、そういった擦り合わせが必要だったけれども、それらもお互いの自分の日からちょうど間になる日、とすればすぐに決められた。


 これらも、自分の日があればこその決め方だ。もしデートがどちらかの都合で駄目になっても、元から意味のない日から割り出した、意味のない予定日なのだから、関係にヒビも入らず、ストレスも残らず、これはとても合理的な方法と言えた。


 そして彼らは結婚をした。結婚式は相談の結果、相手の「自分の日」となった。二人のどちらかの自分の日なら、毎月カレンダーで目について、年に一回の行事だろうと忘れることもない。


 ここまで来ると、彼が子供の頃に抱いた「何故意味もない日に印をつけるのか」なんて疑問は、もはや馬鹿馬鹿しいものとなっていた。


 たしかに、その日自体には何の意味もない。けれど、「自分の日」は自分を理知的にさせ、心を裕福にさせ、恋人との関係を築き上げてくれた。きっと自分の日を持っていなければ、こんなに上手く生きられなかっただろう。給料日に節制をせず、仕事の失敗にイラつき、彼女とも口喧嘩の日々……。彼はもう、「自分の日」が無い人生は考えられなくなっていた。


 彼はその後も自分の日を基準に、様々なことをこなしていった。大事な取引の資料は、自分の日までに完璧にまとめる。妻の誕生日は、あの月の彼女の日から何日後、自分の日の何日前だから、それまでに誕生日プレゼントを買っておくこと。子供の出産予定日を忘れないよう、自分の日から何日後と覚えておく。ほどなく娘が産まれ、二人で子育て。それぞれの自分の日は赤ちゃんの世話を相手に任せてもいい日……。

 

 全部が全部、その通りいくわけではない。しかしそれでも、自分の日のおかげで、幸せな人生と言って差し支え無いほどに満たされていた。そのうち子供も大きくなり、不思議がりながらも自分の日を持つようになって、すくすくと成長し、大人になる。自分達は子育てが終わり、いつしかかわいい孫も出来た。

 

 彼はそのうち、大病を患った。それは高齢のせいもあったのだろう。医者からは入院を命じられた。


 妻が病室の外で担当医と小声で話すのを見ると、事態はよろしくないと察せられる。しかしどんな状況だろうと、彼には心強い味方がある。

 

 そう、自分の日だ。自分の日は、どんな時も力をくれる。事実、今も彼は、その日を目標に生きようとしていた。そうすれば一ヶ月は生き延びれる。一ヶ月経てば、次の目標が一ヶ月後に迫る。一ヶ月なら、何とか頑張れる気がする。


 こう考え、彼は病室のカレンダーを見た。自分の日に、あの星印を書き込もうとしたのだ。


 だが、この作戦には致命的な欠陥があった。


 「あぁっ!」


 今月は、二月だったのである。彼の「自分の日」は、三十日。二月に、その数字はない。日付は非情にも、"二十八"で途切れている。そして、今はまだ月初め。来月の自分の日までは、かなり遠い。


 この出来事は、病気で弱った心にさらなる追い討ちを与えた。彼は朝顔のツルのように巻き付いていた精神の支柱が何者かに引っこ抜かれた気分になった。どうにか気を立て直そうにも、すがれるものが無いのだ。


 そして数日後、彼は亡くなってしまった。彼の「自分の日」を頼りにした実りある人生は、こうしてあっけなく終わりを迎えたのである。


 彼との死別を一通り悲しんだ後、残された妻と娘は、葬式をいつ行うかを話し合っていた。


 「──で、お葬式の日にちはいつにしましょうか。私とあなたの、自分の日から近い方がいいわよね?」

 「あ、待ってお母さん。あたし自分の日が二十九日で、今月にはないのよ。だから、来月まで待ってくれない?」

 「あら、そうなの?分かったわ。ごめんね、お父さん。来月まで火葬は待ってね。でもあなたも、『自分の日』の大切さは知っているでしょうから、許してくれるわよね?」

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