メノツギ

 ある日、どこにでもあるような一軒家で、男が来客を待ちかねていた。

 彼が「婦人会の仲間でここの休みは出かけるから」と、妻に留守と子守りを頼まれたのが先週のこと。なるほど、向こうがその日に羽を伸ばすのならば、夫の自分もちょいとばかし騒いでも良いはずだと、決して口に出さない屁理屈を立てて、男は今日、旧友二人との宅飲みを企画したのである。


 太陽が頂点から傾き始めたころ、ついにインターホンが鳴って、モニターに懐かしい顔が現れた。二人のうち一方はビールのパックを抱え、もう一方はコンビニのビニール袋を掲げている。きっとあの中には、見慣れたツマミ達がわんさかと入っているのだろう。


 「やあやあ、よく来たね。さ、上がってくれたまえ」


 男は彼らと過ごした青春時代の香りを思い出しながら、にこやかに玄関を開けた。彼らの想いも同じだったようで、


 「よぉ、元気だったか」

 「歳をとったなぁ、おい」


 と、久しぶりの再会を喜びあった。そしてそれもほどほどにすると、早く酒盛りの準備に取り掛かろうとドタバタと部屋に上がり込んでいったのである。居間で大人しく絵本を読んでいた家主の息子は、いきなりの来訪者にしばらく驚いていたが、それが父の友人と理解すると、たどたどしく


 「こんにちは」


と挨拶をした。


 「おや、お前さんの子供かい。しっかりしてるね。おじさん達がうるさくてごめんね」

 「こんにちは、お邪魔するね坊や」


 幼い子というのは可愛らしいものである。彼らはその姿にほだされて、これでお菓子でもお食べと、いくらかの小遣いを渡した。すると子供も単純だから、お金をくれるのはいい人だと安心し、ペコリと頭を下げ、貰った小銭を貯金箱にしまって、また元の位置に座って本を読み出した。


 「かわいいねえ、一人っ子だったっけ?」

 「いや、もう一人上にいて、そいつは今友達の所で遊んでいるよ」

 「うへえ、なら上の子の分も後で小遣い上げなきゃならんのか。財布が空になっちまうよ」

 「そんなこと言って、実はたんまり持ってんじゃないの?」

 「いやいや、嫁に財布を握られてるからさ」

 「どこの家も、結婚すると奥さんの尻に敷かれるもんだな」


 彼らは軽口を言い合いながら、スルメやナッツを机に出し終えると、やっと椅子に腰を落ち着けて、いざ再会を祝してと乾杯し、飲み会を始めたのである。


 それから彼らは、酒の肴にと他愛の無い話で盛り上がった。最近のニュース、家庭での出来事、身内の不幸……。その中で話題は自然と、各々の職の話へと変わっていった。


 「そういえば君達は今、何の仕事をしてるんだっけね」


 職の話に最初に触れたのは家主の男であった。彼がおどけた口調でこう聞くと、左向かいに座っていた一人が飲みかけの缶ビールを一旦テーブルへ置き、返答をした。


 「僕は今、鉄道員さ。と言っても車掌みたいな花形じゃなくて、線路周りの環境を整備する工事員なんだけどね。結構大変でさ、やれあっちの木は電車が通るのに邪魔だから切れと言われて切りゃ、やれその木は線路側の家の日除けになるから切らずにおいてくれ、そこの草は取れ、いやそこのは景観を乱してしまうから取るな……全く嫌んなるよ」

 「ははあ、それは大変だね」


 家主はこれに、同情をしてみせた。そしてそれが話し終えたと思うと、今度は右向かいのもう一人が、手に持った本日三本目の缶をぐいっと飲み干し、口を開いた。


 「私は勉学に自分の道を見出して、ある大学で准教授をやってるんだけど、これまた厄介でね。教授にまでなってしまえば、コレはここに出しといてくれ、コレはこういう研究を続けてくれと人を使えるのだが、准教授というのは逆で、教授にこき使われる立場だ。しかもその中で教授になるために自分の研究もしなきゃいけないのに、肝心な時になると呼び出されて用事を押し付けられて……ストレスが溜まるよ」

 「そりゃまた、苦労してるね」


 酒が入っているせいもあって、二人とも職の紹介と共に不満が出てきた。男はそれとなく聞き流し、適当な相槌を打っていたが、それが続くと、何だか自分も、溜まっているものを吐き出したくなってくる。


 「で、そういう君はどうなんだい?」


 ようし来た。俺の番だ。彼らに触発され溜まった、不平不満のガスをやっと抜けるとあって、家主は意気揚々と、自分の仕事に対する愚痴を語りだした。


 「俺はしがないセールスマンだよ。月毎にノルマがあって、さあ今月は何個の契約を取り付けるんだと毎日毎日外回り。しかし今のご時世じゃ、テレビの通販で間に合ってるとか、ネットショッピングしかしないとか、そもそも居留守を使われるとかで誰も話を聞きゃしない。どうにかしてようやく話を取り付けてもノルマと比べりゃ雀の涙。終いには身内に格安で売って、何とか数を誤魔化す。けれどそれでは会社の売り上げが伸びないと、次の月はノルマがさらに上がる。それでまたひいひい言って……はぁ、辛い世の中だ」


 彼は二人と同じように仕事への不条理を溢した。と言っても、彼としては言葉を出した時点でガス抜きは終えていたので、旧友達にはいい加減な返事を貰えればよかった。が、しかし。


 「いや、でもそれはセールスマンとして働いている以上、しょうがないことなんじゃないか」

 「確かにな、それは我慢するしかないだろう」


 と想定外にも、苦言を呈されてしまったのである。

 何だこいつらは。俺はお前らの愚痴に同意してやったのに、自分らが聞く側に回ると、そんな口を聞くのか。こうなると、なんだか面白くない。

 酔いの回り具合と比例して気が大きくなった彼は、新たに生まれた不満を、嫌味の色を付けて口に出した。


 「おいおい、そんなことを言ったら君達の愚痴だって、その職だからしょうがない、で終わっちまうぜ。例えば俺は上司に度々、都合よく使われるが、そこに文句を持っちゃいない。学者さんは頭が固く、心は繊細で弱っちいから、そこが我慢ならないようで、鉄道屋もそのに反して、草木がどうこうと、小っちゃなものに困っているみたいだがね」


 こんなことをセールスマンが言えば、今度は准教授が黙っちゃいなかった。


 「なんだと!学者というのは君らみたいな低俗な職業よりも何倍もストレスがかかるんだぞ」


 が、こちらも口を滑らせた。家主の発言に怒らず、宥めようとしていた鉄道員も巻き込み、「君らみたいな低俗な職業」と言ってしまった。こうなれば、最後の一人も黙ってはいられない。


 「なに?低俗だって!?僕らがいなけりゃ、お宅らがいつも使ってる電車は止まるかもしれんのに、その言い草はなんだい!それに耐えてたけれど、もうこうなったら言うぞ、誰がガタイだけだと!?」


 さっきまで平和だった飲み会は、一瞬にして険悪なムードへと変わり、まさに一触即発の雰囲気となった。このままでは、殴り合いも辞さなくなるだろう。

 けれども、そうはならなかった。この雰囲気を変える存在が割って入ってきたのだ。居間にいた、家主の子供だ。彼が、何やら本を持ち近くに来ていたのだが、三人の大声に驚いて立ち止まっていたのである。


 「お父さんたち、どうしたの」


 泣き出しそうなその声に、大人達はハッとした。まずい、子供にこんな身勝手な怒りを見せてはいけない。三人はアイコンタクトを取り、一時休戦をして、表面上の笑顔を取り繕った。


 「何でもないよ。何か用かい?」

 「うん、実は教えてもらいたいことがあって……」


 それは元から質問したかったのか、子供なりに気を使って場を和ませようとしたのか、男児はこんな質問を投げかけた。


 「新しい本を読んでたらね、分からない言葉が出てきたの」

 「なんて言葉だい?」

 「あのね、"メノツギ"って言葉」


 その聞き慣れない単語に、三人は困惑の表情を浮かべた。しかしそれが自分だけでなく、残る二人も分かっていないようだと分かると、彼らは揃って、こんな考えを起こしたのである。


 (どうやら顔を見るに、他の二人も言葉の意味を分かっていないようだ。ここは一つ、坊やに答えを教えてやって、頭の違いってものを見せてやる)


 三人とも誰が言ったわけでもないのに、それぞれがそれぞれの職の誇りをかけ、躍起になって言葉の意味を教えようとした。


 「いいかい、坊や。鉄道のおじちゃんが教えてあげよう。"メノツギ"って言うのはね…」


 初手を取ったのは鉄道員であった。セールスマンと准教授は、後手に回ったことを後悔したが、無意味なスポーツマン精神に則り、彼の説明を遮らないようにと口をガンとして塞ぎ、聞きに徹するのであった。


 「メノツギは、新しい駅の名前だよ。ほら、"○○下"とか、"○○上"とかの駅名があるだろう?これらはそれぞれの場所や位置の関係によって名前の後ろに上や下が付くわけだ。だからメノツギっていうのもきっと、メノマエって駅があって、その次に作られた駅なんだよ」


 なかなか筋の通った見解だ。沈黙を続けている観戦者二名は、彼の答えに舌を巻いた。もしかして、これは初手で決まってしまったか。

 だが、そうは問屋が卸さなかった。坊やが首を振ったのだ。


 「うーん、なんだか違う気がするなぁ。だって、この本は恐竜の図鑑なんだもの。どうしてそんな本に、新しい駅名が出てくるの?」


 これに、鉄道員は答えることが出来なかった。咄嗟に"メノツギ"を駅名だと思いついたわけだが、どうやっても、古代の生物と駅とを繋げることができない。それに、もしどうにか繋げたとしても、そもそも新たな駅ができるなんて話を、一般人よりも情報が早い鉄道業界に身を置く、自分ですら聞いていないのだ。彼は、この説を押し通す限界を悟った。


 「おいおい、そんな駅はないだろうよ。坊や、あんな適当な説明を信じちゃいけないよ。学者の私が教えよう。"メノツギ"とは…」


 彼の答えあぐねる姿を、鋭く見逃さなかったのは准教授だった。この学者は表情にはおくびに出さずも、内心は鉄道員の説明が失敗に終わったことに安堵していた。

 私は、こいつらより頭の内部構造が一番良いはずなのだ。将来、教授まで登り詰める者が、子供の疑問に答えられないなど、あってはならない。他業種に越されるのも、もってのほかなのだ。

 と、学者の勝手でくだらない自負心は、彼の頭を回転させ、彼の口から第二の答えを、流れるように放たせた。


 「メノツギとは、新種の恐竜の名前だろう。きっとその新種を発見した博士がメノツギさんという名前で、自分の手柄を誇りたいがために、自分と同じ名前を恐竜に付けたんだろうね」


 あの本が恐竜図鑑であるという情報を頼りに立てた、一部の隙も無い推論だった。学者の説明を聞き終えた傍観者二人は、これは当たったかと、苦々しい顔でお互いの顔を見合わせた。

 が、またしてもこの完璧と思えた答弁に、子供の無垢で鋭く、残酷な質問が飛んだ。


 「えぇ?これが恐竜の名前?それは変だよ。だって新しい恐竜なら、もっと大きく図鑑に載るはずなのに、これはそんなに大きくなくて、一箇所にしか書いてないよ。それに恐竜って、なんとかサウルスとか、なんちゃらドンとかが最後に付くものなのに、急にそれが"メノツギ"だけなんて、なんだかおかしいよ」


 実際、准教授の頭脳は他の二人と比べれば優れていたので、この反論に最もらしい嘘を吐いて、誤魔化すことも容易にできた。だが、勝手くだらない学者の意地が、それを許しはしなかった。学問の道を志す者として、自分への質問には、どこまでも誠実に答弁しなくてはならないのだ。彼は自分の考えが小さき針の一突きで崩れさったと、認めるしかなかった。

 沈黙が准教授の間違いを報せ、それに口元を弛ませたのは、後手後手に回っていたセールスマン、つまりは家主の男だった。「息子よ、よくぞ憎き二人を倒し、父の無念を晴らしてくれた」男はこう言って、子を抱きしめようかと思った。しかし、そんなことをして、「親子で結託し、我々を貶めようとしたのではないか」と余計な疑いをかけられてもつまらない。ここは"メノツギ"とやらを嘘でもいいから説明して、その後に勝ち誇るべきだろう。

 日常的に行うセールストークで、悪意は無くとも都合の良い嘘をつき慣れたセールスマンには、学者と違って、嘘への抵抗感がなかった。


 「いいか、お父さんが教えてやろう。"メノツギ"ってのはな、人の名前だよ」

 「人の名前?」

 「そうさ。さっき、この准教授のおっちゃんが言ったみたいに、博士か何かだろうけど、恐竜に名前をつけたんじゃなくて、その図鑑を作るのに参加した人なのさ。だから大きくも書かれないし、一箇所にしか書かれていない。どうだ、納得できただろ?」


 好奇心旺盛な男児は、父の言葉に目をぱちくりとさせ、一度図鑑に目を落とした。そしてちょっと首を傾げたあと、この答えに持ち合わせる疑問がないのを確認したようで、「そういうことだったんだね!」と、声をあげた。


 やっと疑問が解け喜ぶ彼の姿とは対照的に、ガックリと肩を落としたのが鉄道員と准教授の二名である。彼らは自分の職へのプライドが、失われたように錯覚した。そしてセールスマンは、そんな彼らを肴にして、勝利の美酒を飲もうとしていた。


 その時。ガチャリと音がして、玄関が開いた。


 「ただいま」


 声の主は長男であった。兄の帰りに、弟は嬉しさに満ちた返答をした。


 「おかえり、兄ちゃん!今日はね、お父さんのお友達が来ているんだよ!」

 「本当だ。どうも、はじめまして。ところで、お前はとても嬉しそうだね、どうしたんだい?」

 「うん。この本の、分からない言葉を教えてもらったんだ。鉄道のおじさんと、学者のおじさんと、お父さんがみんな、考えに考えて教えてくれたんだよ」

 「ふーん、どれどれ……」

 「ここだよ、この、"メノツギ"ってやつだよ」


 長男は弟の持つ図鑑を取って、その言葉に目を通した。すると、笑って弟を叱ったのである。


 「あはは、お前はまだ漢字が読めないからね。これは"メノツギ"ではなく、目次もくじと言って、本のどこに何が書いてあるかの目処を書いてあるんだよ。

 全く、こんな簡単なことを、彼らに尋ねちゃいけないよ。彼らはそれぞれ立派な職につく、素晴らしい大人達なのだから」


 長男の言葉に、彼らは恥ずかしさでうつむいた。そして今までのことを、酒を呑んで忘れようとしたのだが、その酒はどうも苦すぎて、酔いは覚めるばかりであった。

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