バーチャル・リアリティ

 今日も空は真っ暗で、天気さえも分からない。マンションの一室から見えるその景色を、男はじっと見つめていた。


 「どうしたの、外なんか見て」

 「いや、昔の人は、青い空というのがここから見えていたのだろうな、と思って」

 「随分とノスタルジーに浸っていたのね」


 男は、若い女性と談笑をしていた。いや、それを談笑と呼んで良いものだろうか。会話の最中、彼の口は微動だにせず、表情も全く変わらない。その身体は張り付けられたかのように椅子に固定されていて、部屋全体に取り付けられた、全自動家事装置から時折発せられる人工的な青い光は、男の不健康な白すぎる肌を照らしていた。


 彼のうなじには拳の大きさほどある端子が取り付けられていて、そこには太いケーブルが差し込まれている。このケーブルは、彼の思考を巨大なネットワークへ送り込んで、テレパシーのような思考会話を可能にしてくれる。これにより肉体での会話は過去の物になったし、また、目にかけられた分厚いゴーグルが見たいものだけを映し出してくれるから、全人類の視力は落ち、視野も軒並み狭くなっていった。百年前には自動分娩後の、赤子への端子・ケーブル・ゴーグル取り付けも全世界で義務となったので、今はもうどこにも、これらをつけていない人間はいない。それを示すように、どこの家庭へも膨大な電力を届けるため、電線の増設が繰り返されて、いつの日か空は黒い血管に覆われて、陽の光も通さなくなった。


 「それよりも、今日のディナーはどうしましょう」

 「久しぶりに、外で中華とかはどうだい」

 「それはいい考えね。じゃあ、どこに行きましょうか」


 そう思考で会話をすると、ゴーグルが機能して、彼の目前には仮想の中華街が広がった。周りには彼ら二人以外にも、何人かの人々が食事を楽しんだり、散策する様子が見えた。


 「あそこのお店なんかどうだい」

 「美味しそうね、そこにしましょう」


 店に入り、テーブルに座るとメニュー表が宙に浮かんで見える。それを一通りスクロールし、目ぼしいものを見つけ注文すると、ものの数秒で料理が出てきた。


 「いただきます」


 いまだ変わらぬ食事の挨拶を呟き、彼はそれを食べようとする。すると、その画像イメージに合わせて、自動家事装置が食感を再現し栄養素を整えた、無味無臭の薄茶色の物体を用意し、現実の彼の口に運ぶのだ。それが口に入った瞬間、ケーブルは微弱な電流を流し、脳中枢と嗅覚、味覚に電気信号を送り錯覚起こさせ、極上の中華の味を作り出すのだった。


 「うん、おいしい」

 「ホントね」


 彼女の屈託のない笑顔に、男も虚像の笑みで返す。そうして何処だろうと変わらぬ最上級の味を堪能し終えると、彼らは食後の予定について会話を交わした。


 「私、公園に行きたいわ」

 「いいね、行こうか」

 「できれば二人っきりで静かなところへ……」

 「分かった」


 そう言って、彼らが店を出ると周りの景色は一変し、夜の公園へと姿を変える。そこに喧騒はなく、彼ら以外の人間は存在しない。心地よい夜風が吹き、ゆったりとした時間が流れている。


 「あそこにベンチがあるよ、座ろうか」

 「いいわね」


 二人は座ると、若い男女らしく夢を語らい、時にふざけあい、時には真面目な顔で話し合った。

 そして最後に二人は軽く口付けあった。もちろん、部屋の中では全自動家具装置が作動し、人肌に温められたシリコンが、映像で唇が触れるのに合わせて、彼の口についたり、離れたりしている。


 「それじゃ、そろそろ帰ろうか」

 「もうそんな時間なのね」


 デートを終え、帰宅の意を示すとゴーグルが作動し、仮想空間は崩れ、視界は見慣れた、窮屈で無機質な部屋へと戻る。

 今日は、もう他にやることも無い。男は機械に身を任せ、風呂や歯磨き、寝巻きへの着替えを自動で済ますと、彼女へ「おやすみ」と伝えた。

 それに応え完璧な、優しい微笑みで「おやすみ」と返事が返ってくると、男の思考から作られた、実在しない彼女はゴーグルから姿を消し、また電源が入れられるまでの間、眠りにつくのである。


 男は寝る直前、あの中華街にいた人々の内、はたして何人が実在するのか気になった。だが、仮想も現実も同じ意味を持つ今の時代に生きる、彼の狭い視野では、その人数すらも正確に数えられないのであった。

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