6 題「ガラス玉」「泉」「戦」

 ぶくぶくと泡を立てながら沈んでいくのが分かる。やけに明るいと思った。一瞬ずつ、僕が現実世界という水面から切り離されていく感覚。泡だけが生きた世界へと向かう。水の重さに身を任せていると、背中が底についた。ああ、ここで僕は死ぬんだな、と確信する。何故だか呼吸をしなくても苦しくない。

 背中いっぱいに触れるガラス玉のようなものに気がつく。なんとなく地面をつかんでみると、それは大量のガラス玉で彩られた半透明な水底だった。玉同士がぶつかってザラザラと水中特有の鈍い音を響かせる。その小気味悪い音は僕の口から溢れる泡を追い越して水面へ近づいていくようだった。しかし、決してそれが世界へ還ることはない。

 ふと目を横に流すと、一匹のカエルが僕に近づいてくるのが分かった。しかし、奇妙な事にそのカエルは地上にいるときのように元気にガラス玉の上を跳ねている。足を広げて泳いだりはしないのだろうか。そういうカエルもいるのか。

「泳げないんですよ」

 僕の視線を察したかのようにカエルは語り掛ける。「昔っから。練習はしたんですけどね、もちろん」

「君はそれで仲間外れになることはないのかい?」

「もちろん。でも、そんなの本当の仲間なんて言いませんよ」

「たしかにそうかもしれない」

「第一、この泉にいるのもあたしだけです」

「寂しくはない?」

「時々、こうして貴方みたいな死に損ないの人間がやってきますから」

 カエルは照れくさそうにして足元のガラス玉をもてあそぶ。僕はその器用に動く両足を見ながら、どうしてあれだけ細かい動きができるのに泳げないんだろう、と不思議に思った。

「綺麗でしょう、これ」

 カエルはそう言ってガラス玉を二つほど私の眼前に投げる。ガラス玉はゆったりと弧を描き、再び底について死ぬ。「全部あたしが作ったんです」

「全部?」僕はちょこっと首をひねって泉の底全体を見まわす。「それはすごい。君の身体の大きさなら、ピラミッドを作るくらい大変だったろう」

「いえいえ、仕事みたいなものですから」

「職人技だね」と私が言った途端、カエルは私の指先から爪を剝いでいく。手際よく十個の爪を集めて、カエルは「良い爪ですね」と遠慮がちに笑う。

「そういうことは、一応本人の確認を取った方がいいと思うけど」

「はい? はあ、でも、あなたもうすぐ死んじゃうでしょ」

「それはそうだけどさ」

「死人に口なしですよ」

「それはもっとも。だけどまだ死んでない」

「いや、もう死んでますよ」とカエルは足の爪を剥がしながら淡々と言う。「そうですね。皿に残ったパスタソースみたいにちっぽけな命の残骸です。出涸らしなんですよ」

「ならまだ生きてるじゃないか」

「あなたはパスタソースしか残ってない皿を見てパスタだと言い張りますか? それはサラダだったかもしれないのに?」

 僕はカエルに何も言い返すことができずに、ただ足の爪が剥がれていく感触を感じていた。口から溢れるあぶくが揺ら揺らと水中を上っていく。木漏れ日が差す水面に虫や鳥が生命を分け与えられていることを想像する。

 カエルは計二十個の爪を集めて、私に礼を言う。それを何に使うのか、と僕が問うとカエルは不思議そうに首をひねった。否、僕にそう見えただけで、実際にカエルが首をひねったからどうかは分からない。彼の首はあまりに短すぎる。

「ガラス玉にするんです」

 カエルはつぶやいた。「どれも同じガラス玉に見えると思いますがね、よおく見ると色とか、大きさとか、模様とか、ちょっとずつ違うでしょ。特に模様なんて」

 カエルはそう言って僕の眼前にいくつかのガラス玉を持ってくる。

「これは爪です。ほら、模様が若干、丸っこいでしょ? あたしはこの楕円が好きなんですよ。他にも、これは眼球です。眼球は綺麗な模様を写すのが難しいんですが、うまくいったときは何よりも嬉しいな。こっちの小さいのは髪から作るんだけど……、あなたの髪はお綺麗だから美しいガラス玉になる」

「それは嬉しい」と私は言う。そして私の背中に広がる人間の残骸たちから、ほんの少し温かみを感じるような気がした。「君は良い仕事をする」

「本当ですか? いやあ、嬉しいな」

「子供が多かったろう」

 僕は言う。「十歳にも満たない子供」

「あなたもまだ子供じゃないですか」

「僕はもう大人だよ。十六歳はもう立派な大人さ」

「ふうん。で、どうしてですか? 確かに最近は子供が多かったけれど」

「戦争だよ」

「ああ、どうりで」

 カエルは僕が何を言わんとするか察したらしく、髪の毛を一本一本丁寧に抜いていく。「あたしとしては、まあ嬉しいですけど」

「どこかで悲しむ人間がいれば、どこかで喜ぶカエルもいる」

「生きていくからですね。どの世界でも似たようなものかもしれない」

 カエルがプツリプツリと髪を抜いていく感覚に連れ添うように、なんだか頭の芯のあたりがぼうとしてくる。泡はもう消えていた。眠いのかもしれない。

「僕はもう眠るよ」

「そうですか」

 カエルは何か言いかけるが、やめる。しばらく黙ったままカエルは髪を抜く作業を続けていた。

「まだ起きてますか?」

「起きてるよ」

「あなたは良いガラス玉になります」

 僕は「それはよかった」と呟いた気がする。カエルは何も言わなかった。

 音がにじんで聞こえだす。目に映る景色も曖昧な色へと変わりだす。それはゆっくりと、木漏れ日が水底に生命の光を届けるように。

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