3 題「夕立」「噺家」「魚屋」

 突然の雨だった。せっかく良い魚を仕入れたんだがなあ、と店主のジュンは軒先で降りしきる雨を見ていた。晩夏の夕暮れ、喧騒をもかき消す大粒の夕立ちである。

 ぼうと向かいの道路を見ながらラジオを聴いていると、一人の男がひさしへ入ってくる。傘を持たないその男は突然の夕立ちに見舞われて雨宿りをできるところ、目についたこの魚屋に飛び込んだとのことだった。

「おぉ、おぉ、大変だ。タオルなんかは貸してやんねえが、そこにある椅子やら何やらは適当に使ってもらって構わねえよ」ジュンは言う。「どうだ? ついでに、夕餉の支度も済ませていったら。こんな活きの良い魚、滅多にいねえからねえ。奥さんも喜ぶんじゃないのか?」

「そうですか、そうですね。では」男はそう言ってスズキを二尾手に取った。

「おお、お客さん。今夜はスズキかい。スズキは夏が一番うめえから、旬物はもう食べ収めだなあ。それにしても、仕入れた甲斐があるねえ。ちょっとばかし値段が張るんだが、やっぱりうめえ魚は店頭に並べておきてえからなあ」

 ジュンは釣りを男に渡す。「いやあ、こう安くはねえ金をポンと出せるのは甲斐性のある男の魅力だね。奥さんは素敵な旦那さんを持ったもんだ」

「ありがとうございます」

「そんな畏まりなさんな。え? あんた、なにしてる人?」

 男は少し顔をしかめる。人は悩むとき、その種が大きくとも小さくとも多少は顔に出る者である。男は意識した訳ではなかったが、眉間には三層程度の皴が寄っていた。

「一応、噺家をやらせてもらっています」

「へえ、噺家!」

 ジュンは一月に二回ほど中央の寄席へ行っていた。「誰の弟子だい? あんたも演目をやるのかね。まだ見習いか?」

「いえ、演目はやるのですが」

「それにしては見ねえ顔だ」

「この辺りに来るのは初めてでして。普段は西の方で活動しております」

「ははあ、それは大層、へえ」男は言う。「どれ、一つ何か演じてくれないか? 丁度このサザエが四つほど余っとるんだよ。持っていってくれ。昆布も幾らかあったかな」

 男はさらに渋い顔をする。普段は眉がきりっとした爽やか風な顔つきをしているのだが、口元をせりあげて悩ましい顔をする男は幾分強面であった。ジュンは普段からそれかそれ以上の強面であるのだが。

「いいじゃねえか、どうせ雨が止むまで暇なんだろ? 話すのが好きで噺家になったんと違うのか」

「へえ、まあ」

「へったくそでも笑わねえよ。おいらどんな落語でもそれなりの味があって好きなんだよ」

 ジュンは無理やりサザエやら昆布やらを男に持たせる。男は渋々、それでは、と言って小さな丸椅子の上で正座する。砕けた発泡スチロールの細長い破片が男の側に落ちていたので、男はそれを持って演目を始めた。題は『権助魚』である。

 話のタネはこうだ。旦那の浮気を疑う女将が、飯炊きの権助に一円を持たせて旦那の後をつけさせる。がめついが意志薄弱の権助は、旦那に女将の企みを見抜かれ、二円で口封じをしろと命令される。二重スパイである。旦那は水揚げをしてその勢いでどんちゃん騒ぎをしているから、明日の昼には帰ると。水揚げした魚はどうするんです、と権助は旦那からさらに金をもらって魚屋に行き、魚を買う。権助はすぐに女将のところへ帰り、やけに早かったと疑われ、二重スパイの線を見破られそうになるが、権助はそれを否定して水揚げしてきたという魚を並べる。ニシン、スケソウダラ、目刺し、かまぼこ、サメの切り身……。隅田川で揚げてきたというから笑いものである。

 ジュンは既にこの演目を知っていたが、男の話を聴き入っていた。男の一挙手一投足に目を奪われ、張りのある繊細な声に耳を奪われた。この男は余程有名な噺家なのか、それとも未だ世に出ていない天才か、と思った。否応なく彼の話に引き込まれ、気がついた時には演目は終わっていた。男の礼と共に、夕立ちの音が耳に帰ってくる。

「いやあ、すごかった」ジュンは言った。自分で言葉を操ることができないので、ジュンは本当に話がすごかったことを表すのに難儀した。どういっても世辞に聞こえてしまうのだ。ジュンが言葉を巧みに操る落語に惹かれ、憧れたのにも、そういう節があるらしかった。

 男はジュンの賛辞を苦笑いで受け取っていた。そしてしきりに外の雨を見ていた。

「そろそろ、雨も止みますね。今日はこのあたりで失礼させていただきます」

 ジュンは頷いて、男にまたいつでも来てくれと言ったが、男がここに再度寄ることはないように思えた。

 男の姿が見えなくなり、雲からようやく沈みかけの陽が射すと、ある一人のだらしない恰好をした男が魚屋に立ち寄った。

「魚が欲しいんですが、何かありますかね。あぁ、このニシンやスケソウダラは良さそうだ」

 夕立ちの音が遠くに聞こえたような気がした。

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