13(彼女が涙を流した理由)

 不安定な状態ということで、僕はしばらくのあいだ彼女に会えなかった。その間、彼女はずっと病院にいて、あまり効果のない治療や、念のための細かい検査やらを受けていた。ガラスの靴があうかどうか、慎重に確認するみたいに。

 症状の説明や、その進行具合については、衣枝さんが詳しく教えてくれた。

 やがて一通りの検査も終わり、症状も落ち着いたということで――記憶に関しては何一つ回復していなかったけれど――、僕は病院まで面会に行けることになった。十二時の鐘を待つまでもなく。

 その前日、僕は志花の部屋からある物を持っていくことにした。衣枝さんにそのことを話すと、別にかまわないだろうと許可をくれた。それでどうなるか、どうすべきかは、僕にも衣枝さんにもわからなかったけれど。

 僕はあの日と同じように、車に乗って病院へ向かった。休日の昼すぎで、あの時とはだいぶ様子が違っている。空は午睡でもしているみたいにのん気そうで、自動車の群れは亀よりも遅く走っていた。空気は冷たく、秋の深まりを感じさせる。

 病院に着くと、僕は精神科の開放病棟に向かった。やや特殊な症例ということで、志花はそこに入院している。閉鎖病棟とは違って、面会や出入りは自由で、施錠されるのは夜間だけだった。主に回復期の患者が入れられるところである。

 戦争中だからというわけではないだろうけど、扉は大きく開けっ放しになっていた。そこをくぐると、すぐロビーになっている。カフェみたいな丸いテーブルが並び、それぞれにイスが四脚ずつ置かれていた。部屋の隅にはゆったりしたソファがあって、テレビやいろいろなものの入った棚なんかも設置されている。太陽王の宮殿ほどじゃないにしろ、壁紙や天井、床は明るくて清潔だった。ちょっと、保育園みたいな雰囲気がある。

 室内でくつろいでいる人たちも、特に変わった様子は見られなかった。少なくとも、絶望して我が目を刳りぬいたり、怒り狂って復讐のために自分の子供を殺す、なんてことはなさそうだ。一般病棟とは違う、調律がわずかに狂った楽器みたいな、微妙な緊張感はあったけど、ともかく傍目には何の問題も見あたらない。

 ちょうど看護婦さんが前を通ったので、僕は志花のことを尋ねてみた。

「芦本さん?」

 その人はきょろきょろとあたりを見まわし、不意に視線をとめた。「芦本さんなら、あちらにいらっしゃいますよ」

 言われて、僕がその視線の先を追うと、そこには確かに志花の姿があった。オセロの最初に置かれた四つの石みたいに、テーブルに一人で座っている。彼女にはあまり似あいそうにない、ピンク色のパジャマとカーディガンという格好で、目の前に置いた本らしいものを熱心にのぞき込んでいた。

 僕が看護婦さんに案内されて近づくと、彼女はそれに気づいたみたいにして顔を上げた。

 そうして、僕のほうを見て――

 にっこりと、微笑う。

 僕は一瞬ためらって、足をとめた。彼女は、何も覚えていないはずだった。世界中の大半の人も、僕のことも。それらの名前はもう、彼女のノートから念入りに、消しゴムで消されているはずだった。

「あら、珍しいわね」

 と、看護婦さんは感心したように言う。

「芦本さんが、初対面の人にこんな顔をするなんて。普段は、知らない人には近づかなくて、絶対信用しようとしないんですけどね。もしかしたら何か覚えていて、それでこんな表情になるのかも」

 その言葉を聞いて、僕はあらためて志花を眺めてみた。

 でも――

 彼女は笑顔を浮かべているだけで、僕が誰なのかに気づいた様子はなかった。天国かどこかで、昔知っていた人が姿を変えて、会いにきたみたいに。その瞳は、意味のあるものは何も反射していない。その光の中に、僕は存在しない。

 もう少しテーブルに近づくと、彼女が何の本を読んでいるのかがわかる。それはレオ・レオニの『フレデリック』だった。

 看護婦さんは、「何か御用があれば、いつでも」と言って去っていった。テーブルには僕と、志花だけが残された。手品師が気を利かせて、帽子の中にすべてを隠してしまったみたいに。

 僕はイスに座って、彼女のほうを見た。彼女は相変わらず、少しも皮肉っぽいところのない笑顔でこちらを向いていた。

「――こんにちは」

 とりあえず、僕は挨拶をした。

 彼女はあまり志花らしいとはいえない、可愛らしい仕草でお辞儀をした。その様子には、僕のことを警戒している気配は全然感じられなかった。ちょうど、人間に狩りつくされて絶滅してしまった、多くの鳥たちと同じように。

 以前は束ねられていた髪は解かれて、それは高校時代の彼女にそっくりだった。いや、その様子はもっとずっと幼い、ずっと子供みたいな感じがした。肩までかかる、少し癖のかかった髪に、遠慮がちにつけられた鼻と口。少々、猫背気味のその格好は、小さな箱の中にでも入れてしまえそうに思える。

 声が出せないせいだろうけれど、彼女は目でしゃべろうとするみたいに、じっとこちらを見ていた。ほかに言葉を持たない赤ん坊が、そうするみたいに。彼女は何だかひどく、ひどく――きれいだった。まるで、彼女の書く文章そのものみたいに。

 何を話すべきか、僕は迷った。相手はまるで、志花らしくは見えなかった。彼女の胸の奥底にあって、一番大切だったはずのものは、もうどこにも感じられない。

 でも結局は、蓋の閉まった箱は開けられざるをえないのだ。その中に悪しきものが詰まっていようが、善きものが満たされていようが。

 心持ち深く息をすってから、僕は訊いた。

「……僕のこと、覚えてる?」

 彼女は小首を傾げるようにして、僕の顔をのぞき込んだ。ジグソーパズルのピースがはまるところを、丹念に探すみたいに。でもやがて、小さく首を振った。

「そっか――」

 僕は自分でも、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。どんな期待をしていたのかも。

 彼女はそんな僕を見て、慌てるようにウサギの絵のついたメモ帳を取りだした。ページをめくって、そこに何かを書く。しゃべれなくても耳は聞こえるし、理解することもできるのだった。


〝ごめんなさい〟


 メモ帳には、そう書かれていた。ノートに書かれていたのと同じ、見覚えのある志花の文字だった。どうやら、そんな癖だけはきちんと残っているらしい。

 気にしていないことを示すために、僕はやんわりと首を振った。彼女は何だか、ひどく壊れやすそうに見えた。あるいは、壊れてしまったばかりのような。

 僕が気にしていないとわかると、彼女はぱっと笑顔を浮かべた。ちょうど、花が咲く瞬間みたいな笑顔を。そうして、メモ帳にまた何か書き込んだ。


〝でも、初めて会った気がしません〟


 それを読んで、僕も笑顔を浮かべる。できるだけ、彼女と同じものになるよう努力して。

「実は僕も、そう思ってたんだ」

 そう言うと、彼女は笑った。声がないので、テレビの音を消して見ているみたいな、ちょっと奇妙な笑いだった。でも自然で無理のない、魅力的な笑顔でもあった。

 それから僕は、僕のことについて話した。僕が何者で、今何をしているのか。記憶をなくす前の彼女とは、どんな関係だったのか。以前の志花のことに関する話については、できるだけ無理のないよう、今の彼女が余計な責任を感じたりしなくてすむよう留意した。

 よく古本屋に車で送らされた、という話をすると、彼女は明るく笑った。


〝ひどい人だったんですね、私〟


 メモ帳には、そう書かれていた。

「うん、実に稀に見る極悪人だったんだ」

 そう言って、僕も笑った。

 僕たちは面会終了まで話をしていたけど、何の話をしていたのかは少しも覚えていない。白山羊と黒山羊が、結局はお互いの手紙を食べてしまったみたいに。

 ただ印象に残っているのは、彼女の自然な笑顔とリラックスした態度だった。まるで世界と新しい約束でも交わしたみたいに、彼女には苛立ちも緊張も見られなかった。頭痛もすっかり消えてしまったようだった。虹の印こそ、そこにはなかったけれど。

 そろそろ帰らなくちゃならない、と言うと、彼女は大抵の人間が決心をぐらつかせそうな、悲しそうな顔をした。けれどそこには、無理を言って相手を困らせてはいけないと、自制しているらしい様子も見られた。白雪姫と意地悪な継母くらい、もとの志花とは似ても似つかない。

 僕は最後に、持ってきたものを彼女に見せておくことにした。前日に、彼女の部屋から持ちだしたものである。

 それは、一冊のノートだった。

 書きかけの物語が残されたままになった、ノート。

 ――たぶんもう終わることのない物語が記された、志花のノート。

 僕はそれを、彼女に渡した。

 はじめ、彼女はそれが何なのかわからないようだった。見覚えのない家族のポートレートでも目にするのと同じで。彼女は番号だけが振られた、何も書かれていないノートの表と裏を見まわす。そのノートが自分のものなのか、僕のものなのかもわからないのだろう。

 でも、やがて――

 彼女はそのノートのページをめくった。

 しばらくのあいだ、ページを繰る音だけが僕の耳に響いていた。特殊な形の貝殻を、砂の上に落としていくみたいに。

 どれだけの時間が、たっただろう。


「あ、あ――」


 志花は不意に、涙を流していた。

 それはびっくりするくらい、大粒の涙だった。小さなガラス玉の入った瓶を倒したみたいに、それはぽろぽろと零れ落ちていった。

 唇が虫の羽みたいに震え、声にならない嗚咽がその口からあふれている。空中で固定されたように動かない頭部とは対照的に、その小さな肩は小刻みに振動していた。

 彼女はその格好のまま、泣き続けた。たぶん、何のためかもわからないまま。

 自分の失ったもの――

 世界で何より大切だったもの――

 そんなもののために。

 雨がいつまでも降りやまないみたいに、彼女は泣き続けた。

 いつまでも、ずっと――

 彼女は、涙を流し続けていた。



 ――これで、彼女についての僕の話は終わる。

 彼女のその後については、僕が語るべきことじゃないだろう。それは終わることなく終わってしまった彼女のノートと同じで、誰かが書き足したり、書き換えたりすべきことじゃないのだ。そんなことをする権利は、誰も持っていない。

 もちろん、彼女のこれからを想像することはできる。それはどんなふうにだって、展開させることができる。彼女が記憶を取り戻すことも、あるいは今までとは違った新しい物語を書きはじめることも。

 でも――

 僕には、わかっている。

 彼女の記憶が戻ることは、たぶんないだろう。今までずっと抱えてきた重みに耐えられなくなって、彼女は手放してしまったのだ。それを持っていた、両手といっしょに。それを取り戻すことは、もう不可能だった。

 結局のところ、世界そのものを一人で支えられる人間なんて、どこにも存在しないのだ。

 もちろん、彼女は幸せになる。少なくとも僕は、そうなるように努力するつもりだ。それが無意味で、感傷的で、を書くような行為でしかなかったとしても。たぶん彼女は、そうなるべきだと思うから。誰かが、そうすべきだと思うから。

 彼女の書いた文章は、今でも僕の中に残り続けている。

 それは、ずっと――天国まで持っていけるものだから。

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