§ 3ー5  10月17日  ひび割れる現実



--神奈川県・喫茶ル・シャ・ブラン--



「次のライブはいつやるんですか?」


「うーん……当分できないかな。ヴォーカルがまだ見つからないからさ」


「舞衣さんみたいな声の人、なかなかいないですもんね」


「そうだね。こんな世の中だと特にね……。でも、必ず見つけるよ。黒い翼エルノワールの羽はまだ折れてないからさ」


 紙ナプキンを補充していた手で蜜柑ちゃんにポーズを決める。強がりにも近かったポーズだが、気が沈む自分自身を鼓舞こぶするためでもあった。


 学祭の後に行われたライブを最後に、メインヴォーカルの千歳舞衣がバンドを抜けた。


「死んだわけでもないんだから、いつかまた一緒に音楽やろうぜ。パンドラがぶつかってもな!」


 寂しさを隠した笑顔で舞衣らしい別れの言葉を残した。その言葉に、自分たちの事よりプロになる舞衣の未来が明るいものになることを願った。とはいえ、バンドの中心が居なくなったのだ。颯太おれと久弥もだが、それ以上にてっちゃんの落ち込みようは目に見えてひどかった。

 高校時代から舞衣とてっちゃんは一緒にやってきたのだから当たり前だ。その日以降、てっちゃんは軽音楽部の部室に姿を見せていない。

 黒い翼エルノワールは結成以来、最大の危機にひんしていた。舞衣の代わりのアテもない。でも、まだ終わったわけじゃない。終わるときは納得できるもので有りたい。まだくすぶるものが心のすみにある以上、続けることをあきらめたくない。社会情勢も天体衝突も関係ない。その思いの源泉を忘れながらも、狼に追われる兎のような切迫感が颯太を奮い立たせていた。




   ◆    ◆    ◆    ◆




 茜色の街並みに目をくれずにカウンターの端で白猫モカがゆっくり眠る。カランコロン♪ とシフトの15分前に入ってきた匡毅はいつも通りにエネルギッシュだった。うらやましく、また同時に自分が情けなくなる。最近はシフトぴったりに上がる加奈さんと風祭さんが準備をし出す。


「旦那もしばらく定時上がりで帰ってくるのよね。はぁ〜。ご飯何にしよっかなー」


 ぼやく結婚3年目の加奈さん。旦那さんは住宅販売の仕事をしてると聞いたことがある。


「こう暇だと仕込みも終わって、かわいいお客さんを探して見てるしかないからなー」


 明るく調子のいいことばかりの風祭さん。長髪茶髪も相まって軽く見られるが、誘われて観に行った劇団の舞台では堂々と悪の大臣役を演じていた。


 生活や目的のために働く2人や店長と接すると、片手間にバイトする学生の自分は、背筋せすじを正される思いになる。しかし、今の社会のどんよりとした空気感と明らかに減少した客足に、以前のような透き通った言葉ではいられないを感じずにはいられなかった。


 そんな大人たちの振る舞いが、生きていくという現実を知らない子供たちに伝播でんぱんする。それを本能で感じるからだ。それがり重なり正体不明な怪物として心をよどませる。それは不安、おびえ、卑屈ひくつさ、怒りとなり、それがいじめや差別、家庭内暴力や引きこもりになることもある。


 社会という他者との共存・共生をいられる世界にいる見えないけもの。今まさに、その黒い幻獣に子供だけでなく大人もとらわれ、盲目もうもくおびえている。


 分かっているのはその元凶。災いの魔女となったパンドラ。この黒い星はすでに人々に影響を及ぼしているのである。



 着替えを終えて店を出て行く2人の背中には、本人たちすら気づいていないよどみがからみつき、重力だけではない重みを宿やどしているように見えた。




   ◆    ◆    ◆    ◆




 白猫モカがゆっくりと目を開けると、ドア越しの外界は夜のとばりが降り、暗闇を人工の光が照らしていた。

 帰宅に急ぐ群衆ぐんしゅうの足は無駄なく速く、仕事帰りにたわむれる1Fのやきとり・祭りから聞こえる声はにぎやかだった。

 いくら見えない獣が心をよどませようとも、天体衝突などという非現実な未来より、目先の現実をただただ過ごす。多くの人は羊のように従順に生きてるのである。それ故に、傍目はためには社会生活に大きな乱れは起きていなかった……



「最近、お客さんの入りが減りましたよね」


「そうなんだよ。常連さんはまだ来てくれているんだけどね……」


 玉川匡毅の何気ない問いに店長が見えない溜め息をらしながら答える。ホールでは生田颯太と店長の娘さんの喜多見蜜柑が手持ち無沙汰ぶさたに仕事を探しながら働いている。

 減った売上への対処として「ホントに申し訳ない、彩さん」と電話で急遽、彩のシフトをカットする。客商売は水もの。客足の増減でシフトが変わるのはよくあることだ。


 そこまで急ぎではない調味料の補充やき取り用のピンクとグリーンのダスターの殺菌洗浄など、匡毅はキッチン担当の雑務ざつむをこなす。すっかり手慣れた仕事ぶりに、店長の信用も厚い。

 途中、蜜柑ちゃんがメモ帳を見せてきた。「今度の新作シフォンは、ミカンのシフォンケーキにしようと思ってまして」と丁寧に描かれたデザイン画は、オレンジ色のクリームに果肉が3つ花のように飾りつけられていた。ニコニコ顔の彼女の顔を脇目に置き、もうミカンが出回る時期なのかと時間の早さに思いをめぐらせる。



 閉店1時間前にはキッチン内でやれるだけの仕事が無くなってしまうと「匡毅くん、ちょっと小休止してきていいよ」と店長に苦笑いで言われた。アイスコーヒーを自分で作り、ポーションミルクを1つ分入れ、それを手に持ちスタッフルームに入る。


 入口のドアに描かれている猫と同様のデザインがされたエプロンを脱いで、アイスコーヒーと一緒に机の上に置く。『みなさんでどうぞ』と箱に書かれた加奈さんの差し入れのクッキーを1つ取る。行儀ぎょうぎ悪く立ちながらアイスコーヒーを半分ほど勢いよく飲んで喉をうるおす。「ふ~」と息をつく。

 そこから自分のロッカーに向かいスマートフォンを取り出す。画面には見慣れない番号からの着信と彩からのメッセージの表示があった。メッセージから確認する。


【お疲れ様です。

 今日はお客さん、少しは増えたかな?

 匡毅さんなら大丈夫だろうけど、

 帰り道気をつけてください     】


 メッセージの後に、『おつかれニャー」とポップに描かれた猫のスタンプもえられていた。目尻が下がり少し口角が上がる。

 返事をする前に知らない着信を確認する。電話帳に登録はしていないが見た覚えがある。着信履歴を見返してみると、3ヶ月ほど前にも着信の記録があった。日付と時間の記憶を辿たどる。

 あっ! 思い出した。〇〇食品の人事課の電話番号。内定後に内定者研修の連絡をもらって以来の着信だったので記憶からすっかり抜けていた。

 すぐに折り返しの電話をしようと思ったが、すでに20時を過ぎていたことに躊躇ためらい止めることにした。そして、カセットテープのアイコンの表示に気づく。留守番電話にメッセージが残っていた。フリック操作をし、残されていたメッセージを再生した。


『お疲れ様です。玉川匡毅様の携帯でお間違えないでしょうか? 夜分遅くのお電話で申し訳ございません。緊急を要する連絡がございまして失礼致します。

 本日、緊急役員会議が行われまして、昨今さっこんの社会情勢をかんがみ、当社の経営体制の抜本的な見直しが行われました。その1つとして大幅な人員整理が実施じっしされることになりまして、大変恐縮なのですが新入社員の内定者の採用を行わないことに決まりました。

 突然な申し出で、大変ご迷惑をおかけすることをご容赦ようしゃください。玉川様もうかがいたいことや確認したいことも…………』


 途中からの音声は、右耳から入り脳を無視して左耳から出て行った。無視ではない。機能が停止していたのだろう。呼吸すら、心臓すら止まったような感覚。


 やっと実感できた未来が白くかすむ。


 ようやく手に入ると思った彩の顔も……


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