カウントダウン
伊吹 累
第1話
12月31日。仕事を終えてビル街を抜ける。最寄駅から降りて住宅地に入ったがどうもあのボロアパートに帰る気になれなくて、駐車場の適当なブロックに腰を下ろした。風が刺すように肌の露出しているところを攻撃してくる。街灯が弱々しく手元を照らしている。
「…はは」
大晦日に家にも帰らず白い息をぼうっと眺めている自分に笑えた。そもそも今日まで仕事を入れたのは俺自身だ。オフィスにはもちろん誰もいなかったが、特に帰りを待っている人も家に帰りたい理由も無かったので、時間を埋めるように仕事を入れた。もうすぐ23時45分になる。近くの神社に初詣に行くのだろう、高校生くらいのグループが騒ぎながら前を通り過ぎて行った。カウントダウンを友達と過ごしたい年頃だろう。…だから何だというのだ。ただ明日が来て日付が変わるついでに西暦も変わるだけだろう。10代、それであるだけで未来に希望があることを信じて疑わないような彼らも、アラサーで既に人生を見失っている俺にも時間の経過は等しい。その1分1秒の価値は違うだろうが。
雪が降ってきた。大きめの結晶たちが黒いスーツに降り立っては消えていく。今年も残り10分。スマホをちらりと見てカバンに戻し、また顔を上げると。
「よう兄ちゃん」
作業服を着た60手前くらいのおっさんが目の前にいた。ぼうっとしていたからか全く気付かなかったので、突然現れたこの男を前に声が詰まった。
「っ…、こんばんは」
「何や大晦日に辛気臭い顔しよって、女房に家追い出されたんか、え? これやるわ」
「いえ、独身です。…ありがとうございます」
手袋の上からも温まる缶コーヒーを貰い戸惑う俺をよそに、関西弁の男はスーツを一瞥して、なるほどというように頷き、隣に座ってきた。
「確かに今日に仕事に行く旦那は中々おらんわな。まあワシも仕事帰りやけどな。つまり独身仲間や」
かかか、と笑う男を前に、あまり都会でこのテンションに触れてきたことの無かった俺は困惑する。
「こんな時やからか言うてまうけどワシはな、20年前に借金作って、子供もおったけど女房に家を出されてしもたんやわ。元々儲かる仕事してたわけちゃうしな、帰ってもどうせ1人やからこの歳なっても大晦日まで仕事しとるんやわ」
男の汚れた作業服を見ながら、嘘ではないだろうがよくそんな話を見ず知らずの俺にできるなと思う。文化の違いだろうか。
「兄ちゃんはこんな時間まで働いて、金が欲しいとかなんかがあるんか?理由が」
放っておいてくれと思うがどうせ今後付き合っていくわけでも無いのだ。つっぱねる理由も無い。
「…何も。ただ、仕事以外に時間を使う相手もいなくて」
そうだな、俺は仕事を孤独の言い訳にしたいんだな。
「そうか、働くのが好きでしゃーないんでも無いわけや」
「…俺は今の仕事がしたかった訳ではないんです。元々行きたかった会社は落ちて、その後に入ったところを辞めて今の仕事に着きました」
暫くの沈黙があったが、男は腕組みしてこちらに向き直った。
「よう知らんおっさんにこんな事言われるのは嫌やろうけどな、あんたは贅沢やで」
俺は静かに顔を上げた。
「あんた大学は通わせてもろたんやろ、ほんでやりたかったことは叶わんかったとしてもスーツ着て働ける所に就職できたわけや。今あんたは、したい訳でも無い仕事して上手くやれてへんし支えてくれる家族もおらん。けどな、そうやって一丁前に社会人できとんやで。ワシは何になりたいかやなくてどう生きてゆこうかと毎日考えとったな」
せやけど借金作ってもうてワシはアホやと笑う。俺ははいそうですかと納得出来無かったのでどう反論しようかと口を開いたが、手でさえぎられてしまった。
「まあな、あんたも思うとこがあるのは分かる。こんな出会いたてのやつに何が分かるねんてな。せやけどな」
「若い頃な、まだ娘と住んどった時や。あいつ年賀状に貼ってある運試しのシールが好きやってな、友達からハガキ来たら真っ先にコインでメッキを削るんやわ。それが絶対に大吉やねん。まあそこは企業さんやし凶が出ないのは当然やな。それを見た娘は『お父さん、今年も大吉やで!』て喜ぶんや。正月の頃はそれを思い出して、ああ、あいつは紙切れ一枚でも1年の幸せを疑わんかったのやなって思うんや。せやからワシも理由が無くても笑っとこうと決めとる」
男は腰を上げた。
「ほならまあ、あと少しやけど良い一年にしいや。ほんで二度とワシに会うなや」
ほいじゃ、と言って男は角を曲がって消えていった。どこからか若者がカウントダウンしている声が聞こえる。
5、4、3、2、1、おめでとー!
はしゃぐ大きな声をぼんやりと聞きながら、俺はすっかり冷たくなった缶コーヒーをずっと握りしめていた事に気付いた。
カウントダウン 伊吹 累 @Ento-Esam
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