第43話 祝福
瓦礫の降ってくる音が断続的に続く。崩落しかけた天守に外の光が差しこんで、何本もの光の帯が浮かんでいた。
勝負は決着した。町を侵略していた影は動きが鈍り、少しずつ姿を消し始めている。
部屋の隅では、壁にもたれかかるようにしてチセが倒れている。力を使い果たし、意識が飛んでしまったのだ。祭も同じで、異能が解除されてもとの姿に戻ってしまっていた。
ぼんやりと眺めていた八重は思い出したように吐血した。失血しすぎて治癒にも時間がかかっている。もはや立っていることができず、崩れ落ちるように座りこんだ。
すぐそばには淡雪が仰向けに寝そべっていた。影で形作られていた下半身はすでになく、上半身も少しずつ塵となって消えていく。彼女の存在が失われるのも時間の問題だろう。
静かだった。
ふと淡雪と目があった。
今さら何を言えばいいか分からなかった。分からなかったが、言うべきことなら山ほどあるはずだ。意を決して血のにじむ唇を動かす。
「………淡雪、俺は」
「私は」
天井画を見つめる淡雪が、かすれた声で言った。
「八重のことが少しも分からない」
青い髪がそよ風に揺れる。昔の、あの穏やかだった日々が思い出される。
「あなたが生きていかなきゃいけない世界は、とても醜くて、つまらなくて、ろくでもないものなのに。これから先、あなたを何度も裏切るかもしれないのに。私も八重もそれを知っている――なのにどうして、そんな風に許せてしまうの?」
穏やかだと思っていたけれどそれは嘘だった。八重は見ないふりをしていて淡雪は勘違いをしていた。ただそれだけのことだ。八重もまた天井を見上げた。
「昔はそうしなきゃいけない気がしてた。愛そうと決めたから誰でも愛した。何をされても許せたし、許すべきだと思ってた。……でも最近は、そういうことを考えない日の方が多かった」
ゆっくりとチセの方を見やる。淡雪もつられて顔を向けた。血のこびりついた顔は平穏には程遠く、けれど八重にとっては眩しさすら感じるのだ。
自然と笑みがこぼれていた。
チセは無茶苦茶だ。彼女は傷が治るわけでも、戦う力を持っているわけでもない。恐怖がないわけでもない。なのにすべて押しこんで立ち上がり、守りたいもののために震える両足で駆けていける。そんな強さと優しさが八重の手を握って離さないのだ。いつの間にか八重まで一緒に隣を走っていて、それが――。
「楽しかったんだよ、本当に」
全部チセが教えてくれた。チセが与えてくれた。
彼女が八重の生きる世界を何もかも塗り替えていってしまった。
だから深く考えるのも、意地を張るのももうやめる。
永遠を生きていくのに理由などいらないのだ。
「俺は好きなものだけ好きになって、嫌いなものは嫌いなままでよかったんだな――」
淡雪は目を見開いて八重を見つめた。
それでも結局許してしまうのかもしれないけれど、それならそれでいい。ちゃんと自分で選ぶのだから。
彼女は震える声で「どうして」と言った。八重が促すように小さく相槌を打つ。
「どうして、もっと早くに気付いてくれなかったの。最初からそうしていれば八重は、あんなに苦しまずに済んだのに。もっと早くに気付いていたら……」
「逆だ、逆。苦しんだから気付いたんだよ。おまえだってそうだろ」
「だって私は十年とちょっとしか生きてない。でも八重は違う」
「四百年生きてみた今だって間違えることばっかりだよ。残念だったな」
八重は苦笑した。人生などままならないものである。たぶんこれからも上手くいかないことばかりなのだろう。
「特に今日は説教されっぱなしだ。百年も生きてないガキにだぞ、笑えるだろ?」
「……八重が説教される側なの?」
「五番町の連中は俺への敬意ってもんを持ち合わせてないんだよ。説教どころか、あいつら俺に赤ん坊のよだれかけを洗濯させるぞ」
「嘘。絶対、嘘」
「嘘じゃねえよ」
「八重は家事なんてなんにもしなかった」
「家事どころか言われたことはなんでもやるよ、ここ最近は」
五番町の住人たちは、八重を用心棒と言うより便利屋だと思っている節があるので、ありとあらゆる雑用を押し付けるのだ。
「じゃあ三味線弾いたりするの?」
「今はしないな。頼まれたらするが、俺が弾けるの誰も知らねえだろ」
「掃除は? 玄関掃いたりする?」
「たまになら掃く。ほっとくと近所のガキに砂だらけにされるんだよ」
「料理は? 昔は名前のついてない野菜炒めしか作れなかった」
「…………それは今もそうだな」
ははっと声をあげて笑う。
あのとき話せなかった分をいつまでも話していたかった。けれど残されている時間が存外少ないことに気が付いて、八重はふっと息を吐いた。もうそろそろ終わりが近い。
「淡雪」
「……うん」
「最後にもう一度だけ言う。契りを破棄しろ」
風が凪ぐ。
「おまえはせめて人として死ね」
言葉は静かに反響する。淡雪は柔らかく微笑んだ。
「ごめんね。八重が許しても、私は何も許せそうにない」
彼女はそう言って手を伸ばす。八重の頬に触れようとする指先は、しかし届く前に崩れ去って塵へと還っていく。触れるための手を失った彼女は、仕方がなさそうに眉を下げた。
「幸せに――」
やんでいた風がまた吹き抜けて、すべてさらっていく。
最後まで言い切ることなく、淡雪の身体はあっけなく終わりを迎える。
だというのに、世界の脅威は存外穏やかな表情をしている。
何を言いかけたのか、八重には想像することしかできない。正解を聞くことは二度とできそうにないけれど、それが呪いの言葉でなければいいと思った。せめて今度こそ。
一片の骨さえ残らず、淡雪は影もろとも消滅した。大事だったものを一つ失って、八重は困ったように眉を下げる。微笑んだ。
「――俺は生きていくよ。こいつらと、もうしばらくは」
崩れ落ちた壁の向こうで歓声があがった。
差しこむ光は温かな熱を帯びていた。
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