第42話 両手から零れ落ちたもの(2)
背中を強打した彼女は力なくずり落ちていく。壁には後頭部から流れ出た血が筋を作っていた。平衡感覚も失ったのか、這いずるように立ちあがろうと両手をつくが、赤い手形が畳に浮かぶだけだ。
「う……八重、や、え……」
震える足でなんとか腰をあげたが、影に押さえつけられてしまう。またしても壁に背を激突させた彼女は、今度こそ血反吐を吐いた。
中央で統べるように淡雪が立ち、八重とチセは離れた位置で釘付けにされている。
「もう立たなくていいよ。城下はもうすぐ片が付くし、町にも大方影を巡らせた。あなたが何をしたところで状況は変わらない。無駄なのはもう分かってるでしょ。私がすべて滅ぼすから」
「……淡雪、あなたが……」
「?」
「あなたがどれだけ強くても、絶対に勝てないって分かってても……きっと私たちは戦うよ。まだここで生きていたいって思うから……」
かすかに聞こえる剣戟はまだやまない。
誰もが戦い続けている。自分の居場所を守るために。
身動きの取れないチセが手首だけを持ち上げた。槍を握りしめる。届くはずもないのに震える穂先が淡雪の方へ向けられる。
淡雪は静かに俯いた。細い肩はわずかに震える。
直後、チセの絶叫が響きわった。
「…………無駄だと言ってるのに!」
チセの右腕は曲がるはずのない方向に曲がっていた。影に圧迫されて折れてしまったのだ。もはや使い物にならなくなった腕は、祭を握っていることもできず、今にも手のひらから滑り落ちそうだ。
荒い息遣いの合間に、か細いうめき声が混ざっていた。
なのにその目は諦めを知らない。闘志は消えない。心は折れない。
「最後まで、戦うの」
金色の瞳が最後のきらめきを宿す。
最後の光だ。
「動くなァ――ッ!」
二度目の絶対命令権、発動。
身体への負担はすさまじく、失血状態の今ではまともに発動すらかでさえあやしい。たとえ発動したとしても捨て身だ。失神はまぬがれない。
だが、チセは。
「……っ!」
耐えた。
鼻血がたらりと伝って唇を濡らし、顎からしたたり落ちる。出血と欠乏による意識消失と、痛みによる覚醒をたえず繰り返している。歯を食いしばって堪えるチセは、すでに目の焦点も合っていない。しかし権能は完璧に発動した。淡雪のみを縛り付けている。
「――ッ! ……ッ!」
淡雪は動けない。
まだ動けない。
「行って、祭!」
「キュウ――!」
高らかな遠吠えが響き渡った。
槍は光を放ちながら獣の姿へと回帰した。
しなやかに伸びる手足は床を蹴り、一直線に飛びだした。床を突き破る影を避けながら、目にもとまらぬ速度で突っ切る。跳躍し、八重のもとへと真っ直ぐに飛びこんでくる。
八重は手を伸ばした。
赤くそまった爪先からぽたぽたと血がたれた。ゆらりと浮いた手が宙を泳ぐ。
「――」
遠のく意識のなかで、信じて伸ばす。
「――来いッ!」
喉が焼けそうなほどに叫んでいた。
指先にかすった祭の身体はすかさず槍へと変化した。握りしめた瞬間、身体がガクンと震えた。祭に操作権が渡る。無理やりに動かされた左腕は、体内を貫かれている痛みなどお構いなしに全力で振り切られる。
身体を引き裂く激痛が走った。悲鳴を噛み殺して耐える。もう一撃で脇腹を突き刺す影も灰燼に帰す。八重を捕える影は断ち切られ、身体が投げ出される。
全身がふっと軽くなって、足が自由に動いた。
祭の異能が消える。
槍をきつく握りなおした。
「淡雪!」
壊れそうな身体をひきずって、大きく一歩を踏み出す。
赤く濡れる視界は彼女だけを映していた。
深く澄み渡る紫の瞳が、淡雪の瞳の奥を覗きこむ。悲しみと怒りと虚しさがぐちゃぐちゃに混ざりあった目が、八重を見つめ返す。
硬直の解けた淡雪はどう動くべきか一瞬の迷いを見せた。コンマ二秒遅れて、八重へ腕を伸ばした。手先から影の刃に変わっていく。生きているのでもなく、死んでいるのでもない彼女は、人ならざる力を振るう。
八重は髪を振り乱しながら駆け抜けた。
最後の力などとうに使い果たしている。何も残っていない空っぽの身体で必死に走る。まき散らされた自身の血に足を取られかける。影が飛び交う。ただ、走る。
心から守りたいと思った。
生きる意味だとか、四百年の信条だとか、そんなものはもうどうでもよかった。
八重にだけ与えられた永遠も、今だけは肯定できるかもしれない。
途方もない未来がどれほど苦痛に満ちていたとしても、楽しいと言いきれる今日と明日があったのだ。
だから、守りたいと思った。
守りたいものが多すぎたのだ。
「淡雪――!」
そのために失うものがあったとしても。
穂先が淡雪の身体を捉える。
「……や……」
彼女の声は最後まで聞こえない。
無慈悲で鮮やかな一閃が彼女の身体を斬り裂いた。
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