第41話 両手から零れ落ちたもの(1)

「……来るぞッ!」


 本数を増した影が一直線に向かってくる。

 八重は右へ、チセは左へ駆けだした。


 左右に分かれてかわして別々の方向から回りこむ。先に辿りついたのは八重だ。飛びかかって槍を全速力で振り下ろす。淡雪は眉一つ動かさずに受け止めてみせた。


「無駄だって分かってるはず――」

「んなもん、やってみなきゃ分かんねえだろ!」


 叫んで、自ら退いた。しかし距離を取ることなく素早く姿勢を低くする。一瞬姿を見失った淡雪は反応が遅れて、自分の足元が切り離されていることに気付いたのは一秒後だった。


「っ⁉」


 支えを失った淡雪の身体はぐらりと傾く。


「今だ!」

「分かってるって――!」


 背後にはチセ。

 死角からの一撃は影といえども避けることはできない。淡雪は目を見開いたが、影をまとわりつかせる彼女の動きはいたって遅い。チセは全身を使って槍を振り下ろした。

 きらめく穂先は首をかき斬って――。


「あっ」


 だが目論見はあっけなく外れた。

 どろりと溶けた影は急所を晒さない。泥を斬ったのと同じ感覚しか与えない。寸前で影を厚くした淡雪は、むしろ槍の柄を掴んだ。槍を振り回されてチセの身体は宙を舞う。


「ちょっと待って⁉」


 足首を掴まれて逆さ吊りにされた。黒髪が垂れ下がって全身の血が頭へ落ちる。目線の高さまであげられたチセは、淡雪の目を見て顔を凍り付かせた。


「残念」


 手の先が鋭い爪に変わって、躊躇なく喉を突く。チセは「ひっ」と息を詰まらせた。金色の瞳をまばゆく輝せて、彼女はとっさに叫ぶ。


「と……止まれッ!」


 爪先が肌に食いこんで、チセの喉から一筋の血液が伝った。

 だが表皮を切ったにすぎない。淡雪は振りかざした爪を押し込もうとするが、完全に硬直していてそれ以上動けない。すでに踏み切っていた八重が距離を縮めて、チセを吊り下げる影を断ち切った。


 無遠慮に投げ出されたチセは、どさっと音をたてて畳に落下する。ぎりぎりで受け身を取って立ち上がると、喉を押さえながら「死ぬかと思った! 死ぬかと思った! なんか走馬灯っぽいの見えた!」と顔面蒼白でひとり言を漏らしていた。

 おまえ記憶ないくせにどんな走馬灯見るんだよ、と言いたかったのは寸前で飲みこんだ。あまりにもデリカシーに欠ける。


「ごめん、開始早々で命令権使っちゃった」

「いや、今のタイミングでいい。使ってなきゃ一生喋れなくなるところだったぞ」

「人生の危機来るの早くない?」


 絶対命令権の発動には言葉を発しなければならない。喉を潰すか、回避のために使わせるかすれば、奥の手はあっさりと封じることができる。

 これで強みはなくなったも同然だ。じりじりと下がる二人に、淡雪は視線を投げかけた。


「もうおしまい?」


 八重とチセは同時に床を蹴った。


「これからだよ!」


 突撃。連携を取りながら近づいていく。八重が前を切り開いて、背後からチセが飛びだした。一拍も置かずに飛ばされる影の刃を受けて、真後ろに飛んだ。淡雪の意識が逸れた隙を狙いすまして、八重が無理やり踏みこんだ。


 淡雪の前では、八重の異能は意味をなさない。

 攻撃はすべて受けるかかわすしかない。


 真上から降ってきた影の雨。槍を前にかかげて耐える。力比べになって足がずりずりと後ろへ滑っていく。すり抜けて向かってきたものは蹴りつけながら、後ろ向きにぐるんと回転する。


 チセはやや離れた位置で攻防を続けていた。祭が異能で操っているから死角はないが、肉体の反応速度には限界がある。別方向から同時に襲ってくる攻撃には対応できない。

 身体をひねって直撃はまぬがれたが、左腕をかすった。


「う、あ!」


 血が噴き出して、チセの顔に苦悶が浮かんだ。ぐっと唇を噛んで堪える。手首を返して槍を回転させて退けるが、腕をかばったままではろくに動けない。


 じわじわと傷が増えていく。なのに淡雪は焦りの表情一つ見せない。

 圧倒的だ――最初から勝負になっていない。

 気力だけで戦っているが、もはやそれさえも尽きそうだ。


「そろそろ、終わりにしよう」


 否定するように大きく足を踏み出す――はずだった。

 足が上がらなかった。


 恐怖などではない。何かにまとわりつかれているのだ。はっと足元を見やれば、部屋中を這いずっていた影が八重のもとに集まり、沼地のように足首まで覆い隠していた。

 槍で突いても穂先が沈みこむだけで何の手ごたえもない。身動きが取れない。


「く、そ!」

「覚悟はできてる?」


 淡雪がこちらを見ていた。伸ばされた手は八重を指している。

 揺らめく影が刃を形作るのは見えているのに、一歩も動くことができない。


「あ――ぐ、っ、アア!」


 一本目が脇腹に刺さった。

 握っていた槍で斬り落とそうとするが、それよりも早く二本目が腕を貫通した。筋がやられて、腕がピクリとも動かない。とっさにもう片方の手で掴もうとして――さらなる痛みに両目がいっぱいまで見開かれた。


 影は引き抜かれないように八重の体内で棘を伸ばしていく。

 体内の血管をズタズタに引き裂いていく。出血が止まらない。あまりに血を失いすぎたら、八重と言えども治癒が追いつくまで意識の方が飛んでしまう。

 想像を絶する痛みに背をのけぞらせて叫んだ。


「八重――」


 駆けつけようとしたチセにも鞭が飛ぶ。まともにくらえば胴体を一刀両断しかねない速度だ。息を止めたチセは寸前で槍を前に押し出し、直撃だけは避けた。だが痛みで踏ん張りもきいていない状況で受け止めきれるはずもない。


「ぐふっ」


 軽い身体は吹っ飛ばされて壁に激突した。

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