第40話 欲しかったもの


 ア、と声だけ零れていた。


「は……?」


 衝撃があったことだけは分かっていた。

 槍が手から滑り落ちてカランと音をたてた。


 ガクンと身体が揺れる。わずかな筋肉の痙攣。

 頭が真っ白になっている。それでも本能だけが危険を悟っていた。


「何、を」


 退こうとするが、足は動かない。爪先が地から離れている。身体がわずかに浮いていた。なぜ、と自分を見下ろして、ようやく自分の置かれた状況を理解した。


 八重の肉体は、背から腹まで串刺しにされているのだ。


「あ、あ、あ――」


 次の瞬間、激痛を知覚した。

 今までの傷などとは比べ物にならないほどの痛み。内臓を丸ごと貫かれているのだ。無意識に足をばたばたと暴れさせたが逃れられない。痛い、痛い、痛い――そんなことばかりが思考を支配している。


 暴れれば暴れるほど、突き刺さる刃にえぐられる。

 傷口からどぼどぼと流れ落ちる鮮血が床を濡らしていく。


 串刺しのまま固定されてしまっては、治癒されない。

 だが死ねない。いつまでも苦痛が終わらない。


 ゆったりとした足取りで近づいてくる淡雪は、「ごめんね」と囁いた。八重の口元から零れる唾液混じりの血をぬぐって、頬を撫でる。


「八重のことは全部知ってる。まともにやってもあなたは倒せない。だからこうするの」


 無理やり視線を合わされた。

 群青の瞳を焦がしているのは底なしの怒りだ。

 あの日、許さないと力なく呪ったのと同じ目で、彼女は言う。


「たとえ八重が望んでいなくても、私はあなたのために殺す。それが私の望みだから」


 淡雪は「もう痛いのが嫌なら大人しくしていて」と言い残して、振り返った。


 遠くで足音が響いていた。

 ようやくたどり着いたチセは、最悪のタイミングで現れる。


 げほっと血を吐き出した八重はかすむ両目を見開いた。とっくに焦点の合っていない紫の瞳は、光の差しこむ通路を見ていた。


 ――駄目だ。

 最初から八重を封じる方法に気が付いていたなら、淡雪がぺらぺらと自分の目的を話したのはやはり時間稼ぎでしかない。もうその必要がなくなったから今実行したのだ。


 彼女の言ったことが嘘でないなら、八重は囮。

 チセをこの位置までおびき寄せるための罠だ。


「チセ、こっちに来る――がァッ」


 最後の力を振り絞った制止も、呆気なく押さえつけられる。

 二本目の刃が容赦なく喉に突き立てられた。


 そこまでやるかよ、という嘆きは思考のはざまにかき消えた。


 血飛沫が舞って声帯が破壊される。炎であぶられているかのような熱さで、呼吸ができない。声も出なくて、代わりにヒュウヒュウと空気の漏れる嫌な音がしていた。


 眩暈がする。

 目の前にチカチカと星が瞬いていた。痛みが痛みだと分からなくなるくらい出血していて、腕にも足にも力がはいらない。だらんと垂れさがったままピクリとも動かない。全身が自分から零れ出た血でぐっしょりと濡れている。

 とっくに死んでいてもおかしくないありさまで、まだ生きながらえている。


「――八重?」


 そんな姿を見たチセが、どんな反応をするかなど自明だ。


「何それ……ねえ、八重。生きてる? 八重……。返事してよ」


 光を背に、長く伸びる影が八重のものと重なった。

 わずかにあげた視線がチセを捉えた。震えている声と身体。引きつった顔。

 恐怖と混乱で引きかけた足を、確実に前へ。

 淡雪は伏せていた視線をチセに向けると、艶やかに口角を上げた。


「見て、チセ。こんなに血が出てる。すごいでしょ、喉を突いても死なないの。……次はどこを刺せばいいのかな」


 反響したのは悲痛な雄叫びだった。

 うっ血するほど握りしめた槍の祭で薙ぎ払って、チセは力強く踏み切った。淡雪は後ろ足で下がりながらチセを迎え撃つ。新たに生み出された影の鞭が勢いよく打ち付けられた。


 チセは真っ直ぐに駆ける。

 猛攻を潜り抜けて、瀕死の八重のもとへ真っ直ぐに。

 あと数歩――チセの足が床を踏みしめた瞬間に衝撃波が走った。


「……ッ、う!」


 心臓をぎゅうっと押しつぶされる痛みにうめき声をあげる。

 結界が破壊されたときに起こるそれもすでに三度目だ。一瞬足を止めたチセも、気合で次の一歩を踏み出す。


「八重!」


 淡雪も身体を硬直させていた。

 最大のチャンス。今なら淡雪に一矢報いることができるかもしれない。チセや祭も気付いていただろう。気づいて――それでも一人と一匹は迷うことなく八重を選んだ。


 真上から振り下ろされた穂先の軌道は鮮やかだ。

 八重を貫く影を一閃で断ち切る。チセの足は勢いのまま床を滑る。くるっと転回して動きを止める。床へ崩れ落ちる八重の間に割りこんで、ほとんど一緒に倒れるようにして支えた。のしかかる重みにしゃがみこんだチセは、今にも泣き出しそうな顔だ。


「……大丈夫⁉」

「も……なお、る……」

「そんなの知ってるよ! でも治ったって痛いもんは痛いでしょ⁉」


 チセは怒鳴った。悲しんでいるのか怒っているのか分からない。


「ごめん、遅くなってごめんね……!」


 八重の血を浴びて赤く染まった両手できつく、きつく抱きしめられる。傷口に響いて痛いはずなのに、離してほしいとは微塵も思わなかった。ずっと前からこうしてほしかったような気さえしている。本当は八重も他人の熱を感じていたかったのだ。


 欲してやまなかったものが注がれる。

 言葉を失った八重は目元をぎゅっと力ませて堪えた。


 淡雪との繋がりが切れた影は灰に変わり、八重の胴と喉にぽっかりと空いた血みどろの穴が修復されていく。筋肉が、血管が、皮膚が再生産されて糸のように繋がっていく。

 それを黙って眺めている淡雪ではない。影を伸ばして、チセを狙う。


「あっ……」


 動きの遅れた祭が慌てて身体を操作するが、間に合わない。跳ね上げられた腕は届かない。


 八重の目が熱をはらんでいた。

 チセをこんなところでは死なせない。傷つけさせない。誰であろうと触らせない。


 絶対に――絶対に守るのだ。


 落ちていた自分の槍を拾い上げると、身体をひねって突き出した。激しく痛んだ身体を酷使して腕を振りきる。塞がりきらない傷口から血が噴き出す。チセの顔を赤黒く濡らしながら、槍が薙ぎ払われた。

 影はチセを貫く寸前で地に落ちた。呼吸は乱れたまま戻らない。八重はいまだ潰れかけた喉を動かし、しゃがれた声を紡ぐ。


「……これが、おまえの望みでも。俺は黙って見過ごすつもりはない……」


 まだ傷の塞がらない身体を引きずって立ち上がった。鼓動のたびに腹に強烈な痛みが走った。ずぶ濡れの身体からは動くたびに血が零れ落ちて、畳を赤く染め上げていく。失血しすぎて立っているだけでもやっとのだ。だが立たなければ戦えない。何も守れない。


 チセも追うように腰を上げて槍を構えた。

 相対する淡雪は「そう」と短く相槌を打つ。


「だけど、もう終わり」


 頭の頂点から足の先までぞわっと鳥肌が立って、肌がピリついた。

 結界は破壊されている。彼女を縛るものはもうどこにもない。


「私の勝ち」


 急激に、淡雪のまとう影が総量を増した。

 ぶわっと渦を巻いた暗闇は、波打つように部屋中に広がっていく。壁も天井も覆いつくす。とどまることを知らず、窓から溢れだした影は城壁を伝ってすべての町へと流れこむ。


 槍を握る手が震えた。

 力ませても、震えが止まらない。


 痛みによるものではない。純粋な恐怖だ。圧倒的な力を見せつけられて理解してしまった。彼女には勝てないかもしれないと身体が悟って、本能が今すぐ逃げろと訴えかけてくるのだ。


 目の前にいる少女は、もはや世界の脅威そのものだ。

 すでに人型をとどめていない淡雪は、緩慢にチセを瞳に映した。


「もう用は済んだし――まずはあなたから殺してあげる」

「嫌な先着順だね」


 笑って返すが、ただの強がりだ。全身がガタガタと震えているのが一目で分かる。

けれどチセは逃げなかったし、八重もまだ立ちふさがっていた。

 前を見据えたまま視線だけを交えて合図する。お互いに小さく頷きあったそのとき、淡雪の手はゆっくりと二人を指差した。

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