第37話 泥にまみれた理想論
椿が追いつくのを待って下ろしてもらう。
八重は肩を回しながらため息を吐いた。祭の吸血も終わり、腕に深々と突き立てられた傷は一瞬にして消えた。久方ぶりの地上を味わっていたいが、そんな暇はがないことは、崩れ去った町の風景を見ればわかる。影の侵攻はいまだ続いているのだ。
「それで一番町、おまえらの作戦ではどうなる予定なんだ?」
椿に回収されたテレポーターは蔦で縛り上げられていた。顔を覆っていた白布も外され、すっかり捕虜の様相だ。悔しげに歯を食いしばっているが、チセが一緒にいる以上逃げることもできない。睨みつけれたところで痛くもかゆくもなかった。
「緊急事態だ。内容次第ではそっちに乗ってもいいぞ」
静かに見下ろす。最大限の譲歩だ。
視線をうろうとさせていた彼女も、いからせていた肩をゆっくりと降ろした。
「……チセ様に女王陛下として即位していただく。天守にたどり着くまでの戦闘は避けられないが、上手くいけば影の頭領と戦うことなく退けられる」
まあそうくるよな、と八重は眉を動かした。
影を抑えるのはいつの時代も女王の役割だ。空位の隙を突かれているのならば、新しい女王を用意してしまえば優位を取れる。考えうる限り最も犠牲の少ない方法だろう。
問題があるとすれば一つ。
一度女王として即位すれば、死ぬまでその役割を担うことになる。
「それは――」
言いかけたのを遮ったのは、背後から飛んできた声だ。
「それは却下。僕たち五番町の立場からは認められないなあ」
反射的に振り向く。森の方から歩いてくる二人は余裕の足取りだ。前を歩いているのは桜で、彼女に守られるように後ろにいるのが桂木だ。彼はひょっこりと顔を出しながら片手をあげた。
「やあ、生きているようで何より」
思い出したように「まあ君死なないけど」と付け足したのは一言余計だった。
「桂木! なんでこんなところにいるんだよ。いつもは安全圏から指示出しするくせに」
「今回ばかりはさすがにねえ。前線に来なきゃ情報も指示も遅すぎるでしょ」
「大体おまえら、肝心なときにどこで何してたんだ? 町内会の爺さんがキレてたぞ」
「暗躍」
「……はあ?」
意味が分からないので、桜の方を見やる。彼女は眉を下げて苦笑した。
「桂木は一番町との交渉をしていたのです。たった今戻ってきたばかりでして」
桂木はまっすぐに向かってきたが、八重の隣をすり抜けてさらに奥へ進む。テレポーターの前で足を止めると、「どうも」と人のいい笑みを浮かべた。
「きさまは、五番町の――」
「君らの町、相当厳しいでしょ。ただでさえ戦力が少ないのに、僕たちとやりあったばかりだもんね。だから五番町からも戦力を回して、一番町を守ってあげる。そういう合意をしてきた」
「な、なんの情けを……」
「取引だよ、取引」
朗らかな口調で語りかけているが、どこか洗脳じみている。
張り付けたような愛想。人の心を見透かす、温度を感じさせない瞳。ああこれは――と八重は舌打ちをした。覚えのあるシーンはかつて八重が経験したものだ。
「代わりにこの場の指揮権は僕がもらう。悪いけど、少なくとも今の時点でチセさんは女王にするつもりはない。――影の頭領は僕らの手で討つ」
「なぜ! 彼女の力を使えば、もっと簡単に……っ!」
「理由は大きく分けて二つ。一つ目は、君ら仕立てのチセさんを女王にするのはリスキーすぎる。彼女の力が不完全なのも分かっているしね。結局のところ、上手くいく保証はないでしょ」
「それでも――」
「二つ目。これはまあ、僕の個人的な問題」
立てられた人差し指と中指。
桂木は目を細める。
「そういうのは僕好みじゃない」
あたりはしんと静まって、遠くで瓦礫の崩れる音が響いていた。
「…………は?」
絶句するテレポーターの顔を見てしまった八重は、「ふはっ」と噴き出した。咄嗟に口元を抑えて顔を背けるが肩が震えを抑えきれない。チセまでぽかんとしているからますます笑いがこみあげてきて、しばらく顔をあげられなかった。
散々彼を罵ってきた八重だが、だからこそ知っていることもある。元来、桂木はこういう人間だ。
策を巡らせて弱みに付けこみ、人心を掌握して操る。何でも利用する。罪悪感とは無縁で、必要なら卑劣な手段も辞さない。
そして、ただただ理想を思い描いている。
自分だけの理想を。
――僕は僕の理想の町が欲しいんだ。
出会ったあの日、何も持たないただの青年だった桂木はそう言った。そして今この場に立っている。彼の世界では、尊厳を踏みにじられてなお立ち上がる少女を生贄にするなど許されないのだ。桂木のやり口はまったくもって気に食わないが、こういうときはいっそ爽快ですらあった。
はーっと長く息を吐いて呼吸を整えて、彼の方を向き直った。
「桂木」
「うん?」
「今の俺は珍しく、最高に気分がいい。だからたまにはおまえに踊らされてやるよ」
桂木は「それは助かるね。僕の一人勝ちだ」とからから笑った。
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