第36話 空を泳ぐ


「キュー!」


 目の前に立ちふさがるように影が生まれる。地面からめくれあがるように立ちあがった影は十体。八重は両足で勢いを殺して立ち止まり、しかし向こうを見やった。チセたちが向かったであろう世界の中心、円月城ははるか遠くだ。


「……こんなところで時間つぶしてられるか! 強行突破!」

「きゅう!」


 襲いくる影の刃を寸前で避けた。背を逸らして、顔すれすれを通っていく刃を見やりながら後ろに手を付く。地面を蹴りあげたついでに影も足蹴にする。くるりと一回転して着地。一瞬開けたところを走り抜ける。

 祭は影の頭を踏みつけながらぴょんぴょんと先へ進んでいた。八重も後を追う。間をすり抜けるようにして影の群れを押しとおる。


「っても、そう上手くはいかないか」


 苦笑いとともに吐き捨てた。

 息を吐く暇もなく次の影が生まれていた。


 前方に新しく二十体、後ろからは避けてきた十体がのろのろと追ってくる。このままでは挟み撃ちだ。祭はじりじりと下がって八重と合流した。「みゅう?」と短く鳴くのは、どうするのかと訊いているのだ。


 眉間にしわを寄せるが、敵は待ってくれない。祭が甲高い鳴き声を発した。

 影がゆらめいてこちらへ向かってくる。後ろに下がろうとして、だが下がりすぎてもいけない。その場に踏みとどまった八重は拳を握りしめた。


 下駄からわずかな振動を感じ取ったのは、足を踏み出す直前だった。


「――跳べ!」


 誰の指示かは分からなかった。

 しかし直感的に跳ねていた。できるだけ高く。


 影と八重たちの真横から、建物を突き破る衝撃音が響く。土煙の中から伸びた蔦は地を這うようにして素早く影を絡めとった。ぎゅうぎゅうと圧迫された影は歪に膨れあがり、そして水風船のごとく破裂する。宙に浮いていた八重は「上手いな」と呟いた。

 縦横無尽に土を覆いつくす蔦へ降り立って、蔦の先を視線で伝った。


「これは借りていた分を返しただけだ。礼はいらない」


 舞う土煙のなかでも赤い袴はよく映える。


「俺はおまえに何か貸しつけたつもりはないけどな――椿」


 柔らかな短髪と、凛々しく強気な目元。椿は涼しげな顔ですたすたと歩いてくる。八重の隣までやってきた椿は、むすっと目を逸らしたまま「円月城までは私が同行する」と宣言した。


「…………どうした、何かつらいことでもあったのか?」

「本気で哀れむな! 桂木様の命を受けたまでだ。そうでなければおまえに同行などするものか!」

「だ、だよな。だがもしかしたら過酷な労働環境で転職でも考えているのかもしれないと」

「百歩譲ってそうでも、おまえにだけは世話にならない。そのくらいならドブに飛びこんで死ぬ!」

「何と何が比較されてるのかさっぱり分からないぞ、それは」


 じろりと睨まれたので、「助かる、助かります」と両手を上げてから走りだす。わずかに遅れた椿もすぐに追いついて並走した。


「それで、桂木はなんて?」

「円月城までおまえを援護せよとだけ。それよりチセ様はどうした?」

「……おまえまでそれかよ。あー、今からあのじゃじゃ馬を迎えに行くとこだ」


 チセが一番町についたということは、目的は同じだ。

 影である淡雪に円月城を占拠されれば負けが確定だ。八重たちはそれを阻止しなければならない。つまり決戦の場が円月城であることは間違いなく、そこへ向かえば出くわすはずなのだ。


 八重たちは徒歩で向かうほかないが一番町の移動手段は多い。あの車をきちんと運転できる人員がいるのなら、圧倒的な速さで到着できるだろう。


 円月城まで残り五百メートル。

 あと少し。

 あと少しで――そのとき不意に思い浮かんだのはチセを連れて行ったテレポーター。彼女がいるのなら、一気に城内へ飛べるのではないか――?


 誰でも考え付くようなことを実行しないはずがない。

 八重がふと見上げたとき、城の周囲で突如、何かが発光した。目の奥に閃光が突き刺さって眩む。椿が目元を抑えながら顔を背けた。


「落雷か……⁉」

「それにしては音がまったく――待て椿、何か見えないか?」


 城の頂点から豆粒のような影が二つ、落下してくる。

 よく目を凝らせば人影だとわかる。白装束が一つ、もう一つははためく黒髪――。


「チセ様⁉」

「なるほど。ショートカットしようとする不敬者には、ああやって罰が下るってわけか!」


 女王の住処である円月城に、何の防御も施されていないはずがない。

 異能を使って無理やり押し入ろうとすれば、結界で弾かれるようにできているのだ。おおかた、天守まで飛ぼうとして返り討ちにあったというところだろう。


「あの高さから落ちれば、チセ様は肉片も残らない!」

「だろうな! 毎度毎度、空から降ってくるのが好きな奴だな……! 椿、回収しろ!」


 椿は懐から数個の種を取りだす。宙にまいて、異能を発動させた。水もなしに芽を出した若葉は、尋常でない速度で茎をのばし、幹となり、枝となる。急速に膨らんでいくそれは真っ直ぐ城へと伸びていく。

 だが椿の顔からは血の気が引いていった。


「駄目――私の異能では距離が足りない! 間に合わない!」

「どのくらいだ⁉」

「六……いえ、七メートル!」

「なら道を作ってくれるだけでいい! 足りない分はこっちでどうにかする!」

「……っ、土台はできた! 八重!」


 空へと伸びる大樹の幹に飛び乗った。一心不乱に駆けあがる。

 何も考えない。足だけを動かす。生い茂る枝葉は青々としていた。身体はどんどんと地面を離れていって、頼りになるのは今踏みしめている幹だけだ。高さは増し、空が近づき、チセとの距離は縮む。


 幹の先端へとたどり着いた八重は、その足を止めことなく勢いのまま踏み切った。

 力強く、蹴る。


「……ッ!」


 身体は宙を舞った。


 祭が追って、八重の背を蹴り飛ばすように飛びついてくる。

 足裏から地の感覚が消えて、浮遊感に内臓がすくんだ。全身に風を受ける。

無謀な飛躍。

 だがまだ届かない。彼女との距離があと少し縮まらない。


「チセ!」


 空は青い。視線が交わった。


 落下していくチセが信じられないような顔をして八重を見ていた。いっぱいに見開かれた金色の瞳。八重は腕を差し出した。自分の力だけで届かないのなら、こう言うのだ。


「こっちに手ェ伸ばせ!」


 チセは唇をはくっと動かした。無意識に上げかけた手を抑えるように引っこめて、指先をそわりと動かし――そして、ためらいがちに手を伸ばす。

 互いに伸ばされた手は寸前のところですれちがった。肩の関節が軋むまで腕を向こうへ。


 指先がかすった。


「――!」


 瞬間、掴んで引き寄せる。握りしめた手が熱い。

 一度捕まえたらもう離さない。


「…………なんで来ちゃったかな」


 弱々しく握り返すチセは、顔を上げない。


「私、もう八重に助けてもらえる立場じゃないんだよ。八重は五番町の人だけ守ってればよかったじゃん。そうするって言ってたくせに。なのになんで来ちゃったの?」


 チセはぼそぼそと呟く。それがどこか拗ねたような口調だったから、思わず噴き出してしまった。「私真剣なんだけど⁉」と空いた足で脛を蹴られたが、掴んだ手は離さない。ひとしきり笑って八重は目元を和らげた。


「おまえだから来たんだ」


 八重は言い切った。はっきりと、真正面から。


「おまえだから、来た。一緒に楽しいことをしよう。これからもずっと」


 囁くみたいに告げる。

 理由なんてそれだけでよかったのだ。

 黙りこんだチセは一瞬唇をぎゅっと力ませて、震わせた。そしてふっと緩める。


「そっか。いいね、そういうの」


 チセはいつものように晴れ晴れと笑ってみせた。


 八重の銀髪はばさばさとたなびいている。

 いまだ宙を舞い続けている一人と一匹の身体は落下していく一方だ。遠いように思われた地面もだいぶ近くなってきた。


 墜落までそう時間は残されていない。

 チセは笑みを浮かべたまま、恐る恐る口を開いた。


「ところでさ。…………これどうやって着地するの?」


 八重と祭は顔を見合わせたまましばらく黙りこみ、神妙に頷いた。


「問題はそこだな」


 珍しく祭と気が合った。チセの晴れやかな笑顔はゆっくりと凍り付いていく。感動的な空気は一瞬にして消え失せて、全身の浮遊感が意識される。

 つまり、何一つ解決策がないのだ。


「まさかのノープラン⁉ そんなことってある⁉ 何も考えずにスカイダイビングする人いる⁉」

「騒ぐな、手離すぞ!」

「着地できなきゃ一緒じゃん! なんとなーく嫌な予感してたから訊けなかったんだよ!」


 飛んでしまったものは仕方がないので、今は考えるしかない。

 八重は地面に叩きつけられて全身が原型をとどめなかろうが、異能で治ってしまう。八重が庇いながら落ちるのは一案だったが、脳内ですぐさま却下された。この高さでは誰から落ちたところで木っ端みじんだ。


 ここまで道を作った椿に頼れるならそうしたいが、異能を暴発させたばかりですぐには使えない。こちらに走ってきているのは見えるが、八重たちが地に落ちる方が早いだろう。


 ならば何かに掴まるしかない――が、見渡す限り開けた空である。一番近いのは円月城だが、十メートルは離れているので届くはずもない。


「じゃあなんか投げるのはどう⁉」

「投げる⁉」

「こう、縄とか引っかける感じでさ! それでぶら下がるの」

「おまえ日ごろから縄持ち歩いてるのか?」

「あー、うん、だよね。持ってないよね! そんなの緊縛趣味の人くらいだよね!」

「緊縛趣味でも家に置いてくるだろ!」


 だが投擲――発想そのものは悪くない。

 縄は持っていないが、代わりに投げられそうなものはないか探す。懐を片手でまさぐっていると、祭が「みゅッ」と鳴いた。恐らく触るなとかそういう意味だったのだろうが、八重は「お」と声を発してニヤリと笑う。


「ちょうどいいもんがあるじゃねえか、こんなとこに」

「……きゅう……?」


 祭もうっすら察したらしい。

 刺々しい態度を一変させ、か細い声で媚びるように鳴いたが、八重には一切通用しない。普段噛みついてくる獣が情を乞うたところで可愛くないのだ。


 祭はまだ嘆くが、他に手がないのだから致し方がない。一通りの作戦を説明した八重は、片腕でチセを抱えこんだ。チセも手足を絡めて八重の身体にしがみつけば準備は完了だ。


「祭、よろしく! 本当に!」

「あとで好きなだけ献血して回復させてやるよ。楽しみにしてろ」


 祭はぐるぐる唸り声をあげるが、腹をくくって身体を変化させる。

 祭の燃費は悪く、ある意味チセ以上だ。だからこそ普段は異能にリミッターをかけて制限している。力を使い果たせば休眠で間に合わず、八重に頼り――吸血する羽目になるからだ。


 だがその嫌悪さえ勘定に入れなければ全力を出せる。祭の本気は実に七十年ぶりだ。光り輝く槍は八重の背丈まで伸び、それを越えてさらに――。


「……いくぞ! 振り落とされるなよ!」


 背に縋るチセの手に力がこもった。

 八重は全身をひねりながら槍を振るう。両腕の筋肉がビキリと痛んだ。肩が外れる寸前だ。重心もバランスもまるで取れていない。槍はまだ長さを増す。穂先は城壁へ。


 巨大な槍から衝撃が伝わって、両手の感覚がなくなりそうなほど痺れた。腕の血管が浮くまで握りしめて耐える。血流が止まりそうだ。指先が白い。


 穂先が城壁に突き刺さった。

 刺さったが、勢いのまま壁をガリガリと削りながら滑り落ちていく。八重たちの身体も下へ。


「ッ、止まれ!」


 速度を殺しきれない。前へ押しこむ。限界まで。


「止まれ――ッ!」


 槍が上下にしなった。吹っ飛ばされそうなな揺れに耐える。しばらくすると揺れも収まり、両腕に自分とチセの全体重がかかって、息を詰まらせた。


「…………重い」

「…………それ全部八重のせいだから。痩せた方がいいよ」


 足がぶらりと揺れた。

 風に吹かれながら宙ぶらりんになっている八重とチセは、どうやら墜落をまぬがれたらしい。同時に「ふっ」と息を吐き出し、げらげらと笑いだした。

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