第35話 鮮烈な一秒
大通りから裏道へ入り、角を曲がる。下駄も脱がないで議会所へ飛びこんだ。
「桂木はいるか⁉」
だだっぴろい大広間の畳には一面地図が敷かれ、紙が宙を舞っていた。
日ごろは肩が痛いだの腰が痛いだの言っている老人たちも、今日ばかりは杖を指示棒に、慌ただしく指令を飛ばし続けている。臨時の司令部となった議会所には、ありとあらゆる情報が流れこんできてパンク寸前だ。
「桂木の小僧ならどこかへ行ってしもうた! あやつはどんな感性をしておるんだ⁉ 巫女衆まで半分持っていきよって!」
「それは……まあ、ご愁傷様だな。頑張ってくれ。状況は?」
「めちゃくちゃだ! めちゃくちゃだが――持ちこたえている。区画ごとに巫女衆を送りこみ、住人の指揮を取らせておる。数時間はもつだろう。その間に本陣を叩けねばどのみち全滅だがな」
「町の守備に人員を割いているから、部隊を組めるほどの戦力は残っていないわけか」
「それよりそなた、チセはどうした?」
書類に目を走らせたままで老人は言った。
一瞬言葉に詰まる。今日はそればかり聞かれている気がする。
「……あいつは一番町についた。これ以上は俺の知ったことじゃない。回収したいなら町内会から俺に命令しろ。それでこちらに協力してもらえるかも微妙だけどな」
できるだけ淡々とした声色で言ったつもりだ。だが老人はぴたりと視線を止めて顔をあげた。八重をまじまじと見つめる垂れた目元は、見透かしてくるようで居心地が悪い。「なんだよ」と乱暴に訊き返すと、皺だらけの口元がもぞりと動いた。
「これは若者からの助言じゃがな――あまり意固地になるのは見苦しいぞ、じじい」
八重はすぐさま口を開いたが、「伝令!」の大声に遮られた。
ぼろぼろの数人が駆けこんできて新しい情報が飛び交う。再び部屋中が忙しなく動き始め、今まで会話していたはずの老人も八重のことなど見向きもしない。八重はぽつんと置き去りだ。
「……結局俺はどう動けばいいんだ! 桂木がいないなら町内会から指令をくれよ」
「はっ、知らんわ! 好きにしろ!」
「そんな雑な指令があるか⁉ 状況を見ろよ、状況を!」
床に手を付き、身を乗り出そうとしたとき、後ろからちょんちょんとつつかれた。
反射で振り返ると、そこにいたのは巫女装束をまとった少女であった。「向日葵か」とひとり言を零せば、「議会所の守備担当です!」と明るい声が返ってきた。
「町のことなら私たちに任せてください! 八重様には行かなくちゃいけない場所がありますよね?」
背をバシンッと叩かれていい音が鳴った。ぎょっと全身を強張らせている間に、向日葵はてくてくと戻って行ってしまった。
本当にそれだけで、誰も八重に指示を与えてくれない。
しばらく呆然としていたが、いても仕方ないのでふらりと立ちあがって議会所をあとにした。
議会所のあたりは守りが固いとはいえ、少し歩けば戦況は同じだ。影は町のありとあらゆるところを這い、巫女衆と警邏隊が駆けまわり、住民は見よう見まねで武器を振るって家の前で仁王立ちしている。誰も逃げない、戦っている。
必死な抵抗で、見たこともなかった光景。けれど延命でしかない。今は拮抗していても、脱落者が出始めたらそこで終わりだ。
ふと八重の足が止まる。
「どいつもこいつも同じことばっか言いやがって……」
俯いて、呟いた。
唸るような声は雄叫びにかき消された。
チセは自分で選び、自分から五番町から離れた。それが何を意味するかも理解していたはずだ。それでも行ってしまったのだから、八重との関係はそこで断ち切られた。繋がっていたか細い糸が切れて、終わった。それだけの事実が転がっているだけだ。そこに何の疑問を抱く余地もない。ひどく単純な話だ。
チセも言った。
一緒にいるための理由がない。
そう、理由がないのだ。何一つ。
八重の信条と契りは、これ以上の繋がりを許さない。
「……これまでしてきたことを、これからも……」
いつの間にか浅くなっていた呼吸をゆっくりと整えて、煙草の煙を吐き出すときみたいに深くした。穴だらけの軒下にもたれかかって、ぼんやり空を見上げていた。すっかり日ものぼっていて、今日は雲一つない晴れやかな青空だ。皮肉なほどに。
「…………」
抜けるような青空に、ふと記憶が呼び覚まされる。
いつだったか、真夏の晴天の日にチセが水鉄砲を持ってきたことがあった。
木でできたボロの水鉄砲だ。
近所の子どもから譲ってもらったのだと言って、八重の分まで渡してきた。そんな遊びに付き合うつもりはなかったので、八重は縁側に腰かけ、走り回るチセと祭を眺めながら槍の手入れをしていた。
だが彼女らもすぐに飽きたたのだろう、あろうことか、八重に向かって水をかけ始めたのだ。ひたすら顔面だけ狙って。執拗に。
八重がそばに放っておいた水鉄砲を握りしめ、立ち上がったのは数秒後である。
結果といえば馬鹿馬鹿しいものだ。
バケツでもひっくり返したかのような有様になった二人と一匹は、洗濯物も全部濡らしてしまったので、そのままの恰好で仕事に向かう羽目になった。道行く住人に「滝修行の帰りか!」とからかわれたのもよく覚えている。
暑いのか寒いのかかよくわからなくて、道には水浸しの足跡が三本続いていた。
はぁ、と息をつく。
そんなことばかりだ。
――そんなこと、ばかり。
チセがいると、いつもろくなことにならなくて、気付けば八重まで巻きこまれていた。
思えば出会った日から散々だ。
いきなり空から降ってきたかと思えば、いきなり狙われ、あげくに少し目を離した隙にもう一回誘拐されるでまったく忙しい日だった。
影狩りに連れていったときもそうだ。チセの救出劇は地獄のドライブへと成り果て、車とやらは大破した。あんなものはもう二度とごめんである。心臓がいくつあっても足りやしない。
一番町に攻めこんだときなど、最高の挑発をかましたせいで砲撃の雨あられ。チセを抱きかかえて全力疾走させられた。あれほどの火薬の無駄遣いは他になくて、彼女はけらけらと笑っていたし、つられて八重も笑ってしまっていたのは二人と一匹の秘密だ。
轟音が響く。地面が振動して、細かな瓦礫が降ってくる。遠くで煙が揺れていた。
チセといると、本当にろくなことが起こらない。
たくさん巻きこまれた。
暴れまわった。
開き直って遊んだ。年甲斐もなくはしゃいでいた。
「…………違う」
否定の言葉を口にしても、思考は止まらない。
「違う、違う、違う…………」
寂しさなど感じる暇もなかった。
無駄なことが、無駄だと思えなくなった。
永遠に続くはずの一秒が、なぜだか時々惜しくなった。
愉快だった。痛快だった。
「………………」
楽しかった――最高に。
八重の揺蕩うような、とりとめもなく薄れゆく人生のなかで、最高に楽しかったのだ。チセと祭と、二人と一匹の日々は特別に輝かしくて、何にも代えられないものになっていた。
本当はもう、知っていたのだ。もとの孤独には戻れないことを。
どうしようもないくらい。痛いくらい。泣きたくなるくらいに。
「――ッ、くそ!」
喉の奥が熱い。
走るしかなかった。叫んで、地を蹴る。一瞬足がもつれて前に倒れかけて、すぐに立て直してもう一歩を前へ。走った。祭が並んで八重の隣を進む。
理由なら最初からあった。
一緒にいるのが楽しい――だから一緒にいる。それだけでよかった。
それだけでよかったのだ。きっと。
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