第32話 押しかける1人と1匹


 地下室から脱出後、一番町と和睦を交わし、諸々を話し合っているうちに日は一周してしまった。八重たちが家に戻ってこれたのは、空の端からオレンジ色が消えた時間である。


 丸一日しか経っていないというのに、五番町の景色がやけに懐かしかった。

 穴だらけ泥まみれの服を着替え、食事――相も変わらず野菜炒めしか作れない――を済ませて、風呂にも入って、としているうちに時間は過ぎていく。


 身体は鉛のように重く疲れきっていた。大した会話もすることもできず、真夜中。

 八重は自室に布団を敷いて、だが寝転がることはなく窓辺に近づいた。


「やるべきことは決まっている。最初から」


 ランプの火を消して、部屋は暗い。い草の香り漂う畳に座りこんで窓枠に肘をついた。

 二階から大通りを見下ろした。道のところどころに灯された光は、一番町のものよりずっと薄暗いし、ちらちらと揺れて目に痛い。古びた木造の家も、錆びた看板も、比べるまでもない。


 遅れた町だ。

 それでもこの町を守りたかった。


 ――守らなければならない、と言い聞かせてきた。


 何も考えずにいる方が楽だ。あとで苦しくなるのは自分なのだから。

 好きになっても嫌いになってもいけない。余計なことを考えるから、裏切られたとか恨めしいとか、そんな生産性のないことを思ってしまうのだ。


 指先で窓枠をなぞる。薄い埃が線を作って、わずかに曲がりながら伸びていく。


「やるべきことは、決まっている……」


 何度も繰り返した。掠れた声で呟いて、言葉にして、納得させる。

 今までずっと同じことを繰り返してきた。

 それで八重は戦えた。愛せたのだ。


 背にある契約印が八重のすべてで、生かされ続けている意味そのものである。


 ほどいた銀髪が夜のそよ風に揺れるので、背中に流してまた外を眺める。どこからから虫の声が聞こえた。いつもと何も変わらない静かな夜だった。


 そして、そんな穏やかな空気をぶち壊すのはやはり彼女である。


「一緒に寝よ!」


 スパンと障子を開け放ったチセは、小脇に枕を抱えていた。足元には祭もいる。祭の方はすでに半分夢の中にいるが、律儀にチセに付き添っている。


「……なんて?」


 ぽかんと口を開けていた八重は、聞こえていたのに訊き返した。チセはにっこりといい笑顔を浮かべながら「一緒に寝よ!」と繰り返した。


「回れ右しろ。それで帰れ」

「なんでよお」

「年齢を考えろ、年齢を」

「三百年間コトコト煮こんだ煮こごりみたいな性癖があるなら遠慮しとくけど」

「そんなわけがあるか!」

「じゃあいいじゃん。お邪魔しまーす」


 とりあえず聞く耳を持たないことだけはわかった。無遠慮に敷居をまたいだ彼女は、部屋の中央に敷いてある八重の布団の枕をどかし、自分の枕を置いた。


「しかも俺の布団を乗っ取る気か」


 戸棚を指さして、「もう一組あるから自分で敷け」と言うが、彼女は「えー」とぼやいたきりである。結局、チセが戸棚に向かうことはなく、数秒前まで八重の布団であったものの上にあぐらをかいた。


「それで、何の用だ」

「用事じゃないよ。一緒に寝にきただけだってば」


 彼女は笑いながら祭の背を撫でた。完全に寝落ちてしまった祭は、布団の隅で丸まっている。まるで出ていくつもりのない一人と一匹に深くため息。もうどうとでもなれという気分だ。


 衣擦れの音がかすかに耳に付いた。

 片膝を立てて窓の向こうを見つめる。彼女に一言、言わなければならないことがあった。


「悪かったな。……何もしてやれなくて」


 顔を背けたままで言った。もうチセの願いを叶えてやれる手段はなく、行き止りだ。彼女はしばらく黙っていたが、「八重」と短く名前を呼ぶ。やがて言葉を選びながら言った。


「私ね、別に元の世界に戻りたいとか、そういうのはないんだ」


 はっと振り返る。チセはにこりと微笑んでいた。


「だってなんにも覚えてないんだもん。本当に何も。だから会いたい人とかいないし。帰りたい場所もないし。なんていうのかな、未練みたいなものが全然ないんだ」

「チセ、それは」

「覚えてないなら最初からないのと一緒じゃん。発想の転換っていうのかな? おかげでこっちの世界にもすっかりなじんじゃった! 八重と祭が一緒にいてくれるから、普通に暮らせてるよ。桂木さんはアレだけど悪い人じゃないし。桜とか椿も優しくしてくれるし」

「……チセ」

「だから、もういいんだ。これで本当におしまい」


 彼女は膝の上に置いた手をゆるく握りしめる。八重の顔を見ない。


「八重が私のためにいろいろしてくれたのは嬉しかったけど、でも仕方ないよ。無理なものは無理なんだから。私、それで困ってるわけでもないしね!」


 八重は床に手のひらをついた。体重をかけて腰を浮かして立ち上がる。

 ずかずかと近づいてくるのを見た彼女は、素っ頓狂な声で「八重?」と声をかけてきた。背をのけぞらせて八重を見上げる。金色の瞳はやや見開かれて、八重をいっぱいに映していた。


「…………」


 手を伸ばした。ゆっくり伸ばして、チセの頭に触れる。手のひらを大きく動かして撫でた。艶のある黒髪が指の間に絡んでくすぐったかった。


 黙って、ただ頭を撫でる。


 彼女はふと顔を伏せて、それきり八重と視線を合わせようとはしなかった。されるがままで、振り払うこともなければ身をよじることもなかった。それでも「やめてよ」と呟く。


「やめてよ、子どもじゃないんだから」


 声は少し震えていた。

 すんと鼻を鳴らしている。


 さてどうしたものか、と一瞬手が止まったが、しかし身体は自然と動いていた。彼女の背後に腕を回して引き寄せる。身体がくっつかない距離で抱き寄せて、背をぽんぽんと優しくたたいた。世界の命運を押し付けるには小さすぎるその背を。


「それはおまえが傷つけられていい理由じゃない」


 言いたかったのはそれだけで、きっともう充分だ。

 左肩にチセの額が押し付けられた。顔をうずめた彼女は、ひとり言のように小声で言う。


「……全然思い出せないの。何度も考えてみたけど駄目だった。何もわからない。頭の中が全部空っぽになっててね、それが時々、とても怖くなる……」


 チセが顔を上げることはなく、しばらくしゃくりあげていた。その間八重はずっと背をたたいてなだめていた。手首ににぶく倦怠感が広がる。いつの間にか祭も起きだして、彼女の膝に頭を乗せていた。


 今までずっと、チセを強い少女だと思っていた。

 どんな時でもあっけらかんと笑っていて、誰とでも上手くやれてしまう。子どもっぽいところはあるが、その実冷静で察しも良く、窮地を切り開くのはいつだって彼女だった。


 だからこんな風に泣くのを、八重は初めて見たのだ。


 強いだけではないことを知ってしまった。

 一度知ってしまったら、もうなかったことにはできない。


 彼女が泣いていたのは五分くらいのもので、ふと気付けば呼吸もすっかり落ち着いていた。


「……ねえ、ついでに一個訊いてもいいかな」


 ああ、と短く言う。それが悪手だと気づいたのは訊かれたあとだ。


「淡雪って誰?」


 彼女は顔を上げないままで言った。思わず離れようとするのを、羽織を握られて封じられた。あの時呟いてしまったのを聞いていたのだろう。誤魔化そうかと適当な言い訳を組み立てるが、チセは無言で着物を引っ張った。どうやら大体の事情は察しているらしく、知らぬ存ぜぬで押しきることは難しそうだ。


 くそ、そっちが本題だったか――と今さらながら思う。八重は奥歯を噛みしめた。


「……あいつは素直な奴だったんだ」


 逃げられそうにない。

 そう悟って、静かに言葉を紡いでいく。昔話を語り聞かせるように。


 彼女は口を挟むことなくただ聞いていた。顔はうずめたままだから、彼女がどういう感情を抱いていたのかは想像するしかない。ずいぶんと時間をかけて最後まで話し終えた八重は息を吐く。「これで満足か」とやや冷たく尋ねれば、首筋のあたりでチセの身体がもぞりと動いた。


「八重は五番町の用心棒だから、あの人と戦うの?」

「…………そうだ」

「なんかさ、全然楽しくないよね。こんなの」


 チセはそう言って、八重の身体から離れる。少しうるんだ蜂蜜色の瞳が八重を見た。


「前はもっと楽しかったのに」


 楽しかった? そんなこと、考えたことすらない。

 八重は肯定も否定もできずに、遠くで響く秒針の音を聞いていた。

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