第31話 地下室に踊る影(3)
チセの言葉には誰一人逆らうことができない。
それは影であろうと同じで――淡雪から伸びる影もピタリと停止していた。
「……っ、……っ!」
魂の屈服、敗北感。
まごうことなく最強の異能だ。
出し惜しんできたのは制御ができなかったからである。声の届く範囲すべてを巻き添えにしてしまううえ、一度使えばそれで最後、チセは欠乏症になって失神してしまう。リスクが大きすぎて自滅覚悟の特攻でしか使い物にならない。
しかし。
「総員、構え! 射れ!」
巫女衆は一斉に弓を引き絞り、矢を放った。直線軌道を描きながら淡雪へと注がれる。桜の異能によって加速された矢は、威力を増しながら影を切り裂く。
チセの命令に縛り付けられている八重と淡雪、そして自由に動ける巫女衆。
ほんのわずかなコントロール――志向性を覚えたのだ。
今までは全方向に何の制御もなく、でたらめに異能を発動させていた。それを視線の向き、すなわち視界に入ったものだけに制限する。すると離れた位置にいる巫女衆には作用せず、止まった敵を狙い撃つことができるのだ。
おまけに力をセーブすることができるので、チセも一度での失神を避けられる。
本来はそのまま攻撃に戻る予定だが――。
「いった……身体、痺れた……」
彼女は祭を握りしめながら、よろよろと身体を持ち上げた。背中の打撲が効いているのかふらついている。立っているだけでも精一杯だ。すでに限界で、戦力としては数えられない。だがチセが作り出したのは被害を上回る戦果だ。
五秒。
たったそれだけの時間、短すぎる猶予。しかし何よりも貴重な五秒で十四本もの矢が命中する。
八重たちの身体から圧が消え、硬直が解けた。
動きだしたのはほぼ同時だった。
八重は振りかぶっていた槍を勢いのまま振り下ろす。どこが弱点かなど分かりはしない。とにかく首のあたりを狙って、大きく踏み出す。
淡雪は穴だらけになった影を一度引き戻し、自身の中でこね回してからまた繰り出す。狙いは八重だけに向けている。
一瞬のうちに脳内で繰り広げられるシミュレーション。
受けて、流して、懐に飛びこむ。
「――いける!」
槍を回転させた。真正面から受ける格好をしながら、その実、身体を転回させられるように足をわずかに横へ。飛んでくる影の帯に備えて重心を落とす。
衝撃がくると思っていた。だから構えていた。しかし予想はあっさりと裏切られる。槍に衝突する瞬間、影は傘のように広がった。八重の視界は黒く塗りつぶされる。
「…………は?」
ぱくん、と。
八重は飲みこまれる。影の中へ。
「は⁉」
何が起こったのかは考えるまでもなかった。すぐさま身体をひねって背後を向く。逃げなければ。だが真後ろも真っ暗闇に包まれている。ついでに横も、当然正面も暗闇しかなく、八重の退路などどこにも用意されていなかった。
四方八方、影。八重は穂先を足元に向けた。
「なんだこの状況……。俺もついに死ねるのか?」
「残念だけど死ねない」
返事があった。暗闇が揺らめいて、彼女はどこからともなく現れる。
「それに飲みこんだんじゃくて、覆ってるだけ。二人だけで少し話をしたかったから」
さきほどまで戦っていたとは思えないほど、平然とした態度だ。
てくてくと自分の足で歩み寄ってきた淡雪は、あと一歩分の距離を残して立ち止まった。手を伸ばせば届く近さで彼女はそこにいる。あの日から何一つ変わらない姿で。
まだ信じられなかった。
何か夢を――最低の悪夢でも見ているような心地だ。
何を言おうかと思った。何を言えばいいかわからなくて、乱れた思考を誤魔化すようにゆっくり息を吐いた。心音はいまだ早鐘を打っている。意識的に声のトーンを落とす。
「場所まで用意してもらって悪いが、その前にはっきりさせないといけないことがあるだろ」
「私が本物の――八重の知ってる淡雪かどうかってこと?」
不意に顔があげられて、群青の瞳が覗きこんできた。穏やかで理知的な雰囲気の中ににじむ少女らしい純真さ。八重を信じてやまないそれは、いっそう八重の傷をえぐってやまない。
「言わなくちゃ、分からない?」
「……いや、もういい」
静かにかぶりを振った。こんなものは愚問で、墓穴を掘っただけだ。分かりきっていることを訊いても何の解決にもならない。八重は眉を下げて、「おまえは」と続けた。
「おまえはとっくに骨になってる頃だろ……。なんでまだ生きてる?」
「私はたぶん生きてない。だけど死んだとも言えない」
彼女は着物の襟ぐりに手をかけた。ぐっと布をずらして隠されていた肌を露出させる。「おい!」と声をあげてつい顔を逸らそうとするが、しかし八重の視線は鎖骨に吸いこまれていた。華奢に浮き出した骨のすぐそばに浮かぶ、刺青のような図柄。
嫌というほど見覚えがあった。
「――契約印?」
肌に刻みこまれているのは、羽を広げた蝶の姿だ。模様まで繊細に描かれている。
「こんなの、するつもりじゃなかったけど」
「契約相手は⁉」
「さあ。私も本当のところはよく分からない。でも言葉にするならきっと、世界そのもの」
爪先で線を辿り、強くひっかいた。赤く傷になるはずなのに、黒い影が煙となって立ちのぼり、すぐに元の皮膚に戻ってしまう。彼女がすでにただの人間でない証だ。
「私は死の間際、ただ呪っただけなの」
ゆらりと手が伸ばされる。日焼けを知らない白い肌が八重の頬に触れる。
「呪った。みんな死ねばいいのにって。どうしても――どうしても許せなかったから。私は私の信じていたもの全部が急に消えてしまって、それ以外どうしようもなかった」
「……あれは誰も何も悪くなかったんだよ。ただ、いつかああなるのが必然だっただけだ」
「嘘を吐いて、騙して、嘲笑って、裏切ることの、何が悪くないの?」
答えられない。淡雪の指が頬のラインをなでる。
「呪って、それで私は死ぬだけのはずだった。……なのに気づいたら影に飲みこまれていた。真っ暗な場所で何も分からなかった。でもそのうちに契約印がつけられて私は契りを結んでいた。契約内容は影との一体化――私は影として行動できる。代わりに差し出したのは命の概念」
「命の、概念」
「だから八重、私は生きているのでも死んでいるのでもないの。ここに存在して、斬られたら消滅する。ただそれだけ」
目が細められた。
それは人として生き、人として死ぬことを許されないということだ。
「……その契りは破棄できないのか……?」
「できると思う」
「っ、なら今すぐ!」
「でも、しない」
トンと八重の肩を押して、ゆっくりと後ろに下がった。今度は八重が一歩足を踏み出したが、しかしそれ以上進めない。足首に影がまとわりついて、地面に縛り付けられているのだ。槍で斬り裂こうと腕を持ち上げるが、腕にまで影は伸びてくる。もがいても解けない。
「淡雪!」
「もう決めたことだから」
彼女は強く言い切って、大きく腕を広げた。
「私はすべての町を侵略する。すべての住人を飲みこんで、すべてのものを滅ぼす」
――それが私の願いで、私の復讐。
淡雪はそう言い残して、影の中へと消えていった。
八重が影の中から解放されたころには、地下室は見るも無残なことになっていた。機械はすべてがめった刺しにされて、残骸としか呼べないものがそこら中に散乱している。床も壁も天井も大きくえぐり取られて崩落寸前だ。
八重が淡雪と対話していた間も、外では戦闘が続いていたらしい。
彼女が去ったのも、結界を破壊するという目的を達成したからのようだ。
チセは祭を抱きしめたままで倒れていて、それを庇うように桜と数人の巫女が立ち塞がっている。現れたのが立ち尽くす八重一人だとわかると、それぞれ武器を下ろした。
「八重様、ご無事でしたか」
それどころではない。力なく首を振って、詰めていた息を吐く。
八重は槍を握りなおした。
「影の侵攻が始まる」
かつてない危機がすぐそこまで迫っている。
敵は、淡雪だ。
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