第30話 地下室に踊る影(2)
喉から絞りだしたような悲鳴があちこちで上がった。心臓がずくんと高鳴って、好き勝手に暴れまわる。脈が乱れて呼吸ができない。所長は前のめりに倒れて額を床につけた。桜はうずくまりこそしなかったが、襟ぐりに皺がよるほど掴んで必死に息をしている。
全身から冷や汗が噴き出していた。
八重はこの感覚を知っている――以前森の中でも同じことが起きたのだから。
「結界が、完全に、壊、れ――?」
足元から聞こえてきたうめき声は所長のものだ。「どういう意味だ⁉」と問いただすが、背を激しく上下させる彼からはろくな言葉が出てこない。
答えがあるよりも早く、部屋は暗闇に飲みこまれていた。
まさに突然のことだった。
「夜……?」
誰かがぽつりと呟いた。灰色の石の壁も、天井も、黒一色に塗りつぶされる。色という色が消え失せる。明かり一つない真夜中に放り出されたかのように。
「違う――影だ!」
八重の叫びとともに黒が揺らめいた。部屋中を覆いつしていた暗闇はやがて一点に収束し始める。禍々しい黒は渦を巻いて人型を形成し、部屋の中央に降り立った。
「やっと、壊れてくれた」
影は少女の姿へ。
少し癖のある青い髪。深い海の底のような群青の瞳。八重をまっすぐに見つめて離さない、純粋な少女のそれ。耳に心地よく響く大人びた声。
吸いこもうとした息がひきつった。鮮明によみがえってくる。
八重は一度たりとも彼女を忘れたことがない。
四百年の人生で、ただの一度も。
どれだけ記憶が摩耗しようと彼女のことだけは。
「……淡雪……」
乾ききった喉は自然と彼女の名を紡いでいた。もう何年過ぎたかもわからないのに、昨日呼んだのと同じ声色と感覚で。
淡雪は一瞬だけ八重と視線を交わらせた。
目尻を下げて、唇は声もなく八重の名を囁いた。
「――ッ!」
だが彼女はすぐに目を逸らし、腕を伸ばす。指先からどろりと溶け落ちて黒く染まる。床を這って影が伸びた。人間とは思えない芸当で彼女の身体は拡張される。
「この結界を作ってるからくり仕掛け、もう一つあるでしょう。どこ?」
瞬きの直後、足元から所長が消えていた。彼は目を白黒とさせて呆けた声しか発せない。淡雪の目の前へと攫われていった彼は、空中にぶら下げられていた。
「は……え? あ、え?」
宙高くに吊られた所長はじたじたと足を動かすが、淡雪の視線は冷ややかだ。
「早く教えて。あれが残っていると、自由に動けなくて困るの」
「き、貴様は、どこの町の……」
「教えてくれないなら、もういい」
彼女のもう片方の手も黒く染まり、鋭い刃へ変わる。迷わず首筋に押し当てた。殺意――というには乾燥しすぎていた。まるで道端の石ころでも蹴飛ばすような無感情さだ。
「…………」
異様な光景に誰も動けない。
八重もまた硬直していた。恐怖ではなく、混乱で。
淡雪という少女は確かに存在していた。彼女と過ごした時間は八重の途方もない人生の一部分でしかなかったけれど、かつてこの世界で生きていたのは間違いない。
そう、生きていた。
――つまり死んだはずだ。
八重が彼女と過ごしたのは百年以上前だった。死んでいなければ辻褄が合わないのだ。ましてやあの頃とまったく変わらない姿でいるなどありえない。そんなことが起こるはずがない。
偽者?
まっさきに浮かんだ考えは直感によって否定された。口調、振る舞い、ちょっとしたしぐさの癖があまりにも似すぎていて、とてもそうは思えない。何より八重を視界に入れたとき反応があった。名前を呼ばれた。八重、と。
「――っ!」
たまらなく懐かしくて、悲しくて、切なくて、悔しくて、愛おしかった。
理性が崩れ落ちるのが分かった。亡霊が八重の何もかもをかき乱して、壊して、鮮烈な痛みだけを残していく。眩暈がした。目の奥がくらりとして、足元がおぼつかなかった。
「……面倒だし、全部壊せばいいか」
所長の身体がどさりと無遠慮に落とされた。首には絞められた跡がくっきりと残っていて、彼は激しくむせている。淡雪は見向きもせずに指先から影に変化させた。地下室の奥にある機械へ伸ばす。
ごくりと喉が鳴った。他の結界まで破壊されたら何が起こるか想像がつかない。頭では分かっているのに手も足もピクリとも動かない。動かせない。痺れたみたいに小さく震えるだけだ。
淡雪を守らなければならなかったのは、あの日あの時までだ。
今の八重の背中には契約印が刻まれている。
自分に言い聞かせ続ける。
淡雪は敵だ。
五番町を傷つけるかもしれない、敵だ。
敵。動け。
動け、動け、動け――。
「――どちら様か知らないけどさ! もっと平和にいかない⁉」
八重のすぐそばをすり抜ける人影。
チセと祭が弾丸のごとく飛びだした。
黒髪がなびいて宙に広がった。ためらうことなくまっすぐに突っこんでいく。彼女が右手を伸ばすと、「キュ!」という鳴き声とともに槍が収まった。握りしめた彼女は大きく踏みこんで、跳ねた。影に飛びこんでいく。槍を振るう。
「…………ッ!」
硬直が解けて、気づけば駆けだしていた。冷静な考えがあったわけではない。だが今はチセを守らなければならない、それだけで身体が動いていたのだ。
強く床を蹴る。全速力で距離を詰めて、横から回りこむ。視界の端でチセが槍を横に構え、競り合いをしていた。八重は別方向から間合いに飛びこんで鋭く斬りこむ。穂先は影に飲みこまれたが、手元には影を裂いた感覚があった。間違いなく攻撃は通っている。
「八重様、援護いたします!」
「中距離から狙え!」
上段から降ってくる影を受け流した。しかし真横から薙ぐように飛んできた攻撃は避けきれない。数歩下がって衝撃を逃がすが、もう一撃食らってよろける。いったん退いて立て直す。
じりじりと後ずさった。もう息があがっていて汗が目にしみる。
すでに半分人型をとどめていない淡雪。対する八重、チセ。
一対二――まるで勝負になっていなかった。
チセは防戦一方、八重ですらあしらわれているも同然だ。巫女衆に加勢してもらおうにも、チセとすら連携が取れていない現状に加わったところで、同士討ちになりかねない。
「くそ、まずい……」
このままでは負ける。
確信にも似た考えが頭をよぎる。
「――ッ、ぐ!」
チセの身体が宙を舞った。
勢い任せに吹っ飛ばされた彼女は、ごろごろと床を転がった。着地の瞬間は受け身さえ取れていなかった。背中からまとも落ちたはずだ。駆け寄ろうとするがすぐさま影が割りこんでくる。牽制されてチセに近づくこともできない。
「チセ! 無事か⁉」
声だけ張り上げた。返事はない。
攻撃をさばくので手一杯で、助けにいくだけの余裕がない。
うつ伏せに倒れているチセは、しかしゆっくりと片手をついた。ずっしりと重い頭を持ち上げて、交戦を続ける八重と淡雪を視界に映した。
金色に染めあげられた瞳で、見た。
「――止まれえッ!」
絶叫。だが、ただの遠吠えではない。
女王の権能、絶対命令権。
彼女の声は威圧をまといながら二人の耳に届いた。何かが背筋を駆けあがって全身がそわりと粟立っていた。心臓が委縮して肩が震える。それきり身体が指先一つ動くことなく、八重は槍を振りかぶった格好のままで硬直していた。
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