第22話 愛と諦観
夜になると、村の方が煌々と輝いているのがよく見えた。
祭囃子がかすかに聞こえている。八重は屋根の上によじ登って、酒を片手に村を眺めていた。じっとりと生ぬるい夜風が吹き抜けて、長い髪を舞い上がらせる。
「……淡雪、おまえはああ言ったが、祭の日すら誰も会いに来ないのがいい証拠だろ」
薄雲のかかる空を仰ぎ見ながら、ここにはいない彼女に呟く。
「俺は間違っていない。何も」
気味が悪い、と言われたことがある。もうずいぶん昔のことだ。
いつまでたっても同じ顔、同じ身体。皺ひとつ増えないどころか、深く切った指先も瞬きのうちに癒えて元通りになってしまう。周りは日に日に老いていくというのに、八重だけは一人取り残されるように生き続けた。
きっと口に出せなかっただけで、誰もが心のどこかで同じことを思っていたのだろう。
だから生き神なんて呼び始めたのだ。
あれは自分たちとは違う存在なのだと区別するための言葉だ。表面上は敬い、讃えるように八重を丁重に扱っているが、本心では八重を恐れ、けれど追い出してしまうにはもったいないから繋ぎ止めているにすぎない。
ずっと前から気付いていた。
けれど、それでも構わなかった。
もし自分が本当に神か何かなのだとすれば、余計なことは考えずに済む。何を言われようとただ守るだけだ。守って、愛してやればいい。それですべて上手くいくのだから。
八重はごろりと仰向けに寝転ぶ。眠るには蒸し暑すぎる日だった。
ほのかに明るい夜が更けていく――そして事件は起きたのだ。
祭も終わり、翌日の夜。八重がいつも通り剣を片手に屋敷へと戻ってきたのと同じころ、淡雪が駆けこんできた。
よほど急いだのか、喉からヒュウヒュウと息の通る音がしていた。両ひざに手をついて、今にも崩れ落ちそうな恰好で息を整えている彼女は、肩を激しく上下させた。
「淡雪? 今日は伝令の日じゃないだろ。村で何かあったか?」
八重が片手を伸ばして、頬にはりついた髪を梳いてやる。彼女は途切れ途切れの声で訴えた。
「逃げて……」
意味が分からず小首を傾げた。淡雪は縋りつくように八重の着物を掴んで、引っ張った。
「この村から、早く逃げて!」
震える濃紺の瞳は動揺と恐怖に染まっていた。
淡雪は地面に転がっていた剣を引っ掴むと、八重の身体に押し付ける。とっさに受け取ってしまう。彼女は八重の手首を掴んで、問答無用で歩き出した。
わけがわからないまま引きずられるように歩かされる。着崩れた着物をまとって歩く背中に、「おい」と何度も呼びかけた。
「逃げる? なぜ俺が?」
「昨日の、祭の夜――村の子どもが一人殺された」
「――⁉」
八重は足を止めた。彼女はまだ引っ張ろうとするが、細い肩を掴んで無理やり振り向かせた。
「なぜすぐに俺に伝えなかった⁉ おまえはそのための伝令役だろう⁉」
淡雪は視線を合わせようとしない。思わず怒鳴りつけてしまったことに気が付いて、八重は目を見開いた。「悪かった……」と口ごもりながら謝罪する。
「それで、詳細は」
「子どもは一人で村の外に出たところを襲われた」
「野党か、それとも……。あやしい動きをした村人はいなかったんだろうな?」
「祭だったから、誰も村を出ていないはずだって、父様が」
「下手人の目星もつかないとなれば、逃げられる可能性が高いな。とにかく俺が行く。子ども殺しは必ず俺が捕まえて――」
捕まれた手を振りほどこうとするが、淡雪は決して放そうとせず、静かに首を振った。
「その子は、八重を見に行くって言い残して村を出たって」
「……?」
「今、村の男衆が武装してここに向かっている」
右足をわずかに後ろへひいた。
背筋がぞわりと粟立っていくのが自分でも分かった。思考が真っ白になっていく。「どういう、意味だ」とかすれた声で問えば、彼女は唇を噛んだ。
「子どもを殺したのは、八重だということになってる……」
今までの会話から、結論など簡単に想像できたはずだ。
なのにその言葉を聞いた瞬間、心臓が激しく脈打って、呼吸が止まった。
「俺が――この俺が、村の子どもを殺す?」
地を這うような低い声が喉の奥から絞りだされた。
淡雪が肩を強張らせたのが見えたが、一度吐き出してしまえばもう止められない。嘲るように笑って、笑って、そして噛みつくように声を張り上げた。
「そんなことをするわけがないだろ⁉ 俺がどれだけ長い時間おまえたちを守ってきたと思っているんだ! 今さら子どもを手にかける? あり得ない!」
「……八重」
「俺は三百年、ここで生きてきた! おまえたちの代わりに戦ってきた! おまえたちを守ってきた! その俺が村の奴らを殺すなんて、そんなことを――」
「分かってる!」
両手を爪が食いこむくらいに握りこまれた。いつもの彼女からは考えられないほどの乱暴さだ。淡雪は目元を歪ませると、うなだれた。
「私は分かってる……。みんなも、きっと何か勘違いしているだけ」
「あ……」
「追手はすぐここに着く。その前に村を出よう。時間さえあれば分かってもらえるはずだから」
ぐいと手を引かれて、足が一歩前に出る。松明の火もつけることができず、星灯りだけを頼りに進んだ。
着の身着のままで高台を下って、くねる道を辿るように速足で行く。淡雪はずっと八重の手を握って離さなかった。一心不乱に足を動かすばかりで振り返ることもなかった。
八重はほとんどされるがままに手を引かれていた。頭が混乱していて、どうすればいいのか分からなかったのだ。
道の先は草原に繋がっていて、ここを抜ければ隣村の領域だ。八重の腰の丈ほどまで生い茂っている草をかき分けながら、淡雪は懸命に歩き続ける。
淡雪の髪が揺れていた。
高熱の炎のように青い髪が、目の奥に焼きつく。
あともう少しで村の境界を越える――だが目の前に広がっていたのは、弓矢や剣を構える村の男衆たちの姿だった。
「剣を捨てろ!」
一人が声高に叫ぶ。回りこまれていたのだ、と気づくのに時間はかからなかった。
動ける村人をかき集めて馳せ参じたのか、まだ成人もしていないような青年すら混じっていた。彼らの持つ武器の先はそろって八重に向いている。燃える松明の光を受けてギラギラと輝いている。
向けられた視線には、恐怖と嫌悪しかこめられていなかった。
眩暈がした。
八重なりに歩み寄ってきたつもりだった。
けれど三百年の月日が生んだのは、結局そんなものでしかなかったのだ。
「……ああ、そうか」
八重は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。口から出てき言葉はたったそれだけだ。
あれほど激しく乱れていた心も、今では不思議なほど落ち着いていた。細く息を吐いて、淡雪の腕を振り払う。よろけた彼女の背を勢いよく突き飛ばして男衆のもとへやる。それから剣も放り投げて、両手をぶらりと上げた。
挑発するようにニヤリと口角を上げてみせると、一番前にいた青年がわなわなと震えだして顔を大きくゆがめた。他の男が声をかけるのも聞かず、飛び出したかと思えば突進してくる。不慣れなな手つきで握っているのは短刀だ。
八重は一歩も動かなかった。
肩同士が強くぶつかるのと同時に、腹のあたりに衝撃を感じた。濡れるような感触とともに、燃えるような熱が広がっていく。八重の手の甲にぽたぽたと降ってきたのは青年の涙だ。
「俺の、俺の弟はまだ五歳だったんだぞ!」
そうか、という声は嗚咽に変わって零れ落ちた。力なく吐血して、喉に絡まった血を吐き出そうと咳きこんだ。その咳をかき消すように響き渡ったのは淡雪の声だ。
「違う――八重がそんなことするはずがない!」
身体を押さえこまれている淡雪は、足をばたつかせてもがいた。
「私たちはずっと八重を頼ってきた! だから八重はずっと村を守ってきた! みんな知ってるはずなのに、どうして分からないの⁉」
「……あれは化け物だ。いつ裏切って、村を襲ってもおかしくなかった」
「これじゃまるで、私たちが八重を利用してきただけだ――!」
説得する声に向けられたのは、ほとんど同情のような目だった。物分かりの悪い子どもを諭すような、あるいは何かに騙されているのをかわいそうに思うような――そんな目だ。
次第に彼女の声は細いものになっていき、やがては力尽きるように途絶えてしまった。最後に彼女は「許さない」とだけ言って、それきりうなだれて顔を上げなかった。
「許さない…………」
利用してきただけ――淡雪は絶望の表情で叫んだが、その事実に気が付いていなかったのはきっと彼女だけだろう。村人はみんな自覚していたし、八重ですら知っていた。知っていてなお知らぬふりをしてきた。そうすることでしか受け入れられなかったのだ。
そして誰もが見て見ぬふりしていた亀裂が暴かれたのが今日であっただけの話だ。だから今さら怒るだけの資格はなかったし、取り繕うだけの言葉も持たなかった。
「……殺してみろよ」
気圧された青年の手が短剣から離れる。
八重は掴んで、柄を握りなおさせた。口をつくのは煽る言葉ばかりだ。
「殺してみろよ! ああそうだ、俺は生き神で化け物だよ! こんな刺し傷一つで死ぬわけがないだろ! 殺せるものなら、俺を殺し――」
ふっと暗くなった。背後から差しこんでいた光が突如途絶えて、言いかけたままで振り返る。
視界のすべてに黒が広がっていた。
「は――?」
降り注いでいた星明りも、燃える松明の光も、人も、すべてが一瞬にして飲みこまれる。高波が押し寄せるように黒色が広がっていた。どぷんと揺れた。逃げるどころか悲鳴をあげる時間さえなく、八重たちを覆い隠すように押し寄せてくる。
「影だ……」
誰かが呆然と呟いてそれきりだ。吸収と合体を繰り返し、巨大な塊と化したそれは太刀打ちできるような代物ではなかった。一度飲みこまれれば這い出すことは不可能だろう。
一番近くに立っていたのは八重だった。
八重と、そして短刀を握らされたまま、立ちすくんでいる青年がそこにいたのだ。
「くそ――」
思考らしいものは飛んでいた。ほとんど無意識だ。自分の腹に突き立てられた短刀を握って、素早く引き抜く。傷が広がって鮮血が噴き出した。だがすぐに止まって皮膚が繋がっていく。傷も治りきらないうちに短刀を構えながら、青年の胸倉を掴む。
短刀からは八重の血がだらだらと滴っている。
視線がかちあった。彼は血の気を失った顔で八重を見ていた。
「や、やめ……!」
「……いいから口閉じてろ!」
こんな事態になっても、恐怖の対象は八重である。
足を肩幅よりも大きく開いて、右腕を力ませた。息を止めたままで全身を一気に傾け――青年を投げ飛ばす。宙を舞った青年は勢いのままに吹っ飛んだ。草むらに叩きつけられ、呻きながら身体を折り曲げているが、影との距離が一気に離れた。村人たちが駆けつけている。
八重は軸足を回転させて影へと向きなおり、短刀を投げつけた。
わずかにひるんだ隙に駆けだして、自分が投げ捨てた剣を掠め取る。
構えて、八重は立ちふさがった。
村人たちを庇うために立って、そこから動くことなく目の前の敵を見据えた。
「…………」
裏切られた、と思わなかったわけではない。
八重がしてきたことは何一つ実を結ばなかった。
それを悲しいと感じないほど、にぶくできてはいない。
それでも生き神などと呼ばれる自分を受け入れたときから、するべきことは決まっていたのだ。
たとえ受け入れられなくても尽くしてきた。優しくしてきた。守ってきた。向けられているのが嫌悪の眼差しでも構わないのだと言い聞かせながら、ずっと生きてきたのだ。
だから見殺しになどできない。それは今までの三百年を否定することになる。
「――誰でもよかったんだろ、なあ」
自分自身に向けて嘲笑する。
敵でもいい、守るのだ。
愛そうと決めたのだから。
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