第21話 八重



 途方もなく長い時間を揺蕩うように生きてきた。




 八重は子どものころ、何の異能も持たない少年だった。


 異能を持たない住人はそう珍しいものではなかったし、八重自身どちらでも構わないと思っていた。あれば便利だけれど、なくて困ることはなかったのだ。八重が持っていたものといえば父親譲りの紫の瞳と、母親譲りの銀髪だけだ。


 普通に田畑を耕しながら、普通に剣と弓の扱い方を習って、普通に、ただ普通に生きていた。それだけで幸せだった。ありふれた、けれど満ち足りた生活だった。


 そんな八重の人生が一変したのは二十五歳のとき。

 誕生日を迎えた真夜中、自身の異能が発動したのを自覚した。


 八重には異能がなかったのではなく、ただ存在も扱い方も気が付いていなかっただけで――それは八重の意志など無関係に発動した。


 ついたはずの傷が、瞬きするうちに消える。

 いつまでたっても歳を取らない。

 常時発動、制御不可能。


 不老不死――それが八重に与えられた史上最悪の異能だった。






 異能が発動してからは、軽い気持ちで影狩りを始めた。


 影狩りはときに命がけにもなる大仕事だ。傷が治る八重がかって出るのは自然な流れだった。最初は怪我をすることも多かったが、時間とともに慣れた。村の住人は誰もが喜んで八重を頼って、八重もさして悪い気はしなかった。村人守って感謝されるのは単純に嬉しかったし、それが自分の居場所にもなっていたのだ。


 それでも周囲の者は一人、また一人と死んでいく。両親どころか、同い年だった住人や自分より後に生まれたはずの赤ん坊まで年寄りになり、墓石の下へ。


 気が付けば、八重の子ども時代を知る住人はいなくなっていた。


 八重の身体は衰えることなく、何十年前たっても紫の瞳は色あせない。周囲の世代だけが移り変わる。八重の繋がりはだんだんと曖昧で希薄なものになっていく。


二百年が過ぎたころ、八重を頼る声は尊敬と畏怖の入り混じったものへとなっていた。


 そして八重はいつしか、生き神と呼ばれるようになったのだ。







「――こんな神がいてたまるかよ」


 八重は片肘をつきながら息を吐いた。


 何となく村にいづらくなって、遠くの丘で暮らしながら影狩りをしていたら、いつの間にか神様に仕立て上げられていたのだ。しばらく顔を出さず適当に生きていたらこれだ。


 とはいえ三百年生きていることは事実だし、それで村に受け入れてもらえるなら安易に否定もできず、先延ばしにしているうちにそれらしい振る舞いだけが身についてしまった。


「それで、村の様子は?」

「魚がたくさん獲れた。干物にして持ってきたから、また今度食べて」


 八重の屋敷――村では社と呼ばれているらしい――の縁側に腰かけた少女は短く返した。


 彼女は淡雪と名乗った。


 村長の子の一人で、異能を持たない住人だ。前妻の娘という微妙な立場ゆえか、彼女は八重との伝令役を命じられている。彼女の仕事は、数日に一度、村と八重のもとを往復してそれぞれの様子を報告することだ。

 八重にとっては歴代三人目の伝令役である。


 彼女はやや癖のある柔らかな髪をなびかせながら、振り返った。


「あと今日は夏の祭りだから、朝から準備で忙しい」

「ああ――もうそんな季節か」


 庭は大輪の花で埋め尽くされている。日差しは肌をじりじりと焼くように照り付ける。八重は「今年も早いな」としみじみ呟いた。


「最近はますます時間感覚がなくなってきたよ」

「八重はすぐ年寄りみたいなこと言う」

「じじいだからな」

「でも私のおじい様より元気。昨日も剣を振り回しながら徘徊してた」

「俺をボケた狂人みたいに言うな」


 それではただの不審者だ。八重は顔をしかめながら丁寧に訂正した。


「影を狩っておかないと、おまえらが漁に出かけるときに危ないだろ。祭だったらなおさらだ。夕方にはもう少し足を伸ばすから、村長むらおさに伝えておけ」


 汗ばむ首回りを手で扇ぎながら返した。


 八重は基本的に暇人だ。生活に必要なものは淡雪を通して村から届くし、何か特別な仕事があるわけでもない。ただ八重は自分がそうしたいから影を狩り、村は八重を祀り拝める。そんな関係がもう数百年続いている。


 八重は冷えた茶を出してやると、彼女の隣に座った。


「笛、持ってきたんだな」


 彼女の手元に視線をやりながら言った。彼女の小さな手のひらは、艶やかな木で作られた横笛を握っていた。


「今年の祭囃子は、私の番だから。練習しないといけない」

「なら今吹いてみろよ。暇つぶしついでに聞いてやる」

「……失礼」


 彼女はむっと唇を結んだが、八重が指で床をとんとん叩くと、笛を口元に持っていった。


 柔らかく息を吹きこんで、一音鳴らす。清らかに伸びる音が夏の庭に響き渡った。彼女の指が踊るように動く。八重は目を閉じたままで聞いていた。


「音、ずれたぞ」


 淡雪はわずかに眉を動かしたが、八重は「続けろ」と短く言う。

 茶器についた水滴が伝って床を濡らした。ひやりと冷たいそれを八重は指で拭った。


 長い一曲が終わって、彼女の唇が唄口からゆっくりと離れた。横目で見てくるので、八重は何ら取り繕うことなく感想を口にした。


「改善の余地ありだな。音が微妙に低い」

「みんな、そんな細かいこと言わない」

「残念ながら俺は言うんだよ」


 八重は片膝を立てた。「なんといっても生き神様なんでな」と冗談めかして言えば、淡雪に「ただのおじいさんでしょう」と冷たく返された。そりゃそうだ、とゆるく頷きながら腰を上げる。


 一度廊下を通って部屋に戻り、立てかけてあったものを片手に縁側へ戻った。彼女のそばに腰を下ろして、バチとともに構えた。


「……三味線?」

「伴奏してやる」


 年代物なのでやや埃くさいが、弦は切れていなかった。弦を何度かはじいて手早く音階を合わせた。慣れた手つきで調弦を済ませると、呆然とした様子の淡雪に声をかける。


「どうした? おまえが吹かないと始められない」

「八重、三味線弾けるの?」

「昔は俺も祭囃子をやったんだよ。……もう百五十年くらい前の話だけどな」


 バチを握る手に力がこもった。まだ村に住んでいたころは奏者としてよく参加していたのだ。


 視線で急かすと、淡雪がたどたどしく笛を吹き始めた。だが視線は依然として八重の手元だ。駆け足になってしまっている演奏を正すように、八重は重く弦を鳴らした。


 高くゆったりと響く笛の音に、三味線の軽快な音が合わさった。


 八重自身、自分で弾くのは久しぶりだったが、今でも指が覚えていた。思い出そうとするよりも先に指が弦を押さえていて、バチを振り下ろす。


 音が心地よく混じりあっていった。

 余計な考えはだんだんと消えて、音にだけ意識が向けられる。


「――」


 不意に、音が止んだ。

 淡雪は手を止めると笛を下ろした。八重も思わず弦を押さえる指を離して、隣を見る。


「淡雪?」


 返事はない。代わりに八重の右肩に重みがかかった。彼女の髪が首筋にかかってくすぐったい。淡雪は遠慮がちにもたれかかってくると、目を合わせないままで呟いた。


「――ねえ、八重。どうして村に来ないの?」


 か細い声だったはずなのに、やけに耳に残る。

 目を見開いて、息を詰まらせた。身じろぎもできずにいると彼女は続ける。


「八重は寂しくない?」


 こんなところに、一人で。


 胸の奥が痛いほどに収縮したのが分かった。顔に出さないでいようとするのに、唇がかすかに震えてしまう。弱く噛んで、平静を保つ。


「――俺は」


 上ずった声は途切れた。庭から音色が消えて、夏の虫の鳴き声だけが響いていた。


「俺は、これでも上手くやれているんだ」

「上手く?」

「そう、上手く」


 唇は強張ったままで弧を描いた。庭先の花を見つめながら淡々と言う。


「一番いい形なんだよ、これが。俺は一人で気楽にやれるし、村にいる奴らは影を狩ってもらえるって喜んでる。お互い深く干渉せずにいられる。おまえらは俺を必要以上に恐れる必要もない。……分かるだろ?」


 長いこと生きてきた。

 永遠に若さを保ち、深い傷さえたちまち癒えてしまう身体でずっと。


 向けられる視線は畏怖であり、時には恐怖や忌避でもあった。単純に他人と違いすぎるのだ。それが武器の扱いにも慣れた武人ならなおさらだ。


 それでも八重が村にいられるのは、生き神という役割に徹して、村を守り続けているからだ。もしただの住人に戻ってしまったら今の関係性は崩れてしまう。

つまるところ利害の一致である。


 淡雪はかぶりを振った。八重の着物の袖をぎゅうっと掴んで離さない。


「みんな、八重に会わないから分からないだけ。一度村に来てみればいい。今日は祭だから大丈夫。私たちはちゃんと八重に感謝してる」

「二十年前にふらっと顔出したときには、引きつった笑顔で歓迎されたけどな。おまえの父親なんかは特に」


 鼻で笑って「俺もあれで懲りた」と付け加えた。わずかな期待をこめた結果が、あの痛々しい空気だというのなら、もう二度と味わいたくない。ここから眺めているだけで満足だ。


 首筋に顔をうずめる彼女をやんわりと引きはがして、八重は三味線を置いた。


「もういい時間だ、おまえは帰れ。俺も暗くなる前に影を狩りに行くから」

「八重」

「……気が向いたら、何十年後かにはな」


 縁側の柱に立てかけていた剣を手にしながら、地面に散らばった草履を足に引っかけた。片腕を懐に入れたままでふらりと歩き出すと、淡雪は勢いよく立ち上がった。


「私は八重を怖いと思ったことなんて、一度もない」


 片手をひらりと振った。その言葉だけで救われるのだ。

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