第20話 桂木邸、炎上


「ごめん、しばらく揺れる」

「正直勘弁してくれ……」


 荒っぽい運転のせいだけではない。毒が全身に回ってきたのだ。


 座っているはずなのに上下左右が分からなかった。ひどい頭痛で目の奥が痛かった。手のしびれは腕まで広がっていて、感覚がぼんやりとしている。

 背もたれをがっしりと掴んでいたはずの腕は、いつの間にかずり落ちて力なく揺れていた。


 全身が燃えるように熱い。

 吐く息は震えていた。


 やがて視線も落ちてしまった。チセの足元でペダルを踏む祭が、じっとこちらを見ている。何もかも見透かすような瞳だ。「なんだよ、その目は。まだくたばる予定はねえよ」と毒づいた。


 急に何もかもがおかしくなってきて、八重は顔をのけぞらせて嘲笑った。


「死なないんだよ、俺は。こんな安い毒で死ねるならとっくの昔に死ねたよ」


 ガラスの向こうがぼんやりとしていて、見えるはずのないものまで見えてくる始末だ。


 ゆらりと揺れる陽炎のような人影が、じっと八重を見つめていた。だんだんと明確な形を取り始める。少女の形をしたそれは、海の底のような深い紺色の瞳を向けていた。


 もうずっと昔のことだ。それでもときどき夢に見る。

 八重の一生の中で彼女を忘れたことはなかった。


「……なんだよ、淡雪。俺に言いたいことがあるなら言えよ……」

「八重?」

「はは、まだ生きてるよ。便利な身体だよなあ。生き神なんてよく言ったもんだ――」

「ねえ、八重。私の声聞こえてる? ねえってば!」


 トントンと肩を叩いた。八重は反応を示すことなくけたけた笑っている。宙を見上げて、いもしない誰かに語りかけているのだ。チセは片方の手で肩を揺さぶるが、うわ言は止まらない。


 気味の悪いひとり言が続く。瞳孔は開き切っている。


 明らかに正気ではない――。


 祭は甲高く鳴いたがその声すら耳に入っていない。チセは乾いた喉をゴクリと鳴らして視線をさ迷わせた。汗のにじんだ手のひらをぐっと開く。

 そして八重の頬めがけて強かな平手打ちを食らわせたのだ。


「――ッた!?」


 鼓膜まで響くようないい張り手だった。


 思わず八重の目の焦点が合った。両目を白黒させているうちにチセは前を向き直る。


「……ちょっと黙ってて! 本当に事故るから!」

「あ、ああ……」


 戸惑いがちに頷いた。正気を取り戻したはいいが、何が起こったのか分からない八重は、「暴力はやめた方がいいぞ」とかすれ声で言った。


 坂を下り落ちるようにして進む。車はついに森を抜けた。境に張られた縄を引きちぎりながら、木々の間から飛び出した。


「どこへ行けばいい⁉」

「桂木邸……すぐそこにある……」


 歩けば距離があるが、アクセル全開で走り続ける車の速度ではないも等しい。


 ひときわ大きい屋敷が見えた。小さな池までしつらえた広々とした庭では、桂木が花に水をやっていた。蕾をつけ始めた低木は、水滴に触れてつやつやと輝いている。

 優雅な夕暮れ時を過ごしている桂木だったが、轟く異音にふと顔を上げた。


 きょろきょろと見回してやがてガラス越しの八重たちを見た。度肝を抜かれたのか、その手からはじょうろがぽとりと落ちる。


「あそこだ――祭、アクセル踏むのやめて!」


 祭は身体を引いた。ペダルはゆっくりと上昇する。

 八重はシートベルトをわしづかみにしながら、わずかに首を傾げた。


「全然止まってなくないか……?」


 八重は嫌な予感がしていたし、それはチセも同じだっただろう。


 確かに減速こそした。しかしこれまであり得ないほどの加速を続けていた車は、そう簡単に止まらなかったのだ。ぐんぐんと近づいてくる桂木邸に、八重は徐々に目を見開いた。


「――このままだと突っこむぞ!?」

「祭、ブレーキ! ブレーキも踏んで!」

「きゅう?」


 外の様子がまったく見えていない祭は、呑気に可愛らしく鳴いた。悠長にしていられる状況ではない。チセは「左のやつ!」と叫んだ。チセと向かい合うようにして座っていた祭は、意味が分からなかったのか、同じペダルを踏みつける。


「ああっ、違う、そっちはアクセル!」

「また加速したぞ! どうするんだ!?」

「大丈夫ここから何とか――ならないね!? 桂木さんごめーん! 来世でも元気でね!」

「秒で諦めの姿勢に入るなよ、多少は粘ってやれ!」 


 車輪の回転は止まることなく、桂木邸の敷地へと踏みこんだ。彼が丹精こめて育てていた低木は一瞬にして土の肥やしへと変貌した。


 我に返った桂木は一目散に逃げていく。草履を片方落としたが、そんなことにも構っていられないらしい。全力疾走している彼を見ることは今後おそらくないだろう。


「この際桂木はどうでもいいとして、この勢いだと裏の民家まで突き抜けてしまう……」

「桂木さんはいいんだ?」

「最後の手段だ、塀にぶつけてでも止めろ……!」

「了解!」


 彼女はハンドルをぐるりと一回転させて、邸宅を囲んでいる塀へと方向転換した。真正面からまともにぶつかっては助からないので、側面から擦りあてるように接触させる。


 ガリガリと金属の削れる音と、赤い火花が散った。ミラーが吹っ飛んではるか後方へ転がっていく。上下に激しく揺らぶられながらも、チセは強気にハンドルを切った。


「いっ、ける!」


 摩擦で勢いが削がれていく。

 だが上がりきった速度を殺しきれない。


 タイヤの回転は止まらず、それどころか塀に擦れたタイヤが焼き切れてパンクした。操作しきれなくなって、チセはハンドルにしがみついたまま必死に進路を正そうとする。

 けれど努力の甲斐なく、蛇行する車は塀から離れていった。目の前に迫ってくるのは邸宅だ。


 チセはめいいっぱいハンドルを回した。だがタイヤは地面を横滑りするだけだ。


 真正面から衝突する。


 歯を食いしばった彼女は両目を見開いたまま、しかし寸前までハンドルを離さなかった。


 だがこのままぶつかれば彼女は無事ではすまない。

 もうここが限界だ――八重はベルトを外すと身を乗り出した。


「チセ、こっちを向け!」

「え」


 彼女が不意に視線を向けた。その瞬間首根っこを掴んで無理やり頭を下げさせる。反射的に顔を上げようとするのを抑えつけて、抱きかかえるようにして自分の身体で覆い隠す。


 車は進路を変えることなく走り続ける。

 邸宅はぐんぐんと目の前に迫り――衝撃に全身が叩きつけられた。







 目の前には桂木邸の居間が広がっていて、彼自慢の掛け軸がひらりと風に飛ばされる。風流というには無理がある光景だ。

 

 車は半分以上家の中にめりこんだままで停止していた。


 土煙の漂う中、八重は扉を押し開けた。ほとんど倒れるように外へ転がり出た。腕に抱いたチセと、服に捕まっていた祭と、足がもつれあってそのまま地面に伏せる。


 日は地平線の向こうへ沈み、空は真っ赤に燃えている。


 ついでに桂木の邸宅も燃えていた。


「よお、桂木……。急いでいたんで縁側から入らせてもらったぞ」


 片手を上げる八重に、桂木はもはや怒りの感情すら追いつかなかったのか、ぽかんとした顔のまま「次は勝手口から上がってくれると嬉しいな」と呟いた。


「花に水やりしてたら、僕の屋敷が半分弱持っていかれたんだけど……」

「そろそろ建て替え時ってことだな」

「君よくそんな他人事みたいな顔できるね? そういう才能?」


このまま文句を言わせていたら修理費を吹っかけられそうなので、八重は懐を漁って、奪い取ってきた資料を掲げて注意を逸らせた。


 紙束の一枚目には血がしみこんでほとんど読めないが、かろうじて読めるタイトル部分に、桂木の目は釘付けになった。「後で好きなだけ読ませてやるよ、ご主人様」と笑う。


 八重は長いため息を吐きながら、両手を大きく広げた。


「死にかけたが、それなりに収穫もあった」


 桂木はそばまで来てしゃがみこむと、血のこびりついた頬を指で拭った。下にあったのは傷一つない綺麗な肌だ。桂木は意地悪く目を細めた。


「君、死なないだろ」

「ああ、そういやそうだったな。忘れてた」


 わざとらしく笑って、握りしめた資料に視線を移す。


 ――絶対命令権付与、およびに強制召喚術式の構築について。


 チセという少女が門をくぐってやってきたこと。本来予想できるはずのない開門を、他の町の住人が待ち伏せていたこと。百年空位の続いていた女王の候補者が突如現れたこと――。


 ずっと不自然だと思っていた。こんな偶然があるはずがない。

 だがもし、人為的なものなのだとすれば。


 一番町による技術と実験は、八重たちの想像よりずっと高度な次元で進んでいて、外の世界との繋がりを自在に生み出し、女王にふさわしい人間を故意に作り出すことができるのだとすれば――チセという存在そのものに理由が付く。


 切れた糸が結ばれていく。

 謎が一つ、切り崩された瞬間だった。

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