第15話 影を狩る(2)
「あ――?」
次の瞬間、衝撃が走った。
チセのもとで空気が震えた。それは円のように広がって、一瞬で八重のもとまで届く。心臓をわしづかみにされるかのような、一瞬息の仕方を忘れてしまったかのような苦しさだ。
目を見開いたまま、槍を持つ手が強張る。全身をすり抜けるように衝撃が起こって、それは瞬きとともに過ぎ去る。
汗がたらりと垂れて顎から落ちた。は、と短く息を吐いた。胸元の服を皺になるまで掴んで浅く呼吸を繰り返す。心臓が思い出したようにドクドクと動いていた。
「チ、セ」
彼女もまた動けずにいた。目元を覆ったまま固まっている。指の間から見える瞳は、ぎらぎらとした光を宿していた。それは異能を発動させたときと同じ眩さで、八重は声を絞り出す。
「おまえ、絶対命令権を、使ったか……?」
「使って、ない……」
祭ももとの姿に戻ってしまっていた。草むらにうもれるように倒れている祭は、弱々しい声で鳴く。どうやらこの場にいる全員が同じ感覚を味わったらしい。
八重は我に返ったように顔をあげた。数秒固まってしまったが、今は戦闘中だ。
動悸が落ち着かないままあたりを見回した。祭もすぐに槍へと姿を変えて、チセの身体を乗っ取る。だが物音一つしない。
「……いないね?」
「ああ、いないな……」
さきほどまで八重たちを取り囲んでいた影は一体残らず消えていた。
森は不思議なほどにしんと静まっていた。八重は穂先を下ろす。確かめるようにうろうろと歩き回り、少し先の方まで行ってみるが見あたらない。
「これも女王の権能か――?」
八重はぽつりと呟いた。
チセが何かをしたと考える方が自然なのだ。
夜の女王は世界を統一する唯一の存在だが、そのもっとも重要な役割は、影を支配することにある。絶対命令権は住人を従わせるのと同時に、影の行動を抑えつけるためにも使われるのだ。何らかの原因でチセの異能が暴発して、影を散らせたのかもしれない。
ただそれでは衝撃の説明がつかない。あの跪きたくなるような圧はなくて、ただ身体をすり抜けるように衝撃だけが走ったのだ。
八重は視線を下げたままで考えた。ぶつぶつとひとり言を呟きながら思考をまとめていく。
そのとき、後ろから袖の端を引かれた。
「……?」
チセだろうか。振り返ろうとして、しかし声の方が早い。
「――八重、向こうは危ない」
八重は呼吸を止めていた。
少女の声だった。だがけっしてチセではない。
チセのものより落ち着いた、耳障りのいい大人びた声だ。八重はその声に聞き覚えがあった。
「――淡雪?」
目を大きく見開き、反射的に振り返る。銀髪が大きくたなびく。
広がっていたのは濃い緑に満たされた森の風景だ。
葉がそよ風に揺られてカサカサ音を立てる。
八重は開きかけた口をゆっくりと閉じた。そして静かに口の片端を吊り上げる。
彼女の声がするはずがないのだ。あり得ないことだと分かりきっていて、それでも振り返ってしまった自分が愚かしい。
八重は大きくため息をついて髪をかき乱した。
狩るべき影がいないなら長居は無用だ。「もう引き上げるぞ」と言いながら視線を巡らせれば、チセたちはもとの場所で大人しく待っていた。背の高い草をかき分けながら戻るが、八重は唐突に顔をあげる。
「……ッ」
空気を切るような音がかすかに聞こえた。
矢が宙を飛ぶ音だ――八重が確信したときにはすぐそこまで迫っていた。
「祭、前方構えろ!」
「えっ⁉」
見上げた時には、大量の矢が空を覆いつくしていた。
黒い雲のようにも見えるそれらは、すべてが八重たちめがけて飛んでくる。チセの腕が反応して槍を構えた。だがやや遅い。八重はチセの前に躍り出た。
すべて弾き飛ばすしかない――八重は全力で槍を振るう。
振るったが、次の瞬間、目の前は炎で覆われていた。
「…………は?」
遅れてブンッと音がする。八重の槍は気持ちのいいほどに空ぶっていた。
横から割りこむように飛んできたのは大量の火矢だ。空中で勢いよく燃え上がって、襲ってきた矢をまとめて消し炭にしてしまった。
八重もチセも、おそらく祭まで唖然とした顔で眺めていた。
「……あっつ!」
チセよりも前にいた八重は大量の燃えかすを浴びることになり、羽織は焦げて大穴が開いた。八重はひどく迷惑そうな顔で自分を見下ろす。
「一瞬にして俺の羽織が半分なくなったんだが……」
「こ、これも影がやることなの? 八重への嫌がらせ?」
「いや、あいつらに高度な攻撃はできない。最初の矢はおそらく境界の向こう側からで、割って入った火矢の方は――」
視界の端で何かが動いた。木の葉を揺らすような音がする。人影は木々を飛び移りながら、だんだんと近づいてきた。
「八重様、ご無事ですか!」
「おかげさまで羽織以外はな」
真上から降ってくる声に、八重はじとりとした視線を返した。
木の枝につかまっているのは弓を持った女だ。
彼女は「わたくしの不注意でそのようなみすぼらしい姿に……」と申し訳なさそうな顔で言うが、どちらかといえば彼女の言葉が追い打ちである。八重は無言で羽織を脱ぎ捨てた。
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