第2章
第12話 肉も焼けない用心棒(1)
八重は三階建ての古い家を与えられている。たびたび雨漏りするのが難点だが、町内会から家賃を免除されているので悪い条件ではなかった。
八重は結った銀髪を後ろに流した。手早く袖をたすきがけにして包丁を握る。いつものように食材を切ろうとして、しかしはたと手を止めた。
「野菜炒めが三日三晩続いているしな……」
まな板の上に乗っているのは今日とて新鮮な野菜だ。
自分で食べる分には何であろうと一向に構わないし、もともと祭の苦情は聞かないことにしている。だが食べ盛りのチセがやってきた以上、まったく同じ食事を出すのははばかられる。
もし桂木に知られれば、「だからうちで預かるって言ったじゃん」と言われかねい。何よりチセが文句こそ言わないにしろ。黙ってもそもそと食べている光景にはさすがに良心が痛んだ。
とはいえ八重は野菜を焼く以外の調理法を知らないので、まな板の前に立っていても永遠に解決しない問題である。
しばらく腕を組んでいたが、葛藤の末こっそりと玄関から出て、一軒隣の戸を叩いた。
「八重さんじゃん。どしたの、こんな昼時に」
「肉を焼きたいんだが」
「好きに焼けばいいんじゃないっすか……?」
隣人である青年は盛大に首を傾げていた。八重もさすがに言葉足らずだったことを反省し、「今から昼飯なんだが、肉を焼きたいんだ。だがどうすればいいか分からない」と説明した。
「いや、新しい情報が何一つ入ってこないんですけど」
「おまえも肉の焼き方を知らないのか?」
「そんなん、鉄板に乗せればそのうちできるっしょ」
「そんな雑な調理法を教えて、俺が肉を駄目にしたらおまえの責任だからな。覚えとけよ」
「あんた急に押しかけてきて何なんですか?」
青年――織部はそれなりに迷惑そうな顔で言った。彼は学者の見習いとして日々勉強をしている身だ。順調に昼夜逆転し始めている彼は、まだ起きたばかりなのかあくびを漏らしていた。
「急に料理とか、あの子の影響です? ええと、チセちゃんでしたっけ。可愛い子ですよね」
「…………」
「何すか、その微妙そうな顔。あんな子と一緒に暮らせるとか羨ましい限りじゃないですか! あー、いいなあ。俺のところに来てほしいくらいですよ。用心棒なんてのも役得ですねえ」
織部はのんきにも大きく首を振った。
彼――というよりも町の住人にはチセの正体について知らせていなかった。彼女が他の町から狙われていることはおろか、女王の権能を持つことすら知らないのである。
織部から見れば、八重のもとに突然可憐な少女が転がりこんできて居候になっただけなのだ。
織部は一度家の中に引っこむと、大皿にいくつかの料理を乗せて戻ってきた。端には小さな菓子も乗せられている。彼は押し付けるように突き出した。
「昨日の残り物ですけど。今日のところはこれでもどうぞ」
「……お、悪いな」
「貸しなんで。手が空いたら屋根の瓦を直しに来てくださいよ、用心棒さん」
「仕方ないな。明日にでもやる」
八重は屋根を見上げながら言った。この前の強風で瓦が数枚吹っ飛んでしまったらしく、ところどころ欠けている。本来屋根を直すのは八重の仕事ではないはずだが、五番町の住人からは便利屋のような扱いを受けているので、こういう依頼はしょっちゅうだ。
八重は大皿を持ったまま抜き足差し足で戻り、再び厨房に立った。
「…………」
そしてさも八重が作ったかのように皿に移し、いそいそと居間のちゃぶ台に並べた。まごうことなき偽装工作である。
「チセ、祭! 飯ができたから手ェ洗ってこい!」
大声で呼びかければ、縁側からチセが顔をのぞかせた。
先日桂木から送られてきたばかりの五番町の衣裳を着ている。着物をベースに、少女人気が高いという短丈の袴が合わせられていた。動きやすそうな恰好は彼女によく似合う。
「こっちも洗濯物干し終わったよ。ね、祭」
「きゅい!」
どたばたと騒がしい足音が響いたかと思えば、手を洗う水の音がして、また足音。ちゃぶ台の前に滑りこんだ彼女はパンッと両手を合わせた。
「いただきます!」
八重も手を合わせてから箸を持つ。チセは皿を眺めると目を輝かせた。
「今日は野菜炒めじゃない! やった! なんで他の食べたいって思ってたって分かったの?」
「あんなもの言いたげな目で見られてたら誰でも分かるだろ」
「しかも味が濃くて美味しい! 八重のごはんっていつも薄味で、おじいちゃんみたいなんだもん。もっと調味料入れた方がいいよ」
「悪かったな、食の好みがじじいで。だが作った人間の目の前でドボドボ醤油かけてたおまえもどうかと思うぞ」
「だんだん病院食にしか見えなってきて……」
チセは煮物の大根をほおばりながら目を逸らした。事実なので否定できないが、居候のくせにずいぶんな言いぐさだ。八重が眉をぴくりと動かすと、チセは誤魔化すように苦笑いした。
「そうだ、今度は私が作ってあげるよ。結構上手いんだよ」
「料理の仕方は覚えてるんだな」
「一般常識みたいなのはあんまり忘れてないんだよね。自分のことは名前と年齢くらいしか分からないんだけど。ね、八重って何歳?」
「…………二十五」
「私、十六! 祭は何歳かなあ」
「さあな。もうよぼよぼの爺さんなんじゃないのか?」
八重はからかうように言った。するとチセの隣で食べていた祭は無言で身体を起こし、かと思えば鮮やかなまでのドロップキックを炸裂させた。額に直撃したので、八重は仰向けに倒れていく。
げしげしと蹴り続ける祭は、日ごろのストレスを発散させているようだった。
「め、めちゃくちゃ嫌われてるじゃん……」
「こいつ、このっ、おまえを今日の晩飯にするぞ!」
ほどほどのところでチセが腕を伸ばして、後ろから祭を抱き上げた。祭はしばらく足をばたばたとさせて蹴り足りないとでも言いたげだったが、チセの「ご飯冷めちゃうよー」という言葉に、大人しく食事に戻るつもりになったらしかった。祭はチセのことが気に入っているのか、足にすりよって頭をこすりつける。
「じゃあさ、明日のご飯は私が作ってもいい? 代わりに八重が洗濯やってよ」
「先にはっきり言っておくが、俺は俺の作ったものしか食わない」
「なんでよ」
「…………毒が入っていても分からないだろ」
「用心棒ってそんなことまで警戒しなくちゃいけないの? 物騒すぎない?」
ごちそうさまでした、と手を合わせたチセは、自分の皿を片手に立ちあがった。
「遊びに行ってきていい?」と訊いてくる彼女に、八重は箸を持ったままで返した。
「昼から仕事だって言っただろ。もう忘れたのか」
「あっ」
彼女は間抜けな声をあげた。
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